第15話
ウッドフィールド夫人よりも顔が似ている子も、子どもとして魅力的な子も、あの百人の中には何人もいたと思う。なのになぜ、わたしが選ばれたのか。
その謎が明らかになった詳しい状況を、わたしは覚えていない。たぶん、伝えられた事実が衝撃的すぎて、それ以外の情報のほとんどが吹き飛んでしまったんじゃないかな。
でも、ニックから告げられた言葉は、一言一句正確に記憶している。
『ゾーイ、君は顔だけではなく、精神疾患を患っているところも私の妻にそっくりだね。歌を歌っている? 声もなにも聴こえないのに? そんな見え透いた馬鹿げた嘘を、自分の家族のみならず、近隣住人にまで恥ずかしげもなく吹聴して回るなんて、はっきり言って尋常ではない。なんという病気なのかはわからないが、気が狂っているのは疑いようがないな』
そう言われた瞬間、同じ屋敷の中で病気療養中だというニックの奥さまに、これまで一度も顔を合わせていないことにわたしは気がついた。冷たい北風に吹きつけられたみたいに体が震えた。
奥さまは精神の荒廃がかなり進んでいて――日常生活に復帰するのは絶望的どころか、死を目前に控えていて――わたしは養子というよりも、奥さまの代わりとしてこの家に連れてこられたのかもしれない。そんな疑惑が胸に生まれた。
結論から言うと、疑いは正しかった。百パーセント、ではないのだけど。
わたしがウッドフィールド家に来てから約半年後、奥さまは亡くなった。死因はわからない。ニックはなにも教えてくれなかったから。
奥さまとは、亡くなってから初めて対面を果たしたのだけど、痩せて骨と皮だけの姿になっていた。金色だった髪の毛は真っ白で、病の影響はかなり強いのかなっていう印象を受けた。
言葉を交わすどころか、顔を合わせた経験すら一度もなかったから、悲しみはなかった。その感情の代わりにわたしの胸を満たしたのは、不安と恐怖。
奥さまの代わり説が正しいのだとしたら、わたしはニックからどんな振る舞いを要求されるのだろう。「療養」していたころの奥さまみたいに部屋に閉じ込められるのか。それとも、健全で貞淑な妻としての役割を求められるのか。
奥さまを永遠に失ってしまって、ニックはかなりショックを受けたみたいだった。彼はたぶん、自分が考えていた以上に精神的なダメージを負ったと思うんだけど、真相はわからない。
ニックは使用人たちに指示を与えたあと、書斎にひきこもった。食事さえも拒絶したから、使用人たちがかなり心配していたのを覚えてる。
ひきこもって四日後の夜、だったかな。ニックはいきなりみんなの前に現れたと思うと、たった一人を除いて、使用人全員に解雇を言い渡した。
ニックがおかしくなったのは事業に失敗したから、というのは実は嘘。本当は、奥さまに先立たれたショックが原因で、それを秘密にしていたのは、奥さまが重度の精神疾患を患っていたからなの。
奥さまを亡くしたあとのニックは、ウッドフィールド家唯一の使用人であるメアリーにも、義理の娘であるわたしにも、厳しい態度で接するようになった。
最初、最愛の人を亡くした悲しみから攻撃的になっているだけだ、ほとぼりが冷めれば、心穏やかで紳士的な義父がきっと戻ってくるって、わたしは楽観していた。だけど、変わってしまったニックと接する時間が募れば募るほど、本当の意味で心が狂ってしまったんだっていう思いが高まっていって、やがて確信に変わった。
そして、奥さまの一周忌よりも少し早い小雪舞い散る朝、わたしは物置部屋に鎖で繋がれた。
きっかけは、買い物に出かけたさいに寄り道をしたことだった。使用人が一人に減ってしまったから、買い出しとか、自分の部屋の掃除とか、簡単な家事はわたしが担当するようになっていたの。
ラルフも町から来たならわかると思うけど、この屋敷の近所に食料品や日用品を買える店はないでしょ。だから何日かに一回、一番近い店まで行ってまとめ買いをするんだけど、外に出る機会ってそれくらいしかないから、わたしにとっては息抜きみたいなもので。ニックは時間に厳しくて、帰宅が遅くなりすぎると叱られるから、寄り道はほどほどにするように気をつけてはいたんだけど。
でも、その日はつい長くなってしまった。
大慌てで屋敷に戻って、必死に弁明するわたしに向かって、ニックは怒りに震える声でこう告げたの。
『ゾーイ、お前は今後いっさいの外出を禁じる。……などと命じたところで、寄り道をするなという命令を守らなかったお前のことだから、いつかきっと再び私の命令を破るだろう。だから、鎖で繋がせてもらう。私自身も非人間的な措置だと思うが、致し方ない。猫は最低限の礼儀を守るからこそ放し飼いを許可されるのだ。一度でも酷い粗相をした猫は、犬のように繋いで飼わなければならない。逃げないように、監視できるように、罰したいときに罰せるように』
鎖に繋がれ、物理的に束縛されたことで、わたしの生活から楽しみが失われてしまった。
町には年齢も人種も職業も様々な人がいる。だから、もしかしたら、わたしの歌が聴こえる人がいるかもしれない。いや、わたしが生まれ育った小さな町でさえ三人もいたんだから、絶対に何人も、何十人もいる。
そんなふうに希望を胸の中に置いておくのは、もともと楽しみが少ないウッドフィールド家で生きていくうえで、とても大事なこと。実際、そうすることで、退屈な日々だって前向きに過ごせた。
だけど、希望は断ち切られてしまった。
行動を極端に制限されたわたしは、日に日に活力を失っていった。鎖は長かったから、部屋の中を歩き回れば運動不足は解消できるけど、すぐにそうするだけの気力も湧かなくなって、一日のほとんどをベッドの上で過ごすようになって、体を起こすのさえ億劫になった。あのころのわたしは、まるで奥さまの亡骸が生きているみたいだった。ニックにもメアリーにも聴こえないのを利用して、毎日のようにしていた歌の練習も、いつの間にかやめてしまった。一日の大半を眠ることに費やして、その合間に粗末な食事を口にして、排泄して、数日に一回入浴する。……それだけの日々。
そんな絶望的な日々を送っていたわたしの前に、突然現れたのが――そう、ラルフだったの。
鎖に繋がれて以来、この部屋に来た部外者はラルフが初めてだったから、狼狽してしまった。でも、あなたが優しくて大らかな人だとすぐにわかったから、心を許せた。
ラルフは、わたしの歌声を聴き取ることができた人たちと、どこか雰囲気が似ていた。
歌声を聴いたから部屋までやって来たのかとも思ったけど、あなたは歌のうの字も口にしない。だから、聴こえない人なんだって思うことにした。聴こえる人と見なして、もし間違っていた場合、ショックが大きすぎて立ち直れなくなりそうだったから。
ラルフとたった数日でお別れしなければいけないのは悲しかったけど、わたしはもともと外の人間とは会話できない環境に置かれている。数日だけも交流を持てるのは幸せなことだ、それで満足するべきだって、自分に言い聞かせた。来年になって、庭の手入れをしなきゃいけない季節が巡ってきたら、ニックはまたラルフに依頼するかもしれないっていう希望もあったしね。
だから、駆け落ちを提案されたときは驚いた。冗談で言っているんじゃないかと疑ったけど、どうやら本気らしいとわかって、戸惑ってしまった。ラルフがわたしに好意を抱いてくれているのはわかっていたけど、そんなにも強い好意だとは思っていなかったし、それに、こんな夢みたいな幸福がわたしに許されていいのかって思ったから。
でも、あり余る一人きりの時間を活用して考えるうちに、駆け落ちを成功させるのはいろんな意味で現実的ではないことがわかってきた。
一か八かのやりかたは試したくなかった。だって、ラルフに迷惑をかけたくないから。ほぼ確実に挫折する道に進んで、二人いっしょに大きな不幸を味わうくらいなら、わたし一人が小さな不幸を味わい続けるほうがずっといい。そう考えて、提案は断った。
提案を受けるまでの数日で、ラルフはすっかり、わたしにとって大切な人になっていた。両親とはもう疎遠になってしまっているし、最愛の人といっても過言ではないよ。愛する人を不幸にするくらいなら、自分が不幸のままでいたほうがまし。誰かを愛する人って、たいていはそう考えるものじゃないかな。……なんて、偉そうに恋愛論を語れるほど長く生きているわけではないし、経験だってないに等しいんだけどね。
だけどその考えは、歌声を聴いたっていうラルフの告白で一変した。
運命の人だと思った。心臓が壊れそうなくらいに鼓動が速くなって。音とか、匂いとか、映像とか、温度とか、あらゆる情報がシャットアウトされて。頭の中はラルフ、ラルフ、ラルフで。感動に近い感情が込み上げてきて、思わず泣いちゃって、今自分がなにをしているのか、なにをしたいのか、こんがらがって、訳がわからなくなって。だけど心の中心には、あなたともっと時間を共有したい、という気持ちがどっしりと居座っていて。
ようするに、それがわたしの本心。一番叶えたい願い。
……話、予想どおり長くなっちゃったね。
わたしが言った「話したいこと」というのは、実は二つあって、一つは歌声の秘密について。
もう一つは、あなたへのお願い。
前回わたしがした返事、撤回させてもらえないかな。
ラルフ、わたしはやっぱり、この屋敷を出てあなたと二人で暮らしたい。
ラルフの気持ち、聞かせてほしいな。
返事をするまでには一分近く間があいた。
もっとも、それはゾーイの過去が持つ重みを最低限消化するのに時間がかかっただけ。どんな言葉を返すのかは早い段階で決めていた。
沈黙が続けば続くほど、ゾーイの顔は心細そうに歪んでいく。蒼穹を覆い隠す黒雲を一片も残さずに吹き飛ばすように、僕は満面の笑みで言う。
「僕の意思は、君に話を持ちかけたときから少しも変わっていないよ。君と同じ気持ちだ。僕は、ゾーイ、君と二人で過ごしたい。僕といっしょにウッドフィールド邸から逃げよう。そのための計画、今から立てていこうか」
澄んだ緑色の瞳がにわかに潤んだ。次の瞬間には、潤いは二条の流れとなって白く滑らかな頬を下っていた。
雫を拭おうともせずに、ゾーイは微笑する。なにかを成し遂げた者にしか表現し得ない、初夏の薫風のような泣き笑いだ。
いくつもの感情が混ざり合った複雑な感慨が胸に込み上げる。主観としては、それは愛おしさに似ている。
僕は窓へと歩み寄り、両腕でゾーイを抱きしめる。ためらいも、気恥ずかしさもなく、自然とそうしていた。
彼女は抱擁に身を任せた。涙に濡れた顔が作業着の胸に穏やかに押し当てられる。ゾーイの体温を、存在を、体の小ささ華奢さを全身に感じ、僕は涙ぐみそうになる。これが幸福か、と思う。
真の幸福。
それを得るためには、やらなければならないことが山積みだということも、道のりの険しさも、失念したわけではない。
でも今は、今このときだけは、ただ浸っていたい。
そして、ゾーイも同じ気持ちだと信じた。
間違いない。間違えるはずがない。
なぜなら、僕は今、両腕を通じてゾーイのすべてを感じているのだから。
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