第16話

「ニックからは、日没までに道具の片づけまで済ませて、撤収してくれと言われている。いつもは時間に余裕を持って帰宅しているんだけど、今日はぎりぎりまで仕事をするようにするよ。そうすれば充分にカバーできると思う」

 ゾーイは一日あたりの仕事量が増えることを心配したが、

「仕事は明日中に終わらせる契約になっているからね。明日までに仕上げるために、今日明日と無理をするのもやむを得ないよ。むしろ、今日明日の二日だけなら無理もきく。そうポジティブに考えたいかな」

 そう説明すると、理解を得られた。

 僕たちはさらに計画の詳細を突き詰めていく。

 アイディアは惜しみなく出した。懸念点があれば、ささいなことであっても共有した。それらを考慮しながら計画を改変し、構築し、整備していく。

 机上の空論に思えた。思わぬ落とし穴が隠されている気がしてならなかった。頭を使い、時間を費やしているが、そのわりに満足がいくものができていないと感じる。

 自分たちが世間知らずなことを痛感させられた。人を欺くのが得意な人間ではないと気づかされた。時間をかければそれなりのものが出来るかもしれない。でも、たぶん、今の僕たちに一番足りていないのはそれだ。

 ウッドフィールド邸での仕事は明日で終わる。したがって、実行日は明日。先延ばしにはできない。

「もっといいやりかたがないか、僕も検討してみるから、ゾーイも考えておいて。明日の僕の昼休憩の時間――最後のチャンスだけど、そのときにまた話し合って、最終決定を下して、決行しよう。頼んだよ」


 ゾーイを選んだからには、選んだ人と行動をともにする前に、選ばなかった人に対して行動を起こさなければならない。

 昼下がりのティータイムの対となる、午前の小休止の時間。僕とメアリーは今日も、いつもの木陰となる芝生の上に並んで腰を下ろした。

「庭、だいぶきれいになったね。見違えるくらいにきれいになって、なんだか雰囲気が明るくなったよ」

 広々とした庭を見回しながらのメアリーの発言だ。彼女のほうから僕の仕事について触れてくるのは珍しい。今になって気がついたが、いつも彼女との休憩場所に選んでいる現在地は、庭全体を眺めるのにうってつけだ。

「もう明日で最終日だからね。きれいになったって、やっぱりわかるんだ?」

「もちろん。自分が住んでいる家の庭なんて、特に用がなくても毎日眺めるし。使用人としてお礼を言っておこうかな。ありがとうね、ラルフ」

「どういたしまして」

「でもあたし、もうすぐウッドフィールド家から出て行くかもしれないんだよね。ラルフはもちろん覚えてるよね? あたしからの提案」

「もちろん。駆け落ち、だよね。それについてなんだけど」

 メアリーは早々に僕の内心を察したらしく、どこか切なそうに眉根を寄せた。胸が痛んだが、意思が揺らぐことはない。仮に彼女がヒステリックな反応を示したとしても、それは同じだっただろう。

「ごめんね、メアリー。君の提案は魅力的だけど、僕は君といっしょに暮らせない。君が嫌いなわけじゃないけど、でも、いっしょに暮らすのは違うかなって思うんだ。だから、誘いは受け入れられない。それが僕の最終回答だよ。君からどんな説得の言葉をかけられても厳然として揺るがない、最終回答だから」

「……そっか」

 メアリーは大きく息を吐いた。断られたあとではあるが、陰気なため息ではなかった。小さく何度もうなずく。表情からは清々しささえ感じられる。

 罪悪感と自己嫌悪で心が痛い。

 これは必要な嘘なのだ。そう自分に言い聞かせて、平常心を繋ぎ止める。

「もしかして、僕に断られるって予想していた?」

「うん。なんとなくだけど。ラルフってなんか、そういう性格でしょ。保守的で、冒険するのがあまり好きじゃない、みたいな」

「ごめんね、メアリー。僕が君を選ばなかったことで、君は今の暮らしを続けなければいけないことに――」

「ちょっと、やめてよ。ラルフってば、さっきから謝ってばかりなんだけど。せっかく今日で仕事がおしまいなのに、陰気すぎ」

 右の二の腕に軽い衝撃を感じた。メアリーが強めの力で平手打ちをしたのだ。顔は屈託なく笑っている。もともとボディタッチが多かったが、冗談として軽い暴力を振るったのはこれが初めてだ。

「あたしは今の生活が続くのだとしても、別に平気だよ。自由が制限されていて窮屈だけど、給料はたくさんもらっているから我慢できるし、ご主人さまの攻撃の矛先は基本的にはゾーイだし。庭仕事は当分しなくてもいいけど、別の仕事を外部の人間に任せる機会もあると思うから、その人間がラルフみたいにいい男だったら、あなたにしたみたいに駆け落ちを持ちかけてもいいしね。同情されるほうが気持ち悪いから、あたしのことは心配しないで」

「……信じてもいいの? 無理していないよね?」

「してないよ。全然してない。してるんだったら、顔に出てるって。あたしが隠しごとができない性格だって、ラルフはわかっているでしょ」

 僕は首を縦に振ったが、内心では納得がいかなかった。

 メアリーの中で駆け落ちの価値がその程度なのだとしたら、なぜ僕にその話を持ちかけたんだ?

「どうしたの、ラルフ」

 彼女とは反対に、僕は顔に出やすいタイプなのだろう。異変を察したメアリーが下から顔を覗き込んできた。

「物申したいことがありそうな顔をしているけど。遠慮するような間柄じゃないんだし、言いたいことがあるなら言っちゃってよ」

 僕はためらいを感じながらも、抱いた疑問をそのまま口にした。

 聞いているあいだは引き締まっていた彼女の顔が、話し終わったとたんに融けるように崩れた。少しはにかんでもいる。

「憧れがあったんだと思う。駆け落ちとか、そういう恋愛関係のロマンティックな行為に対する憧れが。

 あたし、十代の早いころからここで働いているせいで、恋愛経験がほぼないのね。願望が人並みにあっても、機会がないんじゃどうしようもないでしょ。だから、恋愛小説でよく見かけるようなことをしてみたかったんじゃないかな。たとえ今の生活に大きな不満はないのだとしても、ただ憧れているという理由だけで本気で実行を検討しちゃうくらい、強い憧れだったんだと思う。庭師に一目惚れして駆け落ちなんて、いかにもフィクションで描かれる恋愛って感じでしょ? あ、ラルフは読まなさそうだからわからないかな。とにかく、女の子向けの小説にはそういうシーンがよく出てくるの」

「メアリーは小説を読むんだ」

「読むよ。普通に読む。

 メイドの仕事って、重労働だから休憩時間はたっぷり確保されているんだけど、不用な外出が禁じられているから暇なんだよね。あたし以外の使用人はみんなクビになっちゃったから話し相手はいないし、ゾーイと長話をしていたら怒られるし。だから、奥さまが読書家だったらしくて、屋敷にはあふれんばかりに蔵書があるのがわかったから、ご主人さまの許可を得て本を読むようになったの。普通、使用人の小娘ごときに、妻の遺品を触らせないものだと思うんだけど、ご主人さまは淡泊で事務的なところがあるから。

 最初は難しそうだなって思ったけど、いざ読み始めるとなかなか面白くて。まあ難解な純文学とか哲学書とかじゃなくて、大衆向けの小説だからね。裕福ではないけど学校に行かせてくれて、読み書きを学ばせてくれた両親には感謝しないと。

 恋愛小説を毎日のように読むうちに、それに出てくるようなシチュエーションに対する憧れは日に日に高まっていって。言ってみれば、恋に恋しているような状態で。……こんなことを言うのもなんだけど、実はラルフのことはそんなに好きじゃなかったのかもしれない。もちろん、好感が持てる素敵な男性っていう認識は本物だけど」

「知らなかったよ。メアリーとは、プライベートのことも含めてかなり話をしたと思うんだけど、恋愛小説を読むのが趣味だったなんて」

「そういえば、そうだね。ラルフはなんとなく、本には興味なさそうだったから積極的に話題は振らなかったんだけど、それでもちょっと我ながら意外だよ。読書はあたしの数少ない趣味なのに。

 たぶん、それなりに密度が濃くても、たったの数日っていう短い時間では、そもそも無理があるんだろうね。数日前まで赤の他人同士だった男女が、お互いのことを深く理解するなんて。ましてや、駆け落ちを決意させるくらいの深い愛情を育むことなんて」

 メアリーは僕へと大きく体を寄せ、さらには顔を顔に近づける。

「あたしたち、きれいに別れるのが一番幸せだと思う。そのために、最後にキスして。そうしてくれたら、あたしは未練がましく泣いたり、悔やんだり恨んだりなんてしない。それはきっとラルフも同じでしょ?」

 僕は無言でうなずく。

 メアリーはなにも言わずに目をつむる。僕を信頼しきったその顔は、これまでに彼女が見せた中でもっとも美しい顔だ、と思う。

 愛おしさが込み上げてくる。赤ん坊や小動物と相対しているときのような、とてもとても優しい気持ちだ。

 小さく息を吸い込み、頬に唇を宛がう。三つ数えて、触れさせたとき以上の慎重さで離す。メアリーは双眸をゆっくりと開き、顔を綻ばせる。

「普通唇じゃない? なんだか子どもみたいなキスだね。でも、恥ずかしがりで遠慮がちなところが、ラルフらしくて好きだよ。ありがとう」

 ゾーイというはけ口がいなくなることで、ニック・ウッドフィールドの攻撃がメアリーに集中するかもしれない。そんな懸念を僕は抱いていたのだが、本人と言葉を交わしてみて、取り越し苦労ではないかと考えが変わった。

 メアリーは逞しい。なんといっても、使用人の大量解雇の危機を乗り切り、今日までたった一人のニック・ウッドフィールド家のメイドとして働いてきた人だ。一時的に試練に晒されるかもしれないが、決して膝を屈することはない。絶対に耐え抜いて、絶対に乗り越えられる。そう確信できた。

「仕事の邪魔はしたくないから、あたしはもう退散するね。……さようなら」

「さようなら、メアリー」

 一陣の強い風が吹き抜け、メアリーの金髪をなびかせる。それを片手で押さえ、もう一方の手を顔の横で振る。とても晴れやかな表情だ。

 彼女は心配ない。なにも心配はいらない。

 深まった確信に、僕は立ち上がって大きく手を振り返した。

 風がやんだ。メアリーは乱れた髪の毛を両手でていねいに直し、巨大なウッドフィールド邸の中へと消えた。

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檻の外の調べ 阿波野治 @aaaaaaaa

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