第14話

 ゾーイは窓を全開にして、窓枠に肘をついて待っていた。

「こんにちは、ゾーイ」

「こんにちは、ラルフ」

 特別な用事を抱えている今日も、まず挨拶を交わす決まりは遵守された。

 話しづらい話をするそのときを目前に控えているわりには、ゾーイはリラックスしているように見える。声にも、少なくとも過度な緊張は観測できない。

 しかし、全体の雰囲気は明らかに普段どおりではない。

「昼食、持ってきていないんだね」

 ゾーイは僕の手元を指差して言った。僕は手ぶらだった。首を縦に振り、汗に濡れた前髪を額からどけながら、

「お互いに大事な話みたいだから、食事をしながらだと緊張感がなくなると思って。考えすぎかな?」

「ううん、そんなことない。配慮してくれてうれしいよ」

 ゾーイはうつむいた。冗談を口にするのもはばかられるような、シリアスな顔つき。考えを整理しているのか、話すのにまだためらいがあるのか。

 ゾーイの顔が持ち上がる。エメラルドグリーンの瞳にいつの間にか決意の光が灯っていて、僕は軽く息を呑む。桃色の唇が動く。

「わたしは歌声を聴いたってラルフは言ったよね。昨日と、おとといと、ここでの仕事の初日の、合計三回」

「そうだね、その三回だ。もしかして、それ以外にも、僕がウッドフィールド家にいるときにゾーイは歌ったの?」

「何回歌ったのかはどうでもいいの。わたしが言いたいのは、わたしの歌声が聴こえたこと、それ自体が驚きだということ」

「……どういうこと? 大声では歌っていなかったから、庭で働いていた僕に聴かれていたのが驚き、という意味?」

 ゾーイは言下に頭を振った。少しいら立たしげで、もどかしげで、さらにはそこはかとなく悲しげでもある。見れば見るほどその表情は複雑で、彼女の内心が遠い。

 それでも知りたくて、いっそう深く、そのあどけなさの残る顔を見つめる。

「意識して張り上げたわけではないけど、声を押し殺して歌ったわけでもないよ。ラルフが聴いた三回ともね。だけど、歌声は三回とも、ラルフ以外の人間には聴こえなかったはず。

 父親は書斎にこもっている時間が長いとはいえ、神経質な人だから、少しでも歌声を聴き取ったら即座にクレームを入れてくるだろうね。この部屋とメアリーの自室は近いから、声をひそめて歌わないかぎり、あの子の耳に歌声が届く可能性が高い。

 だけど三回とも、二人はわたしの歌に特に反応を示さなかった。歌い始めた直後も、歌っているあいだも、歌い終わってからも」

「それって、どういう……」

「わたしの歌声を聴き取れる人は限られているの。たぶん、千人に一人以下だと思う」

 発言の意味をまだ理解できない僕を置き去りにして、彼女は説明の言葉を重ねる。僕がおいそれとは理解できないのは重々承知しているとでもいうように、開き直っているとも受け取れる落ち着き払った口調で。

「歳をとると高い音が聴き取りにくくなるそうだけど、そういう意味じゃないよ。ラルフは聴いたことがあるからわかると思うけど、わたしの歌声は高音の部類に入るけど、人間離れした高さではないから。

 声の高さ低さの問題じゃなくて、歌ったとしてもほとんどの人には歌声を聴き取れなくて、まるで歌っているように口を動かしているように見えるだけ。でも、少数だけど聴こえる人も存在していて、その一人がラルフなの」

「ようするに、君は特殊な歌声の持ち主ということ?」

「そういうこと。……とても信じられないって顔しているね、ラルフ」

「信じられないよ。君が言っていることは非科学的だから。特定の人間にしか聴き取れない歌声? そんな話、僕は一度も聞いたことがない」

「わたしだって聞いたことないよ。でも事実として、わたしの歌声を聴き取れる人間は限られている。証拠を見せるべきかな? 今からメアリーを呼び出して、彼女の前で歌ってみてもいいけど」

「それは――」

 少し考えて、ゆっくりと頭を振る。

「必要ないよ。たった今気がついたんだけど、君が歌を歌うことがあるっていう話、そういえばメアリーからは一度も聞いたことがない。メアリーに『ゾーイについて知っていることがあれば教えて』ってお願いしたことがあるけど、歌のことにはいっさい触れなかった。今までに積み重ねてきた交流で、君は人を不幸にする嘘をつく人じゃない人だってわかっている。それはメアリーも同じだ。とても真実だとは思えないけど――でもやっぱり、君が言っていることは真実なんだと思う」

「信じてくれるんだね。……ありがとう」

 ゾーイはほっとした表情を見せた。しかし、気を緩めると失ってはならないものを失ってしまうとでもいうように、すぐさま両の眉の中間に力を込める。

「昔話をさせて。長くなってしまうと思うけど、大切なことだから、ラルフにぜひ聞いてほしいの」

 窓から肘を離して上体を起こし、気持ちもろとも整えるように純白の髪の毛に指先で撫でる。そのあいだ、僕から逸らしていた双眸が、手を下ろすとともにまた僕へと戻ってきた。

 ゾーイは話し始めた。


 わたしは昔から歌うことが好きだった。駆け回ったり、踊ったり、頭の中を空っぽにして全力でなにかを楽しむのが好きで、その中の一つが歌うことだったの。

 でも、何歳ごろだったかな。自分では歌っているつもりなのに、「どうしてゾーイは口を動かすだけで声を出さないの?」って、周りの人から首をかしげられるようになって。

 喉に異常があって、本人は歌っているつもりだけど声は出ていないのかもしれない。大人たちはそう解釈して、わたしに医者の診察を受けさせたんだけど、特に悪いところは見つからなかった。

『声帯などの発声に関わる部位に異常は認められない。歌えるにもかかわらず、実際には歌うふりをしているだけだから、周りの人間がなにも聴こえないのは当たり前だ』

 医者からは呆れたようにそう言われたっけ。

 そんなはずがないってわたしは思った。だってわたしの歌声は、歌っている張本人であるわたしにはしっかりと聴こえているんだから。下手くそだけど一生懸命歌っているな、しゃべるときとはちょっと違うふうに聴こえるけど、ちゃんとわたしの声だなってわかる声で。

 それに、たった三人だけだけど、わたしの歌声が聴こえる人もいたの。周りに人家が一軒もないようなさびしい場所で一人暮らしをしていて、人付き合いをあまり好まなくて。大多数の人間からは変人扱いされているけど、子どもとか動物とか困っている人とか、ようするに弱い存在には優しくて、話をしてみると誰よりも愉快。そんな人たちの耳にはちゃんと届いていた。

 歌っていないのに歌っていると主張する、嘘つきな小娘に同情して話を合わせた人間が三人いた、ということじゃないよ。あの人たちはむしろ、建前なんていうものは心底馬鹿馬鹿しいと考えていて、思いや考えを包み隠さずに伝えるのを美徳としていて、だからこそみんなから変人だと見なされていんだと思う。それに彼らは、このフレーズがよかったとか、この部分の歌いかたをこう変えてみたらもっとよくなるんじゃないかとか、そういう細かい指摘もしてくれた。どれもこれも、わたしの歌が実際に聴こえていないと絶対に出てこない指摘ばかりだった。

 その発言を根拠に、わたしはちゃんと声を出して歌っているって強く主張した。何度も、何度でも、懐疑的な人たちの前で歌声を披露した。だけどすべての機会で、みんな眉間にしわを作って首を捻った。

 わたしはやがて周りから白い目で見られるようになった。平気で嘘をつく少女だと思われて、信頼と愛情を失い始めたの。歌はもちろん、楽しいことをするのが好きなわたしにとって、それは望ましい状態ではなかった。

 真実を主張するのをやめて多数派に迎合するか。

 数少ない理解者との絆を深める道を選ぶか。

 二択を突きつけられたわたしが選んだのは、前者だった。

 自分はまだ子どもだから、わたしの両親を含む多数派の大人たちに助けてもらわなければ、生きていけない。歌っているのは嘘じゃないけど、聴こえる人が限られている特殊な歌なのは認めざるを得ない。多数派の人たちの歩み寄りは期待できないのだから、わたしのほうこそ歩み寄るべき。

 当時はまだ幼かったから、理路整然と考えたわけじゃないけど、今になって振り返ってみるとそんなふうに考えたんだと思う。

 大切なものの一つを封印したことで、わたしの人生は驚くほど低調になった。楽しいと思うこと、得意なことは歌以外にもいくつもあったのに、たった一つを手放しただけで。自分の意思を殺すと、そんなにも大きな影響が出てしまうものなのかって、振り返るたびに愕然としてしまうんだけど。

 加えて、嘘つきという評判は時間が経ってもついて回ったから、みんなからなんとなく軽んじられて、下に見られて、避けられていた。明らかに「普通の人間」には見られていなかった。

 友だちはできないし、学力テストの成績はいつだって低いほうだし、いつまで経っても将来の夢は見つからない。自分の歌声の特殊性に気づかずにただ歌っていたときは、歌手になって大勢の聴衆の前で歌いたいって、子どもらしく無邪気に夢見たこともあるけど、聴こえる人間がめったにいないのではそれも夢物語。

 文字どおり夢がなくて、希望もなくて、毎日が楽しくない。そんなさびしくて惨めな子ども時代を送ってきた。

 よその家の養子になるという選択肢を知ったのは、わたしが十二歳のとき。ウッドフィールド夫妻が養子を募集していて、採用条件は『ウッドフィールド夫人に似た顔の女性。年齢、経歴、出自等々は不問』だった。

 募集ポスターには夫人の似顔絵が描かれていたんだけど、その顔がわたしに似ていたの。

 十代のわたしと三十代の女性、親子ほども年齢差があるから、そっくりというほどではない。パーツごとに比較してみると、相違点はむしろかなり多かったと思う。だけど全体を見れば似ているのは確かで、いろんな人が噂をした。

 ただ似ていると指摘するだけじゃなくて、応募してみたらどうだってすすめる人も多かった。わたしの家は裕福ではなかったけど、たとえ人並みの収入があったとしても、貴族の経済力は桁違いだからね。わたしの両親も、ストレートな言いかたはしなかったけど、お金に恵まれた人間のもとで暮らすのも幸せの一つの形だ、という意味のことはよく言っていたよ。「普通の人間」とは言い難いわたしが疎ましかったのか、お金が欲しかったのか……。それはわからないし、知りたくもないけど。

 わたし自身も、生活環境を大きく変えてみたい願望はあって。倍率は高そうだし、そもそも条件である「夫人に似た顔の女性」を満たしているとは必ずしも思えないけど、受けなければ絶対に受からないでしょ。駄目元で面接を受けてみようと考えて、面接日にウッドフィールド邸に行ったの。

 候補者は百人以上はいたんじゃないかな。夫人に顔が全然似ていない人もいたし、わたしよりずっと似ている人もいた。みんながみんな瞳をぎらつかせていて、お金に目が眩んで応募した人が多いのかな、という印象だった。

 なによりも容姿が重視されるということで、ニックに候補者一人一人が顔を見せる機会が設けられた。

 初めて対面したニック・ウッドフィールドは、物腰穏やかな中年の紳士という感じで、今とは少し印象が違っていた。

 ニックは候補者にいちいち言葉をかけないから、表情や身ぶりから判断するしかないんだけど、正直手応えはまったくなかった。わたしの顔を見ても、心を動かされたようでは全然なくて。なにがなんでもニック・ウッドフィールドの養子になりたいわけではなかったし、まあしょうがないよねって。そんな上手い話があるはずないよねって。小説みたいな成功物語の女主人公に、悪い意味で「普通の人間」ではないわたしなんかがなれるはずがないよねって。まだ面接試験は残っていたけど、個人的にはその時点で九十九パーセント諦めていた。

 顔合わせで四分の三くらいの人間がふるい落とされて、わたしは残った。

 面接試験は屋敷内の一室で行われた。従者がかたわらに控えていたけど、実質的にはニックと一対一。時間は、十分だったかな、五分だったかな。自由な形式で自己アピールしてください、という指示だった。

 その場で歌うことにしたのは、どうせ選ばれないなら思い切ったことをやってやろうっていう、開き直りの気持ちからだった。

 ニックは、わたしの歌声が聴こえる人たちとの共通項があるようには思えなかったから、最初から期待はしていなかった。実際、わたしが口頭による自己アピールを早々に切り上げて歌い出したときも、明らかに歌声を聴き取れていなかったしね。身分が高い人間には受けが悪そうな、十三歳のわたしからすれば卑猥な歌をわざと歌ったんだけど、眉一つ動かさなかったし。

 わたしが歌い終わると、ニックはどこか満足そうにうなずいた。

 普通の人からすれば、「今から歌います」と宣言して、口は動いているのになんの歌声も聴こえていないのは、どう考えてもおかしい。自己アピールのときは普通にしゃべれていたのに、声を出さずに歌うふりをしたのは、ふざけているとしか思えない。面接をする側の人間からすれば、『今すぐに出ていけ』と怒鳴ってもいいくらい。それなのに、ニックは肯定的な反応を示した。

 戸惑うわたしに向かって、彼は厳かな声で告げたの。『おめでとう。君は今日から私の娘だ』って。

 ニックは呆然とするわたしから視線を切ると、かたわらに控えていた従者を手招きして、耳打ちした。従者は面接部屋から出て行って、ドアから待合室――わたしのあとに面接を控えている人たちが待機している部屋が見えたんだけど、その人たちがぞろぞろと待合室から出ていくのが見えた。みんな呆然としたような顔を、そうでなければ不満そうな顔をしていたけど、有無を言わさずにって感じで従者に追い立てられていた。それを見て、『君は今日から私の娘だ』っていうニックの発言は文字どおりの意味だったんだって理解した。

 こうしてわたしは、ニック・ウッドフィールドの養女、ゾーイ・ウッドフィールドとして生きることになった。

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