第12話
昼食をともにする相手は今日も、ゾーイではなくメアリー。
もうじき丸二日が経とうとしているが、ゾーイに会うのをためらう気持ちは、濃度据え置きのまま健在だ。
会いに行きたい気持ちはある。ただ、勇気がない。それが唯一にして最大の問題であり続けている。
気持ちに整理をつけ、行動に踏み切らせる、なんらかのきっかけを僕の心は求めていた。積極果敢に、ではないにせよ、確かに求めていた。
メアリーと肩肘張らない雑談をしているかぎり、そのきっかけが生まれてくれるとも思えないのだが……。
「あ、そうそう。思い出したんだけどね、昨日の夜、ゾーイがご主人さまからかなり激しく叱られてたよ。ここ二・三か月のあいだだと一番酷かったかも」
なんでもないことのようにさらりと、聞き捨てならない発言をメアリーがしたものだから、僕は食べていたホイップクリームとレーズンのサンドウィッチ――甘いパンばかり食べるメアリーに影響されて、今日の昼食に選んだ市販品――を喉に詰まらせてむせてしまった。
背中をさすろうとする彼女の手をやんわりと制止し、自力で水筒の水を飲んで大きく息を吐く。口元の水滴を掌で拭って彼女と目を合わせ、
「それ、本当なの?」
「うん、本当。ラルフ相手に嘘つく理由ないし。
昨日のゾーイ、なんか朝からずっとぼーっとしていて、夕食を食器の外にこぼしたのね。あの子は行儀がよくてきれい好きだから、めったにないことなんだけど。給仕はあたしの仕事だけど、こぼしたのはメアリーの過失だから、拭くのはあなたがやってって、あたしは声を荒らげて命じたのね。その声をご主人さまが偶然耳にしたらしくて、『うるさいぞ、なにを怒鳴っているんだ』って部屋まで来たの。ご主人さまはたいてい書斎にこもっているんだけど、そのときはたまたま廊下を歩いていたみたいで。
ご主人さまは普段あたしやゾーイを叱るときは、あまり表情を変えないの。でも、あのときは悪魔みたいに物凄い形相だったから、戸惑ったし、ちょっと怖かった。ゾーイを叱るあたしの声が大きかったから、なにか大変なことをやらかしたって勘違いしたのかな、とも考えたんだけど、そうだとしても険しすぎる顔で。慌てて事情を説明したら、その怖い顔のままゾーイを叱責し始めて」
メアリーはしゃべればしゃべるほど舌が滑らかになっていく。
「顔は怖かったけど、叱りかたはいつものご主人さまみたいな感じ……。ようするに、声に抑揚をつけずに淡々と、でも執拗に、言葉を替え言い回しを替えながら、ゾーイを責めた。ただし、顔だけが憤怒、激怒、激昂って感じだったから、そのギャップが怖いっていうか、怖いを通り越して不気味で。叱られるほうは青ざめていたよ。あたしは普段、説教があまりにも長いときは、『お仕事に戻らなくて平気なんですか』とかなんとか言って、遠回しなやりかたで止めに入ったりもするんだけど、怖くてなにもできなかった。当時は『今日のご主人さま、ちょっと変だな』くらいの気持ちだったんだけど、今日こうして振り返ってみると、異常以外のなにものでもないよね。……うん、あれは明らかに異常だ。
奥さまを亡くす前はもっともっと紳士的で、ねちねちした叱りかたをする人じゃなかったんだけどね。最近になって、具体的にどうとは言えないんだけど、ゾーイへの態度がなんだかますますおかしくなってきたようにも感じるし。
ほんと、どうしちゃったんだろうね、あの人は」
彼女には似合わない陰気な短いため息とともに口述を締めくくり、手にしているチーズのかたまりを大きくかじった。
メアリーが訴えるウッドフィールド家当主の異常性よりも、ゾーイが世話係から叱られるような振る舞いをしてしまった事実に、僕の意識は吸引された。
ゾーイは普段食事をこぼすことはめったにない、とメアリーは言った。
こぼしてしまったのは、昨日僕と話をする機会が一度もなくて、それが彼女の心に暗い影を投げかけていたせいなのでは?
あるいは、その前、僕が駆け落ちを提案した影響?
どちらにせよ、僕のせいなのは濃厚だ、と僕自身には思える。
原因は他にある可能性もあることは承知している。ただ、幸か不幸か、あれこれ考えているうちに僕は思い出した。
ゾーイがおととい、「ラルフと話をするようになったことで、苦しい日々にも耐えられるようになった」という意味の発言をしていたことを。
つまり、昨日歌っていたことも含めて、責任は僕にある。
メアリーはニックに関する愚痴を連発する。両手に持ったパンとチーズを早いペースで交互に頬張りながら、ときには口に食べ物が入っている状態でも平気でしゃべるので、まるでやけ食いもしているかのようだ。毒を吐き出すのに夢中で、僕の相槌がおろそかになりがちなのを看過してくれるので、その意味ではありがたい。
「会話する機会を持たない」という僕の行動一つで、ゾーイは歌を歌い、食べ物をこぼすという、普段あまりとらない行動をとった。
ひっくり返せば、僕という人間の存在は、ゾーイにとってそれくらい大きい。
このことを逆手にとって、彼女に外に出る気にさせる方法はないだろうか?
僕はその可能性について真剣に検討する。
非現実的な暴論なのは理解している。でも、その道こそが、ゾーイを悩ませているすべての問題を解決するため唯一の手段だと、僕はなかば本気で思い込んでいる。
僕との駆け落ちを拒んだ彼女を、翻意させる方法がそう簡単に見つかるはずもない。しかし、悩み続けたことで、昼食を終えるころに確定した結論が一つだけある。
今日こそはゾーイに会いに行こう。会って、話をするべきだ。
自分から距離を置いておいて、のこのことゾーイのもとに行く勇気が僕にあるのか?
仕事中、何度も考えた。
そのせいで、普段以上に疲れた。その疲れが、僕の心を徐々にネガティブなものへと変質させていく。
仮にゾーイのもとまで足を運んで、駆け落ちを再定案したとして、彼女は前回と百八十度違う返事をしてくれるのか?
「――あ」
突然、僕は手を滑らせて植木ばさみを地面に落とした。
『仕事道具は大事にしろ。厄介なお客に難癖つけられても、仕事が上手くいかなくても、道具にだけは当たり散らすなよ。わかっているつもりでもできないやつが多いからな、特に駆け出しの半人前は』
いつの日か、いかめしい顔で父が言った言葉が甦った。
「わかっているよ、そんなこと」
ひとりごちてその場にしゃがみ、拾い上げて土を払う。しかし、しゃがむ姿勢のまま固まってしまう。立ち上がる気力が湧かないのだ。
最初に提案したときの僕から、今の僕はなにひとつ成長していない。そんな男から、再び頭を下げられたところで、ゾーイが「やっぱりラルフについていく」と言うか? 言うわけがないだろう。
……もう、いいや。
僕に他人を助けるだけの力はない。最初から無謀な要求だったんだ、きっと。
もはや立ち上がるのは絶望的だ。ふてくされたようにはさみを投げ捨てるのではなく、革袋にしまうだけの理性が残っていたのは、大げさなようだがちっぽけな奇跡だと思う。剪定途中の樹の幹に背中を預け、特大のため息。
直後、どこからか歌声が聴こえてきた。
耳を澄ませてみるまでもなく、わかった。
ゾーイだ。紛れもなく、歌っているのはゾーイ。
「――間違いない」
味方によってはうぬぼれている。でも、たぶん、真実を射抜いている。
彼女が求めているのは、僕。他ならぬこの僕だ。
必須ではないのに足音を殺していた。
丸一日以上ぶりとなる訪問。足取りが不要に慎重になったのは、彼女に接近を感づかれたくなかったからというよりも、単に僕自身の緊張が反映された結果だったのだろう。
窓辺にゾーイの姿はなかった。窓ガラスは閉ざされている。カーテンが引かれていないのはいつもと変わらない。
透明な障壁越しに探すと、ベッドの上にいた。窓に背を向け、死人のように横たわっている。
胸が締めつけられた。
解放してあげたい、という思いが高まった。
呼びかけたい衝動を唾とともに呑み込み、窓ガラスを穏やかにノックする。とたんに、華奢な肩が痙攣するように揺れた。
ゾーイは緩慢に上体を起こし、腰を捩じって窓を振り向く。窓外にたたずむ僕を見て、ぼやけたような瞳が見る見る光を取り戻していく。まばたきもせずに、呆気に取られたように僕の顔を凝視している。
窓を開けるよう、手ぶりで催促するよりも早く、ゾーイが動いた。ベッドから下りて真っ直ぐに歩み寄ってくる。機敏ではないが、迷いもためらいもない。開錠し、窓を開ける手の動きも以下同文だ。
空間が繋がった。
ほのかに漂ってくる体臭に、意識が彼女へと惹き寄せられる。音一つない世界で、僕たちの視線は重なる。
「……ラルフ」
こぼれたのは、かすかな声。そんな声でさえも、透き通っていて、耳に心地よくて。
ゾーイの瞳の中に、肩の力がほどよく抜けた、自然体の笑みを浮かべている男の顔を僕は見た。
「久しぶりだね、ゾーイ。実際には丸二日も経っていないけど、ずいぶん長く話をしていないように感じる」
「わたしも同じだよ、ラルフ。あなたと会えないでいる時間、凄く長く感じられて、もう二度と会えないかと思ったこともあったよ」
「不安な気持ちにさせてしまったみたいだね。ごめんね、僕に勇気がなかったばっかりに」
「勇気?」
「そう、勇気。
僕がしたのはいろんな意味で無茶な提案で、ゾーイが戸惑って、迷惑だと感じて、拒絶するのは、考えてみれば当たり前だ。それなのに、まるでゾーイの反応が不愉快だったからとでも言うかのように、僕は君に会いに行くのをやめた。この対応、きっと君は幼稚だと感じたんじゃないかな。大人のくせに大人気ないなって。
実際は、ただ怖かっただけなんだ。提案以外のものまで拒まれそうで、それが怖くて、嫌で、逃げていた」
「じゃあ、どうして勇気を奮い立たせられたの? 時間が解決してくれた、とか?」
「それも少しはあるけど、一番の理由ではないかな。長く感じたのは確かだけど、外部からの働きかけなしに、自然に気持ちが変わるには短すぎるよ。人はそう簡単に変われるものじゃないから」
「きっかけあったんだね。ラルフに勇気を与えるきっかけが」
「そうだよ。僕はどうやら、頼みごとに弱い人間みたいだね。直接頼まれたんじゃなくて、頼まれたような気がしただけでも変われるんだから」
無意識にもったいぶるような言いかたをしていたことに、ゾーイの怪訝そうな表情を見て気がついた。
僕は微笑みを深めて答えを口にする。
「歌だよ。悶々としながら仕事に励んでいるさなかに、君の歌声を聴いて、居ても立ってもいられなくなったんだ。自分勝手な解釈かもしれないけど、君はさびしいときに歌を歌っているんじゃないかって思ったから」
告白した瞬間、彼女は双眸を大きく見開いた。
「なんでそう思ったのかっていうと、君は昨日も歌っていたけど、それよりも前に歌声を聴いたのは、僕がこの家で仕事を始めた日なんだ。そのときのゾーイは、まだ僕のことは知らなかったよね。だから、父親から冷酷に扱われて、メアリーからいじめを受けているんだけど、誰も助けてくれないさびしさをまぎらわせるために、歌っていた。昨日歌っていたのは、僕と話ができなくて、さびしいから。そう僕は推理したんだけど――」
はっとして息を止めてゾーイの顔を見返した。
泣いている。
洟もすすらずに、顔も歪めずに、透明な涙を何粒も、何粒も、ひっきりなしに流している。
これまでに出会ったことがない泣きかただ。しかし、それ以上に僕が驚いたのは、ゾーイが泣いているという事実そのものに対して。
ゾーイが涙脆い人だという認識はなかった。むしろ我慢強い人、部屋から一歩も出られない生活にも、メアリーからいじめられる日々にも耐え忍んできた、か弱そうに見えるが強靭な精神の持ち主。そう思っていた。
しかし、今目の前にいるゾーイは、どうだ?
世界で一番、弱く、脆く、儚い。
ゾーイはやがて呆然自失から覚め、頬を濡らす雫を指先で拭った。さらには、思い出したように二度三度と洟をすする。どこか艶めかしく指が動き続けるうちに、落涙に歯止めがかかった。
泣きやんだばかりのエメラルドグリーンの瞳は、いつ再び涙をこぼしてもおかしくないくらいふんだんに水気に覆われている。その目で、僕を食い入るように見つめる。しゃべるという選択肢も忘れて、僕はその目を見返す。
「ごめんね、泣いてしまって」
声は少し震えている。取り乱したような泣きかたではなかったが、見かけ以上に精神状態は不安定なのかもしれない。
「確認させて。ラルフが今日わたしのもとに来てくれたのは、わたしがさびしがっていると感じて放っておけなかったから、でいいんだよね?」
「そうだよ。ゾーイのことが心配で、話がしたいと思ったから来たんだ。話、これからしてもいいかな」
「……ごめん。今日はちょっと、これ以上話すのは精神的にしんどいから、明日に延期にしてほしいんだ。実は、わたしからもラルフに話したいことがあって」
震える声を懸命に抑えつけながら、なんとか最後まで言い切って、ゾーイは僕に背を向けた。
「そういうことなら、日を改めようか。僕はもう仕事に戻るから、また明日、お昼に話をしようね」
返事はない。その後ろ姿は、一刻も早くベッドに横になりたがっているようにも見える。
見つめれば見つめるほどゾーイの背中は小さくて、速やかに別れるのが最善の対応だと理解しながらも、置き去りにするのが忍びなかった。なにかもう一つ、「また明日」でも「さようなら」でもない言葉をかけたかった。
しかし、適切な文言が思い浮かばない。いくつか候補が浮かぶが一つに絞れないのではなく、なに一つ思い浮かばないのだ。
庭師なんて役立たずだ。
植物を見栄えよく整えられたとしても、泣いている少女を笑顔に変えることができないのだから。
自己嫌悪で胸をいっぱいで埋めながら僕は立ち去った。
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