第10話

 五日目の空は少し雲が多い。仕事をするにはうってつけの気候だが、一人の人間の人生が劇的に変わる日にしては冴えないし、詩的ではない。

 自宅での朝のルーティンは平常どおりにこなせたが、ウッドフィールド邸まで来るとさすがに平常心ではいられなくなった。

 時間になり次第、単刀直入に本題に切り込むつもりでいる。ただ、その前に午前の分の仕事をこなさなければならない。それが水を差されるようで少しじれったい。

「あー、おいしっ」

 水筒の水をあおり、メアリーはぷはーと息を吐いて手で口を拭った。その男くさいしぐさに、僕は最初の一杯を一気飲みしたあとのヨハンを連想した。

 朝の仕事は順調に消化し、今は午前の休憩中だ。

「メアリー、喉が渇いていたの?」

「うん。休憩時間が近かったから、ちょっと我慢してた。渇きすぎて倒れちゃうかと思ったよ」

「そのくらい渇いているんだったら、休憩前に飲めばいいのに。ニックさんはそんなに厳しい人なの?」

「全然。むしろ無関心で、最終的にやることをやっていたらそれでオッケー、みたいなタイプかな。そもそも書斎にひきこもりがちで、いちいち使用人の仕事ぶりを監視したりしないし。ただなんとなく我慢していただけで、特に意味なんてないよ」

 もう一口飲んで水筒を返却する。僕はそれを静かに地面に置いて切り出した。

「ねえ、メアリー。メアリーはどう思っているのか、ちょっと気になっていることが一つあって」

「なに? 言ってみて」

「メアリーはどこか行きたいところはある? 具体的な場所でもいいし、漠然とした願望でもいいし」

「……どうしてそんな質問を?」

「実は、昨日の昼にゾーイと話をしているときに、ゾーイにその願望はあるのかなって、ふと気になったんだよ。でも、彼女が置かれている環境は特殊だから、質問する勇気が湧かなくて。だから胸にしまっておいたんだけど、そういえば、外出が難しいのはメアリーも同じだなって、今日の仕事中に気がついて」

「あの子には遠慮するのに、あたしには訊いちゃうんだ。しかも、勇気がなくて訊けなかったことまで平然と言っちゃって。なんかちょっと納得いかないなー、その扱い」

「メアリーは話しやすいから。それっていいことだと僕は思うけど」

「そう? じゃあ、喜んでおこうかな。……それにしても、行きたいところかぁ」

 メアリーは僕から顔を背けて考え込む。

 漠然と胸に秘めていた願いをさらっと打ち明けるか。ぱっと思い浮かんだ候補地をそのまま口にするか。そのどちらかではないかと踏んでいたので、意外な反応だ。

 三十秒ほどが経ち、少し困ったような顔がこちらを向いた。

「難しいね。すぐにはちょっと思い浮かばないよ」

「具体的な場所とか施設とかじゃなくて、だいたいこんなところがいいかなっていうのも、すぐには浮かばない感じ?」

「うん。たぶん、どこかに行きたいって願うこと自体、全然ないからじゃないかな。どうせどこにも行けないって、最初から決めつけているから」

 メアリーは膝を抱えて空を見上げる。釣られて僕の視線もそちらへと移動する。雲の少ない空。昨日やおととい、それ以外の過去にも何回も見てきたような空。彼女の双眸はたしかにその空に向いているが、目に浮かぶ表情は空ではないものを見ているかのようだ。

「趣味とか、好みとか、この屋敷で働き始める以前の思い出なんかをひととおり並べて考えてみたら、これっていうものが見つかるかもしれない。でも、それは本心を突き止めたようでいて、本心からかけ離れているような気がするんだよね。だから、とりあえずの答えとしては、『なにも浮かばない』ということになるかな」

 一陣の乾いた風が吹き、沈黙が僕たちを包む。清涼感のあるさわやかな風だったけど、吹き抜けたあとは少しさびしい気持ちになった。

 可能性がないと、可能性に思いを馳せることすらもなくなる。この事実は僕を静かに打ちのめした。

 きっとゾーイも同じに違いない、と考えてしまったから。


 僕としては上手く隠しているつもりだ。

 実際、メアリーは僕の様子がおかしいとは指摘しなかった。いつものように水筒の水を勝手に飲み、ときどき僕の頬をつつくなどの子どもじみたいたずらをするなどして、時間いっぱいまで僕とのおしゃべりに興じた。

 そう、いつものように。

「……ラルフ?」

 しかし、昼休憩の時間、ゾーイの手が窓を開け、僕たちを物理的に隔てるものが消失した瞬間、彼女は異変に感づいたらしい顔つきになった。

 真実を見極めようとするように、僕の顔をじっと見つめてくる。実年齢よりも少し幼く感じられる、どこか無防備で、でもとても真剣な顔つき。

「ゾーイ、君に話したいことがあるんだ。話っていうか、提案? たぶんびっくりすると思うけど、真剣な話だから真剣に聞いてくれるとうれしいんだけど」

「もちろん。……なにかな?」

「僕と二人で、この屋敷から逃げない? いわゆる駆け落ちだね」

 言えた。考えていたよりもずっとすんなりと。怖いくらいに呆気なく。

 ゾーイは双眸と口を丸く開いて絶句している。

 十秒ほども続いたフリーズ状態は、うつむいて僕から視線を外すことで解除された。まばたきがせわしない。僕からの提案の意図を懸命に理解しようとしているのが伝わってくる。

 今朝メアリーが言っていた「実現の可能性がないものは想像することもない」という趣旨の発言が思い出される。

 的を射ていたんだな、と沈着冷静に僕は思う。

「びっくりした? そうだよね。無理もないと思う。

 でも、冗談で言っているわけじゃないよ。からかっているわけでもない。僕は本気で君をこの屋敷の外に連れ出して、外の世界で、君と二人で暮らしたいと思っている」

「わたしとラルフが、いっしょに暮らす……」

「そう、いっしょに。

 この五日間、君と何度も会話してみて、僕たちの相性のよさがよくわかった。いっしょにいて楽しいし、安らげる。だからこそ君に、もっと楽な生活をさせてあげたい。助けてあげたい。今の、経済的にそう余裕があるわけじゃないけど、ある程度安定している生活を捨ててでも、その未来を選びたい。本気でそう思っているよ。

 ゾーイはどう思っているのかな。外の世界で僕と暮らすことができるとしたら、うれしい?」

「ラルフ、ごめん。考えてもみなかったことをいきなり言われたから、混乱してしまって、すぐにはなにも答えられないよ……」

「一気にしゃべりすぎてしまったね。大事な話だから、じっくり考えたうえで答えてほしい。僕も急かするつもりはないし」

 ゾーイはいつの間にか自らの足元に視線を落としている。眉根は苦しそうに、もどかしそうに寄せられている。すでに考えは固まり、どう返答するのかも決めている。でも僕に伝えるのがはばかられるから、言い淀んでいる。そんなところだろうか。

 自分の心音がはっきりと聞こえる。不穏な音色に、両手を握る。掌にうっすらと汗をかいている。つい十分ほど前まで励んでいた肉体労働のせいで分泌されたのとはまた違う汗。

 時間の流れが遅い。もどかしいとかじれったいとかではなく、泣きたくなるような遅さ。

「……どうなのかな。ウッドフィールド家の外で生活したい? それとも今の生活のままがいい? ゾーイの気持ちを聞かせて」

 我慢しきれず、「急かすつもりはない」という宣言を反故にして発した言葉に、ゾーイは顔を上げた。視線が重なると、眉間のしわが深くなった。その変化によって、表情に悲しげな印象が付与された。嫌な予感がした。薄桃色の唇が動き、美麗な声が言う。

「わたしといっしょにいたいと言ってくれたことは、うれしいよ。すっごくうれしい。ラルフと二人で暮らす未来、とても魅力的だなって思う。……でも、だからといって、この家を出て行ってまでその未来を実現したいとは思わないよ」

 表情の硬さから、返答の方向性としてはそちらだと予期してはいた。それでも、僕を襲ったショックは並大抵ではなかった。

 ゾーイの眉間はますます狭くなる。表情はいっそう狂おしさを増す。

「確かに、わたしが置かれている状況は異常だと思う。鎖に繋がれているのも、メアリーからいじめられているのも、父親から愛情を注がれていないのも、なにもかも異常。はっきり言って苦痛だし、逃げられるものなら逃げたい気持ちはあるよ。

 だけど、逃げるのが必ずしも正しい選択、賢い選択だとは思っていなくて」

「それは、どうして?」

「この家から出ていくことで、失われてしまうものが少なくとも二つある。その二つはどちらも、わたしの中ではあまりにも大きすぎるから。

 一つは、メアリー。一つは、父親。

 二人とも、わたしにとってとても大切な存在。彼らを見捨ててこの屋敷から出ていくことなんて、できないんだよ、ラルフ」

「……わからない。わからないよ、ゾーイ」

 声がかすかに震える。原因は、怒りなのか、それとも悲しみなのか。

「君を不幸にしている元凶がその二人でしょ。その二人と決別することで、君はなにを失うというの? むしろ幸せになれるんじゃないの?」

 父親――ニック・ウッドフィールドは、ゾーイを物置部屋に鎖で繋いだ張本人だ。

 メアリーは、ストレスを発散するために、日常的にゾーイに嫌がらせをしている。

 そんな二人と離れられるというのに、なぜ抵抗感を覚えているんだ?

 わからない。不可解でしかないよ、ゾーイ。

「二人が根っからの悪人だったら、滝みたいにうれし涙を流してラルフの誘いに乗っていたよ。でも、わたしがいなくなって、あの二人だけでこの家で生活したらどうなるんだろうって想像すると、そんな真似は絶対にできないなって思う。

 父親は事業を失敗したことで、人が変わったようになってしまった。メアリーは、わたしというストレスのはけ口がいなくなってしまったら、とてもじゃないけど気難しい父を支えることなんてできない。

 そのくらい、あの二人は弱いの。脆いの。

 だから、わたしがこの家にいないといけない。

 ラルフの誘いは魅力的だけど、でも受け入れられないよ」

 ……ゾーイ、君は、「我慢することが正しいとは思わない」と言ったばかりじゃないか。苦しみも人間関係もなにもかも投げ出して、新しい世界で暮らしたいのが本音なんじゃないの?

 込み上げてきた思いは、言葉は、しかし声にのせることはできない。

 しゃべるゾーイの顔から片時も目を離していない僕には、「ラルフといっしょには暮らせない」が本音だとわかったから。

 ゾーイは、

 本心を偽っているから、眉をひそめているわけではない。嘘をついているから、苦しげな声でしゃべっているわけではない。

 ひとえに、僕の想いに応えられないのが心苦しいからこそ、そんな表情を見せているし、そんな話しかたになっているのだ。

「ねえ、ラルフ。わたし、しゃべりながら考えていたんだけど、計画を邪魔する要因は他にもたくさんあるよ。たとえば、手錠の鍵」

 ゾーイは右手を胸の高さまでのろのろと持ち上げる。じゃらり、と鎖が鳴る音。

「鍵の保管場所はニックだけしか知らないから、探し出すとなると大変だよね」

「手錠の鍵なら、ウッドフィールド氏が書斎に保管してあるんじゃなかったっけ。ゾーイはそう話していたよね」

「わかっているのは大まかな場所、書斎にあるということだけで、どこかにしまってあるのかまでは把握していないから。机の引き出しなのか、本棚の本のページの隙間なのか、それとも隠し扉の内側に置いてある金庫の中なのか――詳しくは教えてもらっていないの。父親からすれば、わざわざ教える理由ないしね」

「そう、だよね……」

「それに、ラルフはそんなに裕福ではないんでしょ? それなのに、わたし一人を養うなんてことになったら、ラルフの生活まで壊れちゃうよ。働ける年齢に達しているならまだしも、わたしはまだ十五歳で、世間知らずだし体力もない。探せば仕事がないわけじゃないんだろうけど、でも基本的には、お荷物の足手まといだって考えるべきじゃないかな。いくら世の中のことを知らないといっても、それくらいなんとなくわかるよ」

 今以上に仕事をがんばるから、金のことは心配しないで。

 言下にそう力強く断言し、ゾーイの懸念の一つを解消できたら、どんなによかっただろう。

 しかし、それが無責任な発言以外のなにものでもないことは、僕自身が一番よくわかっている。

 情けなさと恥ずかしさに、僕は下唇を弱く噛む。

 認めざるを得ない。

 僕が呈示した案は、穴だらけの欠陥品だと。

 僕は、ゾーイの庇護者として不適格だと。

「……ごめん。こちらから言い出しておいてなんだけど、今僕が言ったこと、忘れてくれないかな? なかったことにしてほしい。冗談を言ったんだと思って」

 沈黙は僕から破った。それが、早まった提案をした人間としての義務だと思ったから。

 顔にはきっと、いじめられっ子がいじめられている最中のような、痛々しくて、情けないことこのうえない表情が浮かんでいるのだろう。

 独断で非現実的な提案しておいて、難色を示されたら一転して「なかったことにしてください」だなんて、大の大人が子ども相手にやっていいことじゃない。

 でも、あくまでも提案に固執してゾーイに迷惑をかけるくらいなら、自分一人が惨めな思いを味わうほうがましだ。

「……そうだね。そうしたほうがいいよ」

 ゾーイはさびしげな表情でうなずいた。

 話はひと段落したが、とてもではないが、普段のような調子で過ごすなんて無理だ。

「ねえゾーイ、今日のところはもう庭に戻っていいかな? ゾーイはたぶん、今日はもう僕と話をしないほうがいいし、僕も一人で食べたい気分だから」

 申し出は速やかに了承された。僕のことを思っての即答だったのは理解できるが、心臓を物理的な力で締めつけてくるような切なさはどうにもならない。

 僕は逃げるように部屋の前から去った。

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