第9話
ヨハンと四日ぶりに食事することになった。往来で偶然顔を合わせたのがきっかけで、店はもちろん『黄金郷』。
注文した料理を頬張り、互いが現在取り組んでいる仕事について話しながら、僕は自分の精神状態がおかしいことに気がついていた。
『僕、どうしちゃったんだろうな。お前と食事ができることに、自分でもおかしいなって思うくらい喜びを感じている。変だよな。今まで三日くらい顔を合わせないことなんて、そう珍しくなかったのに』
そんな冗談の一つでも言いたくなるようなテンションだったのは、ヨハンと出会ってから『黄金郷』に移動するまでのあいだだけ。店のテーブルに着いてからはずっと、なにか変だ、なにか変だと思い続けている。
その原因がゾーイにあると、食事も中盤に差しかかったころにやっと気がついた。
ゾーイと出会って以来、彼女に思いを馳せる機会は頻繁で、尺は長かった。仕事をしているあいだも、自宅で過ごしているあいだも。頭の中で彼女と繋がる時間は、質の観点からも量の観点からも、僕の生活の中で無視できない存在感を誇っていた。
ただし、なんらかの作業に追われていないときに思いを馳せる、という形が大半だった。仕事中に手を滑らせて刃で体を傷つけることはなかったし、家で食べる朝食のコーヒーがいたずらに冷めることもなかった。
それが今日は、僕の行為や思考を阻害している。ヨハンとの会話がうわの空になり、受け答えがちぐはぐになり、彼に「おや?」という顔をされる。そんなことが何度もある。
突き詰めれば、僕を悩ませる問題は一つ。
ゾーイは部屋に囚われたまま、一介の庭師と会話する時間でさえも大きな幸福だと感じるような生活を、果たして続けるべきなのか?
「で、その人は意味深な目配せをしてきて――」
ジョッキを片手にヨハンはしゃべる。会話の主導権を握っているのは、席に着いてからずっとヨハン。酔いが回れば回るほど舌は滑らかになっていく。いつものことと言えばいつものことだが、そのおかげで僕が打つ相槌の誠意のなさを、なにかに思い悩んでいることをいまだに悟られていない。喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか……。
彼が今話しているのは、学生時代に友だち付き合いがあった女性について。
片想いをしていたが想いを伝えられないまま疎遠となったその女性と、ヨハンは最近偶然再会を果たした。彼は運命を感じ、思春期の少年のように胸をときめかせた。路上からカフェへと舞台を移して二人は話し込んだ。残念ながら彼女は既婚者だった。ただ、幸福な結婚生活ではないようで、夫に対する愚痴をつらつらと並べ立てる。のみならず、ヨハンへの恋愛感情をほのめかせる。そんな逢瀬をすでに数回重ねているという。
ヨハンが好む男女関係の話題だが、彼自身が主要登場人物となっているパターンは珍しい。
ここまで話を聞いたかぎり、ヨハンは女性の言動をいちいち己の都合のいいように解釈しすぎている。
普段であれば、友人として、あるいは常識人代表として、おめでたい勘違いを徹底的に叩きのめしてやるところだ。ただ、彼には申し訳ないと思いつつも、今は自分の問題、ゾーイの問題に集中したい気持ちのほうが強い。気の置けない友人とくだらないおしゃべりに耽る時間は好きだが、常に優先順位の先頭に君臨するわけではない。
黒胡椒がきいたポークソテーを小さめに切り分けながら、僕は考えを前へ、前へと進める。
本当に、今の生活が幸せなの? 幸せなのだとしても、もっと大きな幸せを手に入れたいとは思わないの?
そうストレートに問い質したい気持ちはある。ただ、よくよく考えてみれば、ゾーイは昼間の会話ですでに、現在の生活を続けることに肯定的な発言をしている。
本人が望まないなら、部外者が望む「真の幸福」は無価値に等しい。
それとも、無知ゆえに、あるいは無垢ゆえに真実が見えていないと見なして、「真の幸福」を求めるべきだとあくまでも主張するべきなのだろうか?
「頭の中だけでなら、いろいろ妄想を膨らませるだろう。真夜中に家を抜け出して、二人だけが知っている思い出の場所で合流して、そのまま駆け落ちとかさ」
急にクリアに聞こえてきたヨハンの声に、思案は緊急停止を余儀なくされた。
「駆け落ち……?」
その一語は、まったく未知の言語のように響いた。うらはらに、その言葉が持つ意味は僕の関心を強く惹きつけ、心を揺さぶった。
「ん? どうした、ラルフ。そんな間抜け面して」
ヨハンはビールがなみなみとたたえられたジョッキを手にしたまま、怪訝そうに僕の顔をまじまじと見つめてくる。
「もしかして、俺がマジで実行するとでも思ってる? その既婚の女との駆け落ちを? いやいや、冗談だからね。ほんの冗談」
彼は苦笑し、その顔の前で左手を左右に振った。ジョッキに口をつけて何口か飲み、十数秒ぶりにテーブルに下ろす。
「俺もさすがにそこまで馬鹿じゃないぞ。人妻と問題なんて起こしたら、社会的に終わっちまう。俺にとっては庭師の仕事は大事だし、大好きだから、大切にしていきたいよ」
「逆に言えば、条件によっては過ちを犯してもいい、と」
「そうとうな好条件だったらね。どこからか大金が転がり込んできて、今後いっさい働く必要がなくなるとか、そのレベルじゃないと。ようするに夢物語ってことだな」
ヨハンは軽く肩を竦めてみせ、キノコと青菜のパスタをフォークに巻きつける。
僕はポークソテーを淡々と口に運びながら、駆け落ち、駆け落ちと、執拗に心の中でくり返した。
けっきょくは踏み出す勇気の問題なのかもしれない。
庭師として独り立ちしてからの根城である安アパート。狭い室内の片隅に置かれた粗末なパイプベッドに体を横たえて以来、僕はずっと物思いに耽っている。
大人が敷いたレールの上や、自分以外のたくさんの人間が通り道に選んできた通りなど、歩きやすい道ばかり歩いてきたのがこれまでの僕の人生だった。
冒険するのは趣味じゃない。学生時代、同性の同級生たちが語る武勇伝にも、僕は他の男子たちのように目を輝かせなかった。誰かが近くでその種の話を始めると、なんとなく聞き耳を立ててしまうくらいの魅力は感じていたにせよ。
父さんの跡を継いで庭師になったのも、振り返ってみれば実に僕らしい決断だった。直接のきっかけは、父さんが事故による怪我で引退を余儀なくされたから。ただ、仮にその不幸が起きなかったとしても、けっきょくは同じ道に進んでいたような気もする。
自分自身の人生でさえ安全な道しか通らなかった僕が、他人の人生を一変させる道を選べるはずがない。
僕の力では、ゾーイを囚われの身から解放するのは無理なんだ。
弱気が頭をもたげる。それを振り払うように頭を振る。
諦めるな。諦めたらそこで終わる。ゾーイを見殺しにするわけにはいかない。
勇気を奮って新しい一歩を踏み出したい。
そんな願いが僕の中にあるのは、どうやら確からしい。
願いを願いのままで終わらせないためには、なにか一つ、背中を強く押してくれるものが必要だ。
『そうとうな好条件だったらね。どこからか大金が転がり込んできて、今後いっさい働く必要がなくなるとか、そのレベルじゃないと。ようするに夢物語ってことだな』
ヨハンは金銭を重視している。
メアリーはゾーイをいじめる理由の一つとして、経済的に恵まれた人間特有の、余裕ありげな態度に対するいら立ちを挙げていた。
メアリーによると「事業の失敗」がきかっけで精神を病んだらしいニックも、金に影響を受けた人間の一人といえる。
僕も、彼らと大差はない。
引退を余儀なくされた父親の志を継ぎたい。そんな高尚な思いと同時に、手に職をつけるなら庭師が一番効率的だ、という計算があった。当時の僕は、なんのスキルも持ち合わせていない平凡な少年。ただ、庭仕事であれば、お遊びレベルではあったがノウハウを取得していた。父さんの人脈を頼ることもでき、新調する道具類も最小限で事足りる。だから、庭師。
では、ゾーイはどうなのだろう。
金持ちの貴族の家に養子としてもらわれ、最初こそ愛されたが、当主の事業が失敗したことで自由を奪われた、ゾーイは。
『ラルフが窓の外まで来てくれるようになってから、毎日が楽しくて、楽しくて』
弾かれたように上体を起こした。
眠気はもはや微塵もない。見慣れたのを通り越して見飽きた、経年劣化により薄汚れた木製の壁を見つめながら、僕は未来について考えを巡らせた。
時間の流れが遅く、夜はなかなか更けなかった。
ようやく眠気を覚え始めたころ、子ども向けのファンタジー小説の存在を思い出した。
長い夜が明け、ウッドフィールド邸へ行き、ゾーイに会ったら、彼女にしようとしていることが僕にはある。その行為を、変則的な形ではあるが、その小説の主人公も実行していたことにはたと気がついた。
「……こんなところから影響を受けていたのか」
フィクションの世界で描かれた行為を、現実世界で行おうとしている自分に、愕然としてしまった。
現実は現実、架空の物語は架空の物語。物語中では成功したからといって、現実でも成功するとは限らない。むしろ、失敗に終わるのが当たり前なのでは?
またしても、眠気はすっかり覚めた。
引き返すなら今だぞ――もう一人の自分が警告を発している。
僕はおもむろにベッドから出て明かりを灯し、部屋の隅に固めて置いてある雑多な物品の山を崩し始めた。実家から引っ越しをするさいに持参したものの、手をつけないまま放置された荷物。問題のファンタジー小説はその中に紛れているはずだ。
僕は、本を破り捨てることで、僕が明日やろうとしていることは絵空事だという現実から、目を逸らしたかったのかもしれない。
それとも、作戦の模様が描かれた箇所を読み返すことで、明日の行動を成功に導く確率を少しでも高めたかったのだろうか。
いくら探しても目当ての一冊は見つからない。発掘した何冊かの本は、いずれも問題の小説のタイトルではなかった。思い違いをしている可能性も考慮して、念のために内容を検めてみる。いずれも庭師の仕事関連の専門書で、フィクションの物語ですらなかった。
すっきりしない気持ちだったが、作業は断念するしかなかった。再び消灯し、ベッドに体を横たえる。寝る態勢に入ったとたん、急に眠気が意識を侵し始めて、解消されたのではなくいったん引っ込んでいただけなのだと悟る。
明日、自分がしようとしていることの成功率について考えないように、四肢の力を抜いて眠気に身を委ねる。
なるようになる、という、無責任な開き直りの気持ちが胸の底にはあった。
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