第4話 英雄

 国は、救われた。


 その事実は、誰の目にも明らかだった。


 国境付近での衝突は起きず、近隣国との関係はむしろ安定した。

 国内で燻っていた不満も、王命による迅速な食糧放出によって沈静化し、暴動は噂の域を出ることなく消え去った。


 人々は口々に言った。


「若き王の英断だ」

「この国は、幸運だ」


 城下町では祝杯が上がり、吟遊詩人たちは王子と王女の名を歌に乗せた。

 その声は、城壁を越え、玉座の間にまで届いているかのようだった。


 王子は、玉座に座っていた。


 正装に身を包み、背筋を伸ばし、民を見下ろすその姿は、誰が見ても“王”だった。

 隣には王女が立ち、穏やかな微笑みを浮かべている。


「今回の件につき、国民の皆に感謝する」


 王子の声が、広間に響く。


「混乱の中でも、互いを思いやり、国を信じてくれた。その心が、平和を守ったのだ」


 拍手が起こる。

 歓声が重なる。


 そのすべてが、自分に向けられている。


 それなのに――


 王子の胸には、奇妙な静けさがあった。


 達成感はない。

 安堵も、誇りも、薄い膜の向こう側にある。


 まるで、自分はただの器で、

 称賛だけが中を通り抜けていくような感覚。


 儀式が終わり、玉座の間から人が引いていく。


 最後に残ったのは、王子と王女、そして控えめに距離を保つメイドだけだった。


「よくやったな」


 王女が、小さな声で言った。


 その言葉は優しく、兄を労わるものだった。

 王子は、ゆっくりと息を吐く。


「ああ……国は、守れた」


 言葉にしてみると、それは事実だった。

 誰も死なず、戦も起きず、民は笑っている。


 それでも。


「兄さま?」


 王女が、少しだけ不安そうに顔を覗き込む。


「……何でもない」


 王子は首を振った。


 何が“何でもない”のか、自分でも分からない。

 ただ、胸の奥に沈殿する違和感を、言葉にしてはいけない気がした。


 そのとき、メイドが一歩前に出る。


「本日の務めは、すべて滞りなく終わっております」


 淡々とした報告。

 感情の入り込む余地のない声。


 王子は、その言葉に小さく頷いた。


「……そうか」


 玉座を降り、王子は歩き出す。

 長い回廊を進みながら、壁にかけられた歴代の王たちの肖像画が、視界に入った。


 皆、誇らしげな表情をしている。


(俺も、こう見えているのだろうか)


 その問いに、答えは返ってこなかった。


 夜。


 王城の灯りが落ち、静寂が訪れる。


 王子は寝台に横たわり、天井を見つめていた。

 昼間の歓声が、まだ耳の奥に残っている。


 英雄。

 名君。


 そう呼ばれるたびに、自分の中の何かが、少しずつ削られていくような気がした。


 隣の部屋では、王女も眠りについているはずだ。

 彼女もまた、同じ称賛を浴び、同じ役割を演じている。


 それでも、互いにその胸の内を語ることはなかった。


 語ってはいけない。

 そんな暗黙の了解が、二人の間に横たわっている。


 ――国は平和だ。


 それだけが、確かな事実だった。


 その平和が、

 誰の意思によって、どこで形作られているのか。


 王子は、最後まで考えないまま、目を閉じた。


 光に満ちた玉座の上で、

 英雄と呼ばれる役を背負いながら。

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