第8話

「ラルフ! おーい!」

 仕事開始から昼休憩までの時間のちょうど中間。昨日とは逆にメアリーから声をかけてきた。

「どうしたの、メアリー。僕に用事?」

「別にー。ちょうど休憩したくなったから、ついでに話をと思って。暇つぶしの相手になってほしいっていうのが、用事といえば用事かな。

 提案なんだけど、ラルフが働いているあいだ、今くらいの時間帯は毎日小休止の時間にするから、休憩がてらのんびり話をしようよ。ラルフといっしょだと、ご主人さまに見つかっても怒られないだろうから、あたしとしても好都合なんだよね」

「もちろんいいよ。……実は、メアリーに質問したいことがあるんだけど、さっそくいいかな? ウッドフィールドさんのことなんだけど」

「シリアスな話?」

「そうなるね。移動しようか」

 木陰に並んで腰を下ろしたこと、メアリーが水筒の水に口をつけたこと、僕から話し出したこと。すべてが昨日をなぞったかのようだ。

 違うのは、彼女が隣にいてもほとんど緊張しなくなったこと。メアリーは初対面のときから僕に好意的、砕けた口をきいてくれたから、打ち解けるのは早かった。唯一不満があるとすれば、ゾーイを日常的にいじめていることだけど、幸い、二人きりで話しているときに囚われの少女が話題に上ることはほとんどない。

 僕が言った「ウッドフィールドさんのこと」とは、昨日の昼、ゾーイと話をしていたさいにニックが部屋に来たことについて。

 僕は難を逃れた。その後、ゾーイの部屋まで確認しに行き、耳で無事は確かめたが、目では確かめていないから一抹の不安が拭えない。

 そんな僕の訴えに、メアリーは朗らかな表情で答えた。

「ゾーイなら心配しないで。あの子はいつもどおりだったよ。普通にごはんも三食きっちり食べて、あたしとちょっと雑談して。暗い顔ではあったけど、普段から暗いといえば暗いしね」

「そっか。じゃあ、その件に関しては安心かな」

 メアリーは冗談や軽口はよく言うが、嘘はつかない。ゾーイが無事だという証言は信頼してもよさそうだ。

「そうなると気になるのは、ウッドフィールドさんはどこまで事実を把握しているのかどうか、だね。僕とゾーイが会話していたことに気がついていたけど、あえてゾーイを叱らなかった可能性はあるわけだよね。親子の会話は途中までしか聞けていないけど、そこから判断したかぎり、どうも気がついていたような気がして。その場にいなかったメアリーが判断するのは難しいだろうけど、どう思う?」

「気づいているんじゃないかな。百パーセントそうだとは言い切れないけど、たぶんそうだと思う」

 一段ボリュームを落とした声での断言。しかも即答だ。

「あまり悪口は言いたくないけど、ご主人さまはときどき凄くいやらしいことをする人だから。意地悪を通り越して」

「いやらしいことって、たとえば?」

「一回ね、ゾーイに手錠の鍵を見せびらかしながら、説教じみた講釈を垂れていたことがあったよ。詳しい事情も経緯もわからないけど、ゾーイに対して腹を立てていたみたいで、くどくどと小言を言っていて。あの子の手錠の鍵を見せつけながら、これを私が持っているかぎりお前はこの部屋にいるしかないんだ、自由はないんだ、みたいなことを言っていたね。怒鳴るんじゃなくて、ねちねち精神的に痛めつけるみたいな感じ」

「一言注意すればすむところを、わざとそういう言いかたをして責めたということ?」

「だと思う。あたしもゾーイにはときどきいじわるするけど、ご主人さまはあたし以上に悪辣なことをやっているってわけ」

 軽薄な微笑がメアリーの顔に滲み出す。しかしすぐに引っ込み、よくも悪くも彼女らしくない、真面目くさった表情に切り替わった。

「昔は融通がきかないくらい生真面目な人だったんだけどね。面白味はないけど信頼はできる、みたいな。目下の人間にあんな幼稚な嫌がらせなんて、絶対にしなかった。そもそも、自分の娘を手錠と鎖で部屋に束縛する時点で異常だからね。そうとう異常。

 やっぱり、事業に失敗したのが精神的にきつかったのかな。ていうか、そうとしか考えられない」

「事業?」

「ああ、そうか。ラルフは知らないよね。

 あたしも詳しくは聞いていないんだけど、ご主人さまは奥さまが亡くなってすぐ、当時取り組んでいた仕事でかなり手痛い失敗をしちゃったみたいで。あの人の言動がおかしくなっちゃったの、それを境にだからね。あたし以外の使用人が解雇されたのも、ゾーイが囚人みたいに鎖で繋がれたのも」

 僕から顔を背けて控えめなため息をつく。無意識のように芝生をむしり、胸の高さで掌をぱっと開く。一陣の風に草が散り、三分の一ほどがスカートにかかり、残りは緑の絨毯に紛れた。

「自分が置かれている状況、久しぶりに客観視してみたけど、やばいよね。冷静になればなるほどやばさが浮き彫りになるっていうか。……なんでこんなことになっちゃったんだろうね。異常だよね、あらゆる意味で」

「異常性はきちんと認識しているんだね」

「当り前。認識してないとさすがにやばいでしょ。教養がなくてもそのくらいわかる」

「そんなウッドフィールド家で働き続けているのには、なにか理由があるのかな」

「給料が高いからだよ。それ以外にあり得ないでしょ」

 メアリーはきっぱりと言い切った。どうしてそんな当たり前のことを訊くの? そんな憤りが、わずかながらも声に含まれていた。

「あたし、子どものころからずっと家が貧乏だったんだよね。極貧というほどではなかったけど、路頭に迷うことへの恐怖が常にあって。だから、多少仕事がきついとか、多少雇い主が人間的に欠陥があるとか、多少主人と娘の関係が異常とか、そういう要素はあたしにとってささいな問題でしかないの。目をつぶってもなんら支障はない、問題ですらないちっぽけな問題。部外者のラルフ的には大問題なのかもしれないけど。

 あたしにかなり有利な、夢みたいな好条件でも舞い込んでこないかぎり、ここでメイドをやり続けることになるんじゃないかな。くり返し言うように、給料だけはいいから。住み込みだから、家賃も食費もタダだしね」

 金持ちに対する嫉妬心もゾーイをいじめている一因だと、メアリーは過去に発言していた。経済的な豊かさは、彼女の中ではかなり高い価値を持っているのだと、話を聞いてよく理解できた。

 それでは、まとまった金と引き換えに嫌がらせをやめるように要請すれば、ゾーイに対する蛮行を食い止められるだろうか?

 可能性はあるだろう。しかし、僕にとっては現実的ではない。

 金。

 それこそが現状、僕にもっとも不足しているものだから。


「メアリーとは昔はもっと仲がよかったの」

 二の腕にかかる長い純白の髪の毛を、背中のほうにやんわりとどけて、ゾーイはひとり言のようにつぶやいた。使ったのは左手なので、鎖の音は鳴らなかった。

 正午。物置のようなメアリーの自室。開け放たれた窓越しの会話。

「歳も近いし、メアリーはフレンドリーで明るい性格の子だからね。上下関係がない姉妹、あるいは友だち同士みたいな関係だった」

 僕のほうから「メアリーのことをどう思っているの?」と尋ねたわけではないが、きっかけは僕が作った。

 休憩時間中の過ごしかたを問われたので、「昨日から午前中に一度、ティータイムに一度の計二回、メアリーと話をする時間を作っている」と答えた。するとゾーイが、メアリーとの関係について自主的に語り出したのだ。

「でも、父親がわたしに厳しくするようにメアリーに命じてからは、ずっと今みたいな関係で。二日目にラルフがチョコをくれたみたいな、ささいな親切すらされたことがなくて。通じ合えるものが多いように思えても、わたしは貴族の養子で、あの子は使用人。わたしたちのあいだには、簡単には埋められない深い溝が隔たっているんだと思う。……こうやって言葉で認めてしまうのは、本当につらいことだけど」

 ゾーイの面持ちは沈痛で、まるで自らが犯したあがないがたい罪を悔いているかのようだ。

 淡々とした口ぶりと、清らかな声と、シリアスな話題。なにかもが噛み合っていなくて、どこか滑稽ですらあって、しかしそれ以上に胸が締めつけられるような切なさを強く感じる。

「メアリーから日常的にいじわるをされているって、ラルフには伝えたと思うけど、わたしの父から『ゾーイには厳しく接しろ』と命じられたからというよりも、わたしが気に食わないからやっているんだなって思うことも、正直かなりあって。

 歩み寄れることや改善できることがあるなら、すぐにでも実行したいと思っているよ。

 でも、どう言えばいいんだろう。今さらそんなことを話し合える雰囲気でもなくなったっていうか。まだ取り返しはつくかもしれないけど、気軽には行動に移せない、息苦しい関係になってしまっている。そこは残念だなって思うよ」

 僕の推測だと、メアリーがゾーイに危害を加える一番の理由は、金持ちという身分に対する嫉妬。ゾーイ本人が努力したところで改善できるものではない。

 つまり、ゾーイは今の暮らしが続くかぎり、メアリーから黒い感情を抱かれ続け、嫌がらせを受け続ける。

 あまりにも重い事実に、僕の心まで重苦しくなってくる。

 抜け出したい。抜け出すべきだ。でも、抜け出せない。

 彼女の口から語られる話を聞けば聞くほど、絶望感は高まっていく。

 ゾーイは沈黙している。次の言葉を探しているのか、僕のレスポンスを待っているのか。どちらにせよ、気まずい雰囲気を少しでも緩和させるためにも、なにかしゃべりたい。

「でも、つらかった日々も、ラルフと知り合ったことで終止符が打たれた」

 しかし、顔をこちらに向けてのゾーイの言葉が、その努力は不要だと伝えた。

「ラルフがこの部屋まで来て話をしてくれるようになってから、毎日が楽しくて、楽しくて。部屋から出てはいけないのは同じなのに、一時間くらい話し相手になってくれる人がいる、ただそれだけで、空が暗くなってもさびしくないし、すんなり寝つける。朝はすっきりと目覚められるし、固くて風味に乏しいパンだってとびきりおいしく感じられる。会えない時間も、ラルフとの会話を思い返したり、次に会うときになにを話すかについて考えたりすれば、時間が流れるのも全然遅くは感じない。とにかく毎日が充実していて、いつだって前向きな気持ちでいられる。だから、外に出たいって強く願うこともなくなったよ」

 僕はとても複雑な気持ちだ。

 ゾーイの孤独な暮らしに大きな役割を果たせたと知って、素直にうれしかった。誉め言葉の飾り気のなさが彼女らしくて、微笑ましいと感じた。

 ……ただ。

 僕と話ができるという報酬と引き換えに、現在の異常な暮らしから抜け出すのを諦める? 物理的には不可能なのは最初からだとしても、気持ちのうえでも諦めてしまうだって?

 そんなのは、あまりにも残酷すぎる。

 僕としては、現状をもっと呪詛し、唾棄する言葉が欲しかった。ゾーイの性格にそぐわない望みなのはわかっていたが、穏やかに糾弾する、というやりかたもあり得るはずだ。

 ゾーイの心根の優しさは大好きだ。

 でも、だからこそ、もどかしい。

『そんな小さな喜びに満足するべきじゃない。君はもっと現状に、ニック・ウッドフィールドに、メアリーに、怒るべきだ。異を唱えるべきだ』

 そんな苦言を、叱りつけるように彼女にぶつけたくなった。

 ただ、そうしたところで、ゾーイを取り巻く環境は一ミリも改善されないのだと思うと、衝動はたちまち萎える。そして、さびしい気持ちが跡に残された。

「だから、この場で感謝の気持ちを伝えさせて。ラルフ、ありがとう」

 ゾーイははにかみ笑いを浮かべて頭を下げた。

「お礼、ちょっと唐突だった? ……どうしてなんだろうね。上手く説明できないんだけど、感謝を伝えたい気持ちで胸がいっぱいになったから」

「変じゃないよ。全然変なんかじゃない。誰かに感謝を伝えるのは大なり小なり照れくさいものだけど、恥ずかしいことでも悪いことでもないから」

 シリアスな意見を交わした反動のように、埋め合わせのように、僕たちは他愛もない雑談に移行した。しゃべり、相槌を打つかたわら、僕は思う。

 現状に満足しているようではだめだ。感謝し、安穏としているようではだめだ。現実問題、変えられるかどうかは別として、変えようとする努力くらいはするべきだ。

 そのために、僕にも担える役割があるとすれば、どんなことなんだ?

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