第5話 誰も知らない執務室

 王城から少し離れた場所に、古い石造りの家があった。


 豪奢とは程遠い。

 飾り気のない壁、軋む階段、狭い廊下。

 城下に数多ある住居のひとつでしかない。


 夜。

 窓から差し込む月明かりの下、子ども用の机に二つの影が並んでいた。


 年の頃は、まだ小学生ほど。

 兄と妹。


 兄は椅子に深く腰掛け、肘を机につきながら、何枚もの紙に目を走らせている。

 難解な文字と数字が並ぶその内容は、年齢不相応という言葉では足りなかった。


 妹は机の端に座り、足をぶらぶらと揺らしながら、小さな板に何かを書き留めている。

 表情は無邪気に見えるが、その目は鋭く、紙の向こう側を正確に見通していた。


「……南部の動き、想定より早い」


 兄が低く言った。


 子どもの声だが、そこに迷いはない。


「港町の噂、もう回り始めてるよ」


 妹は顔を上げずに答える。


「食糧価格だけじゃない。『王が民を見捨てている』って話も混ぜられてる」


 兄は小さく息を吐いた。


「外と内を同時に揺らす。分かりやすい手だ」


 机の上には、王城から上がってきた報告がまとめられている。

 文官の記録、商人の動き、近隣国の動向。


 それらはすべて、一度、別の手を経由してここに届いていた。


 扉が、静かにノックされる。


「失礼いたします」


 入ってきたのは、あのメイドだった。


 王城では控えめに振る舞う彼女は、ここでは余計な礼を省き、必要な距離だけを保って立つ。


「国境付近の件、報告がまとまりました」


 兄は顔を上げる。


「表の反応は?」


「まだです。王子殿下は、これから正式な報告を受けられる段階かと」


 妹はくるりと椅子を回し、メイドを見た。


「じゃあ、今がちょうどいいね」


 兄は頷く。


「軍は動かせない。動けば、相手の思う壺だ」


「でも、何もしないのも危険」


 妹が続ける。


「だから、“何かしているように見せる”。監察団。少数で、名目は交易路の安全確認」


 兄は即座に補足する。


「国内には王命。食糧の緊急放出と価格統制。

 民は『見捨てられていない』と感じれば、暴れない」


 妹は板に書いた文字を指でなぞった。


「噂の流れも、こっちで少し変える。

 “若き王は動いている”ってね」


 その会話は、まるで将棋の手順を確認するかのように淡々としていた。


 メイドは一礼する。


「では、そのように取り計らいます」


 彼女は、兄妹の言葉を自分の言葉に変えて王城へ届ける役目を負っている。


 兄は一瞬だけ、視線を伏せた。


「……あちらに、余計な負担はかからないか」


 “あちら”が何を指すのか、説明はいらない。


 メイドは首を横に振る。


「ご安心を。王子殿下と王女殿下は、命じられた判断を“ご自身のもの”として受け取られます」


 妹は小さく笑った。


「それが、あの人たちの役目だから」


 兄は何も言わなかった。

 ただ、机の上の紙を一枚、裏返す。


「……始めよう」


 その夜、王城では“賢明な判断”が下される。


 だが、その言葉が形になるより前に、

 この小さな机の上で、すでに結論は出ていた。


 数日後。


 国境は静まり、国内の不満は霧散した。


 報告書を読み終えた兄は、深く息を吐く。


「予定通りだ」


 妹は椅子から立ち上がり、背伸びをする。


「うん。表はきっと、英雄扱いされてる」


 窓の外では、遠く城下の灯りが揺れていた。

 祝祭の気配が、ここにまで届いてくる。


「……学校、明日あったよね」


 妹が思い出したように言う。


「ああ」


 兄は書類を整えながら答えた。


「算数の小テストだ」


「やだなあ」


 その言葉は、年相応だった。


 影の玉座に座る兄妹は、

 机の明かりを消し、子どもとしての夜に戻っていく。


 国が救われたことを、

 誰にも知られないまま。

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