第11話
僕はゾーイに恋をしているのだろうか?
今日は部屋に帰ってからというもの、もう何十回と自問している。
視界に映っているのは、黒いインクを薄く擦りつけたような天井。もう何十分も同じ光景を見ているし、まだまだ見続けることになるに違いない。仕事を終え、外で食事を済ませて帰宅してからずっと、体はベッドの上だ。
考えているのはずっと、僕がゾーイに示した提案について。
ヨハンの恋愛話から出た「駆け落ち」という言葉が刺激になって、僕は「ゾーイをウッドフィールド邸から連れ出し、駆け落ちする」というアイディアを思いつき、今日の昼休憩の時間に本人に提案した。
ゾーイが救われるには、とにかくあの家から決別する必要がある。決別するためには、駆け落ち、すなわち僕とともに逃げるという選択がベストだ、と考えた。
ただ、ゾーイが救われるには、必ずしも僕と行動をともにしなければならないわけではない。
束縛から逃れる手伝いだけして、彼女一人で逃げてもいい。僕はあまり詳しくないが、生活困窮者などを支援する施設や団体を探して、そこに頼るのでもいい。
それらの選択肢の存在に気がついていないわけではなかった。
それにもかかわらず、他人に彼女の身柄を委ねるのをよしとせず、駆け落ちという作戦に固執した。雇用主に楯突き、恵まれているとは言えないなりに安定している今の暮らしを捨ててまでも、その作戦を実行しようとした。
なぜなら、僕は本気でゾーイに恋しているから。
「そうか、そうだったのか」
提案を断られて、僕は強いショックを受けた。
ゾーイが救われる道が遠のいたから。というよりも、実質的に閉ざされたように感じられたから。
そう自己分析していたのだが、間違っていたのかもしれない。
よゾーイに本気で恋をしていた僕は、駆け落ちを断られた=愛の告白を断られたように感じて、だからショックだったのだ。
「そうか……。そうだったのか……」
僕は思い返す。ゾーイと過ごした時間を。交わした言葉を。彼女が見せた表情やしぐさを。手当たり次第に、それでいて真摯に。雑巾の水を絞るように思い出そうとしなくても、過去の映像や音声や思念がひとりでに脳裏に甦ってくる。
対面し、見つめ合ったさいの、胸高鳴る緊張感。
発声に連動する薄桃色の唇に見とれたこと。触れてみたいと思ったこと。
ただ普通にしゃべっているだけなのに美しく、聞きほれてしまう、僕を心地よく、幸せな気持ちにさせてくれる声。
ヨハンと食事をしているあいだや、自宅で疲れた体を休めているあいだ、そして道具を手に植物と真摯に向き合っているさなかに、ゾーイと共有する過去を思い返したこと。ゾーイと過ごす未来に思いを馳せたこと。にやける口元。晴れていく鬱屈。早く会いたい、顔を見たい、話がしたいという、素朴で率直な欲求。長らく聴いていないゾーイの歌声を真似るかのように、無意識に口ずさんでいる鼻歌。
「……ああ」
認めざるを得ない。
僕は、ゾーイに恋をしている。
恋愛感情を抜きにしても、「助けたい」と思う気持ちは湧くだろう。でも、僕の「助けたい」は、ゾーイへの恋愛感情に起因するものだったのだ。
いざ真実が白日の下にさらされると、出会ったときからゾーイへの恋愛感情を抱いていたし、自覚もしていたが、意識しないように努めてきただけのような気がしてきた。
青春時代から時間的に遠ざかり、誰かに恋をするという感覚が気恥ずかしかったのか。
年齢差がある少女を愛するのはあるまじきことだという思いがあったのか。
養子として貴族の家庭で暮らしてきた彼女と、一介の庭師に過ぎない自分との身分差を気にしたのか。
いずれにせよ、くだらない。つまらないことに囚われていないで、もっと自分の気持ちに正直に生きるべきだ。
気分が持ち直してきたところで、忽然と思い出した。
正直に生きるもなにも、僕がぶつけた気持ちはすでに拒絶されている。「屋敷から逃げ出して、二人で暮らそう」という提案は、ゾーイ本人から、理由も添えてはっきりと断られている。
「……ああ」
弱々しい声が唇からこぼれた。
脱力した。精神的にも、肉体的にも。
この世界には、たった一人の人間の力ではままならないことがあまりにも多すぎる。
「……行きたくない」
ウッドフィールド邸に。
今回の仕事を任されて初めて、心の底からそう思った。
ゾーイが待つ部屋まで足を運ぶか否かの決断は、最長でも昼休憩が来るまで先延ばしにできる。頭では理解していたにもかかわらず、僕はずっと急かされているような、責められているような気がしてならなかった。
そのせいで集中力を保つのが難しい。足を滑らせて梯子から落ちそうになり、肝を冷やす場面さえあった。父さんが廃業したのは転落事故が原因だったから、高所で作業時はいつも人一倍安全に気をつかっているというのに。
もはや完全に定着した午前の休憩時間中、メアリーは僕の異変には感づかなかった。しかし、昼食時にはそうはいかなかった。
「あれっ、ラルフだ」
木陰でサンドウィッチを頬張っていると、玄関から現れたメアリーが素っ頓狂な声を発した。手にはバスケットを提げている。金色の毛先とスカートの裾を揺らしながら駆け寄ってきた。木陰の輪郭線につま先を合わせて、前屈みになって僕と目の高さを合わせる。
「なにやってるの、こんなところで。今は愛しのゾーイちゃんと楽しくおしゃべりをする時間でしょ。まさか、ご主人さまからなにか言われた――」
「いや、ウッドフィールドさんは関係ない。でも、ゾーイとのあいだで問題が発生したっていうのは正解」
「なになに? 喧嘩でもした? むちゃくちゃ気になるんだけど」
メアリーはにこにことにやにやの中間の顔つきを僕に向けながら、僕の隣に腰を下ろした。いつもよりも距離が近い。午後のティータイムに紅茶とスイーツを持ってきてくれるようになってから、戸惑う僕にはお構いなしにボディタッチしてくるようになったが、漂ってくる馴れ馴れしい雰囲気の濃度は今回が最高かもしれない。
僕にとっては愉快な話じゃないんだけどな――内心でため息をついた。
「わかった、話すよ。実は――」
ありのままに話すのではなく、少し改変を加えて、「外の世界で暮らすことの素晴らしさをついつい熱く力説してしまい、ゾーイに不快感と拒絶感を示された」というふうに伝えた。僕から駆け落ちの提案をしたことに関しては、一から十まで伏せた。
「なるほどね。それは嫌がるだろうね、あの子は。たとえラルフに悪意がなかったとしても」
サンドウィッチを頬張りながらのメアリーの感想だ。僕がいつも食べているから、「なんだかあたしも食べたくなって」、今日の昼食はそれを食べることにしたらしい。耳を落とした薄切りの白パンに挟まっているのは、果物のジャム。端正な顔には、気楽な世間話に耽っているさなかのような、リラックスした表情がたたえられている。
僕が想像していたよりも受け止めかたが軽い。でも、メアリーらしいといえばメアリーらしい反応だから、その意味では困惑や混乱はない。
「ま、あの子が置かれている環境は特殊すぎだし、まっとうな生活を送っているラルフが失敗するのも無理はないよ。運が悪かったとしか言いようがないね」
「僕が考えている以上に、外の世界に対する感情は複雑なんだろうね。憧れは当然あるけど、今の生活から抜け出すのが難しい現実も無視できなくて、それならいっそその問題のことは考えたくない、みたいな」
「難しいっていうか、無理だもんね。ゾーイにとっては、お昼ごはん食べながら気軽に交わしていい質問じゃなかったね」
提案を拒みこそしたが、ゾーイは外の世界への憧れを持っている。過去に交わした会話で、それは事実だと判明している。
憧れの実現を拒むすべての障害を取り除いて、改めて提案すれば、今度こそ首を縦に振ってくれるだろうか?
……いや、無理だ。
可能性はある。ただし、現実的ではない。取り除くのが限りなく不可能に近いからこそ障害として現存し続けているのだし、そもそもの話、具体的にどんな障害がいくつ立ち塞がっているのかを把握できていないのに。
話題はゾーイから離れ、他愛もない雑談へと移行した。
互いの現在の生活状況について語る時間が長くなった。中心となったのは愚痴、不平、不満。
僕は主に、庭師として働き始めたのが遅く、キャリアが浅いため、高額報酬の仕事になかなかありつけないこと。
メアリーは、給料は多くもらっているが、ウッドフィールド邸から離れられない生活を送っているせいで、使い道は限られているから、給与額に見合った幸福感を得られていないこと。
彼女はさらに、ウッドフィールド家で働き始める前の貧乏暮らしについても語った。具体的なエピソードまでは話さなかったが、苦労が絶えなかった、あのころのような生活に戻りたくない、という意見はくり返し口にした。
もともと経済的に恵まれていたわけではなく、貴族の家に雇われている今も、真の意味での豊かさを実感できていない。
そんな共通点を持つ僕たちは、金絡みの話になると妙に盛り上がる。浅ましい話題。でも、だからこそ楽な気持ちで話せる。感覚としては、ヨハンやその他の同世代の同業者と無駄話をしているときのそれに近い。
「あたしたち、なんだかんだ気が合うよね。ラルフは真面目で考え込みがち、あたしはいい加減で楽天的。性格は正反対なのにね」
食事が済み、後片付けをしながらの、総括するかのようなメアリーの感想だ。
首肯した僕は、メアリーと雑談を始めてからずっと、ゾーイのことは脳裏を過ぎらなかった事実を思う。
今日は彼女の部屋に足を運ばないままウッドフィールド家を去ることになりそうだ。
切ないようなさびしさとともに、そう思った。
帰り支度を整えているさなか、僕は歌声を聴いた。
軽く息を呑んだ。手を止めて耳を澄ませる。
「ゾーイ……?」
歌詞は聴き取れないながらも、清澄さが感じられる美しい声。うらはらの、どこか死を思わせる暗い響き。
「……ゾーイだ」
間違いない。歌っているのは彼女以外にあり得ない。
作業の手は完全に停止している。永遠に動き出さそうな、完璧な静止。
無理もない。
こんなにも美しく、魅力的な歌声はなかなかない。聴いたのは久しぶりだが、むしろ、今まで一度たりとも、彼女に向かって「また歌ってほしい」と願わなかった自分が不思議でならない。失敗が許されない大切な仕事だから集中したかったとか、ゾーイを知ることに関心を奪われがちだったとか、事情がないわけではなかった。ただ、それを差し引いても迂闊すぎないか、という思いはある。
歌声は細々と続いている。それに耳をかたむけながら、思う。
この歌は、ゾーイが僕に宛てたなんらかのメッセージなのでは?
根拠はない。確かめる術も、彼女に会いに行かない以上は皆無だ。
――だったら、会いに行けばいい。
もう一人の自分が冷ややかに指摘した。
そのとおりだ。言って、訊いて、真実を確認すればいい。
もしかしたらゾーイは、僕との対話を拒絶するかもしれない。だとしても、彼女の部屋に足を運ぶべき、なのだろうか……。
僕は帰り支度を再開する。手の動きは病人かと見まがうくらいに緩慢だし、耳は歌声に釘づけだ。一方の頭の中では、ずっと考え続けている。
やがて歌は薄れるようにして消える。
前後して、帰り支度がやっとのことで整う。
革袋を手に僕は迷う。支度を再開してからずっと考えているのに、まだ結論が出ないのだ。彼女に会いに行くべきか。今日はやめておくか。
でも、二つのうち一つを選ばなければいけない。どんなに決めがたくても、表か裏か、コイントスをして白黒をつけなければ。
「――よし」
僕は自分に言い聞かせるように一つうなずき、ウッドフィールド邸の巨大な出入口の門扉へと歩みを進める。
歌い終わったということは、もう僕に会う意思はなくなったのだ。
そう解釈した結果の、帰宅という選択。しかし内心では、ゾーイに会うのを怖がるあまり、歌がやんだのを名目として利用したのだと、自分のずるさをちゃんと理解していた。
明日の昼もあの子のもとへは行かないんだろうな、きっと。
情けないというよりも、さびしい気持ちでそう思った。
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