第7話
昨日とも、おとといとも違う具材を挟んだサンドウィッチを丸々一個、ゾーイに食べてもらう。
「おいしい! サンドウィッチって、お肉は必須っていうイメージだったんだけど、お野菜だけもとてもおいしいね。マスタードがきいたドレッシングもすごく合っていて」
ゾーイは賞賛と咀嚼、両方の目的で口を盛んに動かす。もともと行儀がいい子なのだが、今日は食欲を抑えきれないといった感じだ。
ちなみに、今日食べてもらったのはコールスローのサンドウィッチ。肉を食べる機会が少ないということで、肉加工食品を挟んだ別のものをすすめたのだが、「これを食べてみたいです」と彼女が自ら希望したのだ。
「辛いのは苦手だっていう人もいるけど、ゾーイは平気なんだね。子どもは特に多いんだけど」
「わたしはもう子どもじゃないよ。苦労の多い生活を送ってきたから、好き嫌いをしている暇なんてないの」
上機嫌そうに食べ進めるゾーイを眺めながら、僕もスクランブルエッグのサンドウィッチをぱくつく。頭の中で思い返していたのは、メアリーの「養子にもらわれる前のゾーイがどんな家で暮らしていたのかは知らない」という発言。
僕たちは食事をしながら食べ物の話をすることも多い。ただ、今のところ、食事の面からゾーイの過去を知る手掛かりは得られていない。今までに食べたことがある料理や食材はそう多くはないようだが、貧しい暮らしを送ってきたと断定してしまってもいいのだろうか?
自宅からウッドフィールド家に向かうのにも、部屋の窓の前まで行くのにも、ゾーイと対面して言葉を交わすのにも、なんら心理的な抵抗はない。むしろ、早くそうしたくて気持ちは前のめりになる。しかし、いざ話し始めると、訊きたかったこと、伝えたかったことを半分も口にできない。ゾーイを傷つけること、嫌われることを心配しすぎるせいで。
「ねえラルフ、仕事道具を見せてもらってもいいかな?」
食べ終わったあと、会話が途切れたタイミングで、ゾーイが唐突にそんなリクエストを出した。
「だってほら、わたし、部屋に繋がれているでしょ。だから、ラルフの仕事を見ることができないよね。話で聞いて想像するしかない。だったら、せめて、道具を見せてもらいたいなって思って。一口にハサミって言ってもいろいろな種類があるみたいで、興味が湧いて。この生活を始める前はハサミなんて、お店で売っているような普通のものしか知らないから」
ゾーイの口調は恐る恐るといった感じだ。少々くどくどしく理由を述べたのも、あるいは気後れしているせいなのか。
「いいよ。触るのは危ないから、見るだけなら喜んで」
彼女が抱いている余計なものを払拭しようとするかのように、僕は努めて軽やかにそう言って、すぐさま庭へ。
「持ってきたよ。見せるね」
高い場所の枝葉を刈るための柄の長いハサミ。太い枝を切るためのノコギリ。刈って地に落ちた枝葉を隈なく集めるためのレーキ。
「ねえ、これはなにに使うの?」
ゾーイは、僕が革袋から次々と取り出しては地面に置いていくもののうちの一つを指差し、問うた。それは金属製のハンマーで、柄には滑り止めのテープが巻かれている。
「ああ、これね」
僕は指定されたものを掴み上げる。金属製だけあって持ち重りがする。もしかすると苦笑が浮かんでいるかもしれない顔を質問者に向けながら、
「これは花壇の縁石や木の柵なんかを整備するときに使うものだよ。といっても、駆け出し庭師の僕はただ木の枝や葉を刈るだけだから、使う機会はまずないんだけど」
「じゃあ、なんで持っているの? 念のため?」
「それもあるけど、お守り代わりでもあるんだ。いつか庭仕事を任せられるような庭師になるぞ、そのときまで大事に持っておこう、そんなお守りとしてね。荷物の重量が増えるだけだから、愚かで非効率的な習慣でしかないんだけど――」
「ううん、そんなことない」
思いがけない強い声に、驚いてゾーイの顔を見た。彼女には珍しく、眉尻が上がった凛々しい表情をしていたが、視線がぶつかったとたん、崩れるように柔和な表情になる。
「きっとなれるよ。ラルフならたいへんな仕事も任されるような立派な庭師に、いつか必ずなれるよ。……って、仕事の様子も見たことないくせに、なに偉そうなこと言ってるんだって話だけど」
「いや、ありがとう。ゾーイを喜ばせるためにも、がんばらないといけないね」
僕たちがいる場はあたたかな雰囲気に包まれた。日当たりの悪さに起因する陰気さ、この季節特有の暑苦しさ、どちらからもかけ離れた、自然と笑みがこぼれるような雰囲気に。
この空気感を大事に味わう意味も込めて、時間いっぱいまで世間話をして今日のところはお別れ、でもよかった。
しかし、幸か不幸か――たぶん、どちらかというと不幸なのだろう――僕は意思確認を行いたい欲求を抱いてしまった。そして、それを胸に秘めたまま午後からの仕事に臨み、帰宅したくないと思っている。
ゾーイはいつの間にか、沈黙が長引いているのを訝るような表情に変わっている。
勇気がいる質問だが、幸い、そう大きな勇気は必要ない。
「――ねえ。ゾーイは外に出たいとは思わないの?」
唐突な問いかけに、彼女は唇を半開きにした顔で固まった。
無理もないな。苦笑しながら地面から腰を上げる。タイミングも唐突なら、内容も思いがけないものなのだから。
「いきなりでびっくりしたと思うけど、ずっと気になっていたんだ。いつ訊こうか、内心迷っていたんだけど、今日君から『ラルフの仕事を見ることができない』という言葉を聞いて、それで訊いてみようと思ったって感じかな。
一日中部屋の中で過ごすというのは、どう考えても不自然だし、苦しいよね。常識的に考えれば、不自由よりも自由のほうが絶対にいい。だから、出たい気持ちは少なからずあると思うんだけど」
「ないわけじゃないよ」
ゾーイは言下に答えた。
僕が訊きづらかったのと同じで、ゾーイにとっても答えづらいに違いない。そう思い込んでいたから、驚きのあまり「え?」と亀のように首を突き出して訊き返してしまった。
ゾーイは窓枠に両手を軽くのせ、僕と相対している。満面にたたえられているのは、かすかな苦みが観測できる明るい笑み。エメラルドグリーンの瞳は真っ直ぐに僕を見据えている。
「そうしたい気持ちはあるよ。部屋の外に、家の外に、ウッドフィールド邸の外に出たい気持ちがまったくないと言ったら、わたしは大嘘つきになっちゃう。
でも、実を言うと、そこまで強い願望ではなくて。少なくとも、なにがなんでも今すぐに、っていうレベルじゃない。その証拠に、おとといラルフと話をしたとき、『手錠を外してほしい』とは一度も頼まなかったよね。雑談だって、外の世界への憧れを熱く語るんじゃなくて、ラルフの人となりについて質問を重ねただけだったでしょ」
最小限の相槌だけを打って耳をかたむけながら、ゾーイは本心を偽っているのではないかと僕は疑った。嘘をついている証拠を得られないかと、一言一言に注意を払い、表情を注視した。
しかし、ひととおり語り終えるまでに、嘘の気配はどこにも感じられなかった。
顔に浮かぶ笑みが示すように、彼女はありのままの本音を語っているのだ。「そう強く外に出たいわけではない」という主張は、嘘偽りのない真実なのだ。
「一歩も部屋から出られないけど、こうして窓を開ければ外の新鮮な空気を吸える。部屋の中に閉じこもっていても、屋敷を訪問した人の気配や、敷地の外を歩く人の気配、匂いや足音や話し声なんかはちゃんと感じられる。わたし、それで充分だって思うこともよくあって」
「……ゾーイ」
「わたし、もともと家の中で過ごすのが好きだから。外に出たい、屋敷の外を歩きたいと思うこともたまにはあるけど、今の暮らしをこの先もずっと続けていくのも悪くないな、なんて思う気持ちも同じくらいの強さであって。だから、ラルフからの質問に一言で答えるとすれば、『無理に出たいとは思わない』という表現になるかな」
外に出たい願望がないわけではない。
それってようするに、「絶対に外に出られない今の暮らしに不満がある」と言っているのと同じじゃないか。
つまりゾーイは、広い意味で自分の本心を偽っている。
指摘したかったが、ためらった。
僕が口を挟みたい意思を、彼女は薄々感づいているらしい様子が見受けられた。しかし、発言を促すのではなく、語を継ぐことを選択した。
「それと、もう一つ。この話はあまりしたくないんだけど……。わたしはウッドフィールド家に来てから一度、冒険をして失敗したことがあって。それに懲りたから外出はあまり気乗りがしない、というのは正直あるかな」
「冒険? 失敗? それって、どういう……」
「その一件で、わたしは人間の怖さを知った。そして、学んだの。鳥かごの中にいれば傷つく心配はないんだって。矛盾することを言うようだけど、たとえ飼い主が少々乱暴な人だとしても――」
突然、床板が軋んだ。
僕たちがいる部屋のすぐ外――廊下の床だろうか。
ゾーイは表情を強く緊張させて鋭くドアを振り向いた。そうかと思うと、それにも劣らない素早さで僕へと顔を戻し、
「隠れて!」
緊迫した、低く押し殺した声。
「部屋に来たの、メアリーじゃない。わたしの父親だよ。ニック・ウッドフィールド。あの人にばれたら――」
「ゾーイ?」
ドア越しに声が聞こえた。低く静かな中年男性の声。荒々しい衝動を押し殺したような、野蛮な迫力が感じられた。
面接時に話したときと少し印象は違うが、確かにニックの声だ。
ゾーイは迅速に、それでいて音を立てないように窓ガラスを閉めた。透明な障壁の向こうの世界から、体勢を低くするように手ぶりで僕に促し、ドアに向き直る。
僕がその場にしゃがんだのと、ドアが開く音がしたのは同時だった。
「ゾーイ、どうしたんだ。ずいぶん慌てているようじゃないか。物音が聞こえたから様子を見に来たのだが、なにかあったのか」
面接時に会話したときも、どことなく人を見下しているような感じは受けた。しかし、身を隠しながら間近から聞いた声は、当時と比べて明らかに冷たい。義理とはいえ、娘にかける声だとはとても思えない。
鐘が乱打されるように激しく鼓動が鳴っている。
そんな相手に見つかったら、僕はどうなってしまうのだろう。
革袋から取り出した道具が出しっぱなしで、窓を開けられたら終わりだというのに。
「うるさくしてしまって、ごめんなさい。片づけをしていたら、ちょっと物を落としてしまって」
メアリーの声は緊張と動揺を隠しきれていない。姿は見えないが、怯えたように眉尻を下げた顔が脳裏に浮かぶようだ。こんな状況でも透明感を保った声が、不釣り合いにきれいすぎるようで痛ましい。
音を立てないように、僕は道具を革袋に戻し始める。
数はそう多くない。ただ、音を立てないように注意しなければならないのはプレッシャーだ。そのプレッシャーが指先を震わせる。それを抑え込みながら、なるべく急がなければならない、懸命の作業。
「物音だけではなく、人の話し声も聞こえたようだが、それにはどう説明をつける?」
「それは……。作業しながら無意識にひとり言を言っていたから、それが話し声に聞こえたのかも」
「窓は閉まっているが、錠が下りていないね。まさか、部外者と会話していたのか?」
「ううん、違うよ。これは、換気。物を動かすと埃が舞うから、窓を開けていたの」
「それにしては、物の配置は前と変わらないように見えるな。片づけをというのは言い訳で、実際は別のことをしていた。それも、私には言えないようなやましいことを。違うか?」
鼓動はますます激しくなる。
ニックはもしかすると、ゾーイが誰かと話をしていたとすでに確信しているのかもしれない。だとすれば、話し相手は庭師だと考えているはずだ。
ニックが断固たる対応に踏み切ったなら、僕はひとたまりもない。
おそらくは、ゾーイも。
「ううん、誰とも話していないよ。本当に、一人で部屋の片づけをしていただけだから」
「証拠は?」
「窓の外、見てみる? 誰もいないから」
僕は慌てて移動を開始する。最初はしゃがんだまま、窓からある程度離れてからは腰を伸ばして早足で。速度を重視しつつも、靴音を鳴らさないように細心の注意を払って。
ゾーイの美しくも弱々しい声を聞いていると、とてもではないがニックを言いくるめられるとは思えなかった。だから、急いで荷物をまとめ、いよいよというときになって逃げた。物音を立ててしまうなどのリスクもあったが、判断は正しかったみたいだ。
庭まで戻ってくると、口から特大のため息があふれた。鼓動のテンポはまだかなり速い。
木陰に片膝をつき、呼吸を整えながら耳を澄ませたが、ゾーイの部屋の方角からはなにも聴こえてこない。
「あのあと、ゾーイに言われたとおりニックは窓を開けたけど、誰の姿も見えなかったから、娘の言い分を信じた。……そんなところかな」
仕事を再開したものの、ゾーイが無事だという確証があるわけではない。三時のティータイムの茶と茶菓子はありがたかったが、気もそぞろでメアリーとの会話に集中できない。
「疲れているんだね。そういうときは短いお昼寝をするとか、早めに切り上げるとか、臨機応変に対応するといいよ。納期さえ守ればご主人さまは文句言わないと思うから」
彼女はそう勘違いしてくれたので、言葉で取り繕う手間は免れたが。
仕事が終わると、仕事道具は庭に置き去りにしたまま、こっそりゾーイの部屋に行ってみた。
窓を覗く勇気は湧かず、屋敷の外壁に体をぴたりとくっつけて聞き耳を立てる。無音状態が長く続いたので不安だったが、やがて鎖が床を這う音が聞こえた。それに続いて、咳払いの音。少し間を置いて、服に付着した汚れかなにかを手で払うような音も。
その後もその場で耳をそばだてていたが、すすり泣く声などは聞こえてこなかった。
危機を無事に切り抜けた、という解釈で間違っていなかったみたいだ。こんなことだったら、ニックの訪問をやり過ごしたあとすぐに部屋に戻って、何事もなかったのを確認しておけばよかった。
僕はすっかり安心して、来た道を引き返し始めた。
不幸。
客観的に評価すれば、今のゾーイにはその評価がふさわしい。
ゾーイは、鎖で部屋に繋がれた生活から抜け出すことを、諦めている。
だけど、完全に諦めたわけではない。
これを不幸と呼ばずしてなんと呼ぶんだ?
慰めがあるとすれば、僕と話しているときはよく笑ってくれることだろう。僕と過ごす時間を楽しんでくれているのは間違いない、と思う。
ただ、それは一時的なもの。たった一時間、現実逃避できる時間が設けられているだけで、根本的に不幸が改善されたわけではない。
一時的な幸せを提供したことで、それ以外の二十三時間の不幸に対する精神的苦痛をより強く感じるようになってしまった、ということが起きているかもしれない。
そう考えると、誇らしい気持ちは一転、申し訳なく思う気持ちへと変わる。
申し訳ないのは、「小一時間、食事をとりながら話をする」程度の楽しみしか彼女に与えられていないこともそうだ。
抜け出したくても抜け出せないなら、せめて、今の生活を今よりも楽しく、今よりも楽なものにしてあげたい。
もっと他に僕にできることはないだろうか?
今日も一人で夕食をすませ、部屋に帰ってすぐに眠気もないのにベッドに横になり、真剣に考えた。しかし、最初に彼女にしてあげたことが「チョコレートをプレゼントする」だったからだろうか、「なにかおいしい食べ物を買ってくる」くらいしか思い浮かばない。
ゾーイは粗末な食事しか許されていないから、食べ物を持っていけば確実に喜んでもらえると思う。ただ、そればかりでは芸がない。物を与えてそれでおしまいではなくて、それにプラスしてなにかをあげたい。
「……訊いてみようかな」
静寂の中にかすかな声がこぼれ、溶けて消えた。
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