第2話 揺らぎ

 王城の午後は静かだった。

 謁見の喧騒が去った後の回廊には、風の音と、遠くから聞こえる訓練場の剣戟の響きだけが残っている。


 王子は執務机に向かい、積み上げられた書簡に目を通していた。地方からの報告、税収のまとめ、近隣諸国の動向。どれも重要でありながら、すぐに決断を迫られるものではない。


 それでも、彼の指は時折止まった。


(……本当に、これでいいのだろうか)


 思考が浮かびかけた瞬間、彼はそれを振り払うように紙をめくる。

 考える時間はある。だが、考えすぎることは許されていないような、そんな感覚があった。


「兄さま?」


 向かいの椅子に座っていた王女が、顔を上げる。

 その声は柔らかく、心配を含んでいるようにも聞こえた。


「少し、手が止まっていました」


「ああ……」


 王子は曖昧に笑った。


「問題ない。いつも通りだ」


 その言葉に、王女はそれ以上踏み込まなかった。

 代わりに、彼女は窓の外へ視線を移す。城下では、人々が忙しなく行き交い、露店の呼び声がかすかに届いていた。


「国は、今日も穏やかですね」


「そうだな」


 平和。

 その言葉を口にするたび、王子の胸の奥で、何かが引っかかる。


 ――自分たちは、何をもって平和だと言っているのだろう。


 考えが深まる前に、控えめなノックが扉を叩いた。


「失礼いたします」


 入ってきたのは、いつものメイドだった。

 控えめな所作、視線を下げたままの姿勢。だが、彼女が持つ書類の束だけは、他の侍従とは明らかに違う重みを感じさせた。


「急ぎの報告がございます」


 王子と王女は、同時に背筋を正した。


「入って」


 メイドは一歩進み、机の前で足を止める。


「南部の港町にて、商人同士の衝突が発生しました。表向きは小競り合いですが、背後に貴族の影が見えます」


 王子は頷いた。


「被害は?」


「現時点では軽微です。ただし、このまま放置すれば、民衆の不満が広がる恐れがあります」


 王女は口元に指を当て、少し考える素振りを見せた。


「すぐに軍を動かすほどではありませんね」


「はい」


 その判断は正しい。

 王子もそう思った。だが――


 次に何を言うべきかが、すぐには浮かばなかった。


 沈黙が落ちる。

 ほんの数秒。だが、王子にはそれが妙に長く感じられた。


 その間、メイドは何も言わない。

 ただ、静かに立っている。


 やがて、王子は口を開いた。


「……調停役を派遣しよう。軍ではなく、第三者だ」


 言葉を発した瞬間、胸の奥に、わずかな確信が生まれた。

 これでいい。

 そう思えた。


 メイドは一礼する。


「かしこまりました。その方針で手配いたします」


 王女はそのやり取りを見つめながら、微笑んだ。


「兄さまの判断は、いつも的確ですね」


 王子は返事をしなかった。

 ただ、机の上の書類に視線を落とす。


(……本当に、そうなのか?)


 その夜、王城の灯りが落ちたあとも、王子はなかなか眠れずにいた。


 天蓋付きの寝台。柔らかな寝具。

 何不自由ない環境のはずなのに、胸の奥には、言葉にできない空白がある。


 自分は、決断している。

 国を導いている。


 それなのに――


 「選んでいる」という実感だけが、どこか遠い。


 翌朝、城下ではすでに噂が流れ始めていた。


「王子さまは、民を第一に考えてくださる」

「無駄に血を流させないお方だ」


 称賛の声。

 それは確かに、自分の判断によって生まれた結果だった。


 だが王子は、その言葉を聞いても、胸を張ることができなかった。


 まるで、

 誰かの決断を、自分の口でなぞっているだけのような――


 そんな感覚を、振り払うことができずにいた。

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