第13話

「ラルフ、おはよう」

 ウッドフィールド邸の巨大な門扉を開くと、いきなり名前を呼ばれた。

 開いてすぐの場所にメアリーがたたずんでいた。後ろ手を組み、唇の形は三日月。瞳はどこか艶めかしい輝きを帯びている。

 いつもとはなにかが違う、という印象。

 そもそも、わざわざ門まで庭師を出迎えるという対応が異例だ。

「おはよう、メアリー。……えっと、僕になにか用事?」

「うん、ちょっと話したいことがあって。今すぐには、だめかな?」

「いいけど、手短に済ませてもらえると助かるよ。君も知っていると思うけど、明日までに仕事を終わらせなきゃいけないから、作業時間をなるべく確保したいんだ」

 庭を見回しながらそう伝える。手をつけていない庭木は二割弱といったところで、さらに芝生も刈らなければいけない。ゾーイの問題など、精神的に負担となる出来事の影響もあり、作業は予定よりも少し遅れていた。

「長くなるかはラルフ次第かな。昼休憩のときに、昼食を食べながらしたほうがいいかも。どう思う?」

「昼は――」

「昼はゾーイと約束をしている」と言いかけて、その事実をメアリーはまだ知らないのだと気がつく。

「昼じゃなくて、午前中の休憩時間中にしない? 早めに済ませたほうがお互いにすっきりすると思うし」

「それもそうだね。じゃあ、その時間に。お仕事、がんばってね」


 正午過ぎ、いつもの木陰にいつものように並んで腰を下ろす。

 水筒をメアリーへと差し出す。先に僕が水分補給を済ませているので、蓋は開いていて、飲み口はうっすらと濡れている。

 彼女はそれを受け取ったが、口につける寸前で虚空に止め、地面に置いた。僕が注目したときには、彼女らしくない真面目くさった表情に切り替わっている。

 視線が重なると、メアリーはブロンドヘアをかき上げた。そして、真剣さを底に残しつつ、邪念のない陽性の笑みを浮かべるという、僕に対して今まで見せたことがない顔つきをしてみせた。

「ラルフ、単刀直入に言うね。あたしと駆け落ちしない? ウッドフィールド邸からは決別して、ここからは遠く離れた、あたしたちを知っている人間が誰もいない場所で二人きりで暮らそうよ」

 落雷の直撃を食らったような衝撃が僕を襲った。

 駆け落ち。

 僕とメアリーの二人で。

 まったく予期していなかった展開だ。まさかメアリーが、僕がゾーイにしたのと同じ案を提示してくるなんて。

 驚きと戸惑いのあまり黙り込む、という僕の反応をどう受け取ったのか、彼女は表情を崩さずに二度うなずいた。視線を顔ごと空へと転じ、遠い場所に思いを馳せるような目つきをする。無意識にというよりも、僕に見せるためにしたような一連の動作。十秒足らずで顔を僕に戻した。

「驚いた? ま、匂わせたことすらもなかったし、無理もないよね。予想どおりの反応だったから、思わず笑いそうになっちゃったよ。ふざけていると誤解されるのが嫌だったか抑えたけどね」

「驚いたよ。凄く驚いた。……その一言しか出てこないよ」

「うん、本音だね。そのちょっと困ったみたいな顔は、ラルフが嘘偽りのない本音を言っているときの顔だ。でも、もう少し先のことも聞かせて。あたしの提案を聞いて、ラルフはどうしたいと思った?」

「ごめん、混乱してる。戸惑いが強くて、すぐに答えるのは……」

「最終回答じゃなくてもいいよ。今この瞬間、現時点での気持ちを聞かせてほしいの。知りたいから。だって、駆け落ちしないかって誘っちゃうくらい、あたしはラルフのことが好きだし」

 事もなげに言ってのける。メアリーはもともと軽口が多い人だが、冗談ではないと聞いた瞬間にわかった。気安い口調だが軽薄さは感じられないし、碧眼の奥に真摯な光が宿っている。

「だとしても、ちょっと難しいよ。本当に突然で、いまだに驚きが冷めやらなくて。むしろ、メアリーがどうしてそんな提案したのか、それを先に知りたいよ」

「そう? ちょっと不公平な気もするけど、まあいいや。好きな人からの要望にはなるべく応えたいし。

 駆け落ちしないかって誘ったのは、くり返しになるけど、ラルフのことが好きだからだよ。あたしはラルフのすべてが好き。だって、あらゆるところに好感が持てるから。真面目だし、話をしていて楽しいし、あたしなんかにも優しくしてくれるし。

 住み込みでメイドの仕事をやっていて、ただでさえ出会いが少ないのに、ラルフみたいな人と出会えたなんて、本当に奇跡だなって思うよ。……そんな恥ずかしいことをさらっと言えるくらい好きって言えば、質問の答えになってるんじゃない?

 ここでの生活にはある程度満足しているけど、やっぱり不満もたくさんある、という話は過去にしたよね。そんな環境でずっと暮らしている女が、ラルフみたいな人と接点ができたら、ころっといっちゃうよ。駆け落ちでもしたいって本気で思っちゃう。女の子っていうのはいくつになっても、白馬の王子さまに巡り合いたい願望、大なり小なり持っているものだから」

 しゃべればしゃべるほどメアリーの瞳の輝きは増すようだ。いつの間にか頬はうっすらと紅潮し、彼女の美貌に磨きをかけている。

 疑いようがない。

 メアリーは本気で僕のことが好きで、僕といっしょにウッドフィールド邸から出たいと本気で願っている。準備が整いさえすればすぐにでも実行に移したいくらいに、強く。

「細かい理由まで一つ残らず挙げていたら、きりがないからこれでおしまい。ここからはラルフの説得に入らせてもらうよ。

 ラルフは生活にあまり余裕がないみたいだけど、あたしはお金をけっこう貯めてるのね。貯めてるっていうか、使いどころが特にないから勝手に貯まっているって言ったほうが正しいかな。だから、あたしといっしょに暮らしたら、ラルフの生活は今までよりもずっと楽になるよ。確実に楽になるって保証する。といっても大金というほどではないから、毎日遊んで暮らすのはさすがに無理だけどね。

 お父さんが庭師を引退してから、実家の経済状態がよくなくて、ラルフが毎月仕送りをしてるんだよね。でも、あたしと暮らすようになったら、仕送りを全額負担してあげるどころか、増額だって可能だと思ってる。ちなみに、好きになった人の両親を助けることに抵抗感はまったくないから、ラルフは気持ちに負担を感じる必要はないよ」

 金銭面での悩みから決別できる。それは僕にとってこの上なく魅力的な未来だ。

 その魅力が、戸惑うばかりだった僕の心を、目の前の問題へと否応にも向き合わせる。

 真剣に検討すればするほど、メアリーの提案に惹かれていく僕がいる。

 ただ、もちろん、ネックがなにもないわけではない。

「ご主人さまがどう対応するかがちょっと不安だけど、まあ大丈夫じゃないかな。だってあの人にとって大切なのは、義理の娘のゾーイ。あの子さえこの屋敷に残れば、三年間たった一人で使用人をやってきた小娘が無断で出ていこうが、その小娘をそそのかしたのが若い庭師だろうが、どうでもいいことだからね。激怒はするだろうけど、追っ手を差し向けて無理やり連れ戻そうとか、加害者に罪を償わせようとか、そこまでは考えないんじゃないかな。いくら落ち目とはいえ、使用人を雇うくらいの金はあるだろうから、代わりの人間を雇っておしまいだろうね、きっと。癪といえば癪な対応だけど、どうせ縁が切れて無関係の他人になるからどうでもいいっていうか」

「――ゾーイを」

「え?」

「駆け落ちを実行したとすれば、ゾーイを見捨てたことになるね。メアリーが逃げるのを手伝ったと疑われて、制裁を受けるかもしれない。たぶん、その後の扱いも悪くなるよね」

「そうだね。あたしがいなくなることで、ゾーイは確実に不幸になるんじゃないかな。少なくとも、一時的には」

 メアリーは平然と指摘を認めた。ゾーイへの同情心、自らが行おうとしていることへの罪悪感、ともに観測できない。顔には薄ら笑いと認定できそうな表情が浮かんでさえいる。

「あたしも人の子だから、罪悪感がないわけじゃないけど、赤の他人のことなんて気にしていられない。不幸せな人間が幸せになるためには、他人を蹴落とすこともときには必要。全員が幸せになれる選択肢があるんだったら、もちろん迷わずにそれを選ぶよ。でも残念ながら、今回はそんなものは存在しないからね。あたしたち庶民は、そんな酷薄な現実を嫌というほど目にしてきたし、体験してきた。そうでしょ?」

 メアリーは最後の最後で少し表情を引き締めて語気を強めた。あなたのことは大好きだけど、甘ったれたところは大嫌いだ。そう言われたように感じた。

 僕は肯定の返事をすることも、否定の言葉を返すこともできない。

 この世界は歪んでいる。

 そんなこと、ずっと昔から知っている。

 しかし、それを肯定するような行動を取ることを、果たして肯定してもいいのだろうか?

 メアリーは僕の返答を待っている。しかし、いつまで経ってもしゃべり出そうとしないのに痺れを切らしたかのように、小さなため息を挟んで口を開いた。

「いきなり話を持ちかけて、混乱しているところにさらに言葉を重ねて、ラルフにはちょっと申し訳ないなって思う。でも、あなたを困らせたいわけじゃなくて、それだけあたしが必死で、この計画に賭ける気持ちが強いんだっていうふうに理解してほしいかな。気持ちの整理が必要だと思うし、今日中に返事をくれだなんて言うつもりはないよ。でも、ラルフは明後日で仕事が終わる予定だから、それまでには返事をちょうだい。約束してくれる?」

「もちろん。期日までに絶対に返事をするよ」

「ありがとう」

 いきなり顔が大胆に近づいてきたと思ったら、頬にキスをされた。一瞬、唇が肌に接するだけの軽い口づけ。そして、そのあとのはにかみ笑い。

 この人はいつもそうだ。僕のような初心な人間が赤面して身悶えするような行為を、いとも簡単にやってのける。だから、恥ずかしいと感じる時間は訪れないか、訪れたとしてもあっという間に過ぎ去り、そのあとはただただ唖然呆然。

 そんな一面も含めて、メアリーは魅力的な女の子だ。嫌だな、と思うところもいくつもあるが、それを差し引いても魅力的。その評価は現時点では揺るぎない。

 メアリーはおもむろに立ち上がり、スカートの尻を手で払う。彼女がいつも何気なくやっているその行為は、今日は照れ隠しに見えた。

「明後日の返事、楽しみにしてる。あたしも仕事をがんばるから、ラルフもがんばって」


「駆け落ち、か」

 メアリーが屋敷の中に姿を消したあとで、その単語をそっとつぶやいてみる。

 ようするに、二択なのだ。

 僕が人生を捧げる相手はゾーイか、それともメアリーか。

 囚われの少女と肩を並べて歩むことになるのは、茨の道。きっといくつもの困難が立ちふさがっているに違いない。

 一方のメアリーとともに進む道は、ゾーイのそれと比べるとずいぶん歩きやすいだろう。ゾーイへの嫌がらせを日常的に行っている、というマイナスは断じて許容できないが、それを差し引いても好感度はそう悪くはない。経済的にそう苦労しなくなる未来は、無意識に涎を垂らしてしまうような魅力がある。

 ただ。

 僕が惹かれているのはゾーイだ。圧倒的にメアリーよりもゾーイだ。

 昼休憩のさなかに偶然歌声を耳にして以来、彼女の存在は常に僕の心の中央に君臨している。ゾーイは僕の存在が救いとなったと言っていたが、それは僕も同じだ。ゾーイとは無縁な暮らしなど、たとえ今よりも暮らしが楽になったとしても、きっと味気ないものになる。

 僕はゾーイを知ってしまった。

 知ってしまった以上は、彼女なしでは生きていけない。

「今日の昼、ゾーイはなにを話すつもりなんだ……?」

 ひと波乱起きそうな予感がする。正直、期待よりも不安のほうが強い。昼休憩の時間になるまでが果てしなく長く、遠い。

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