第3話 波紋

 異変は、朝の報告に紛れてやってきた。


 王子が執務室に入ると同時に、側近たちの表情が一斉に引き締まる。

 いつもより空気が重い。机の上に置かれた書簡の束も、どこか乱れていた。


「……何かあったな」


 王子がそう言うと、文官の一人が一歩前に出た。


「北西の国境付近で、不穏な動きが確認されました」


 王女は小さく息を呑む。


「不穏、というのは?」


「近隣国の商隊が、武装した護衛を伴って国境を越えようとしています。名目は交易ですが……数が多すぎます」


 王子は眉をひそめた。


「軍ではないのか」


「公式には違います。しかし、彼らの装備は正規兵に近い。こちらの出方次第では、衝突もあり得ます」


 執務室に沈黙が落ちる。

 これは単なる国境トラブルではない。

 一歩誤れば、外交問題――いや、戦争の火種になりかねない。


「同時刻に、国内でも動きがあります」


 別の側近が続けた。


「南部の港町で、昨夜から暴動の兆しが。食糧価格の高騰に便乗した扇動が確認されています」


 王女の手が、膝の上で強く握られた。


「外と内、同時に……?」


 王子はゆっくりと息を吸い、吐いた。


 国境の緊張。

 国内の不満。


 偶然にしては、出来すぎている。


「関連は?」


「断定はできません。ただ、背後で同じ勢力が動いている可能性は否定できないかと」


 側近たちは、王子の言葉を待っていた。

 この場にいる誰もが、次の判断が国の運命を左右することを理解している。


 王子は口を開こうとして――止まった。


 頭の中で、選択肢が浮かぶ。

 軍を動かすべきか。

 外交で牽制するか。

 国内の鎮圧を優先するか。


 どれも正しく、どれも危険だ。


(……どうする)


 思考が絡まり、答えが一つに定まらない。

 これまでの案件とは、明らかに重さが違った。


 そのとき。


 扉の近くに控えていたメイドが、静かに一歩前に出た。


「失礼いたします」


 その声は低く、場の空気を乱さない程度に抑えられている。


「現時点での軍の動きは、相手国に口実を与える恐れがございます。また、国内の暴動も、武力で抑えれば火に油となりましょう」


 王子は顔を上げる。


「では、どうすべきだと?」


 メイドは一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。


「国境については、交易路の安全確認を名目に、少数の監察団を派遣するのがよろしいかと。

 国内については、食糧の緊急放出と価格統制を――“王命”として早急に」


 その提案は、驚くほど整理されていた。

 しかも、両方を同時に処理する形になっている。


 王子の胸に、あの感覚が広がる。


 ――これだ。


 言葉にする前から、正解だと分かる判断。


「……分かった」


 王子は立ち上がった。


「国境には監察団を。軍は動かさない。

 国内には王命を出す。食糧を放出し、価格を抑えろ」


 声はよく通り、揺らぎがない。


 側近たちは一斉に頭を下げた。


「はっ!」


 指示が飛び交い、執務室は一気に動き出す。

 王女は兄の横に立ち、その姿を誇らしげに見つめていた。


「さすがですね、兄さま」


 王子は答えなかった。

 その代わり、メイドの方を一瞬だけ見た。


 彼女は何事もなかったかのように、一礼して下がっていく。


 その背中を見送りながら、王子の胸に、かすかな疑念が芽生えた。


(……今の判断は、本当に“俺の”ものだったのか)


 数日後。


 国境では衝突は起きず、相手国の商隊は予定を変更して引き返した。

 国内では食糧価格が落ち着き、暴動の兆しは消えた。


 王城には称賛の声が溢れた。


「見事な采配だ」

「若き王にして、この胆力」


 民は安心し、貴族は頭を垂れた。


 すべてが、あまりにも理想的に収束していた。


 王子は玉座に座り、拍手を浴びながら、ただ静かに微笑んでいた。


 その胸の奥で、

 自分が立っている場所が、少しずつ空洞になっていくのを感じながら。

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