第6話

 ウッドフィールド邸での仕事三日目は朝から気持ちよく晴れた。雲一つない快晴。風も穏やかで、昨日やおとといよりも体感の気温はさらに上昇しそうだ。

 屋外での肉体労働に従事する僕にとっては、必ずしも歓迎できる気象状況ではない。しかし、空が清爽と晴れ渡っただけで、未来には自分にとって好ましいものになる予感がする。気分は決して悪くない。

 大きなハサミを黙々と動かしながら、三度目の彼女との対話の模様を脳裏に思い描く。昨日はメアリーの乱入がきっかけで気持ちが沈む時間帯もあったが、今日こそは文句をつけようがないひとときを過ごせる。

 そう信じたかった。


 僕の背丈ほどの樹の剪定が終わった。

 木陰に両足を投げ出して座り、ぬるくなった水筒の水をがぶ飲みしていると、玄関ドアが開いた。僕は反射的に水筒から口を離して姿勢を正した。

 現れたのは、メアリー。ほうきとちりとりを手にしている。鼻歌を歌いながら玄関先の掃き掃除を始めた。

 僕には見向きもせずに仕事に励む姿を見ているうちに、小さな決意が芽生えた。

「メアリー!」

 呼びかけると、ほうきを動かす手を止めて振り向いた。今にも手を振ってきそうな、にこやかな表情をしているのが遠目にもわかる。腰を上げて彼女のもとへ向かうと、彼女もこちらへと歩み寄ってきた。

 僕たちは広い庭のほぼ中央、周りに植木のない芝生の中央で相対した。

「ラルフ、どうしたの。なにか困りごと?」

「少しメアリーと話がしたくて。仕事中だったけど、迷惑じゃなかったかな」

「平気だよ。今すぐやらなきゃいけない仕事じゃないし」

「昨日も同じこと言ったよね、メアリーは」

「昨日? ああ、ゾーイと話し中のところを邪魔したときか。まあメイドの仕事なんて、煎じ詰めればだいたいそんな感じだからね。三度の食事だけはきっちり時間が決まっているけど。とにかく、今は話をしても大丈夫だから」

「ありがとう。話というのは――」

「直射日光浴びながら話したくないよー。木陰行こう、木陰」

 メアリーはさっきまで僕が座っていた場所を指差した。うなずき、彼女とともに引き返す。

 並んで腰を下ろすやいなや、メアリーは前もってそうすると決めていたかのようにためらいなく水筒を掴み、口をつけた。

 呆気にとられた。

 そのあとから来たのは、不快感ではなく、照れくささ。彼女の体から漂ってくる甘い香水の香りが、その感情を小悪魔的な微笑で煽り立てるかのようだ。

 僕の視線に気がつくと、笑みが浮かんだ瞳で僕を見返して小首をかしげ、

「なに照れてるの? そういう経験、ラルフは今まで星の数ほどしてきたんじゃないの?」

「それはご想像にお任せするけど……。なんていうか……」

「言葉にしてくれなきゃわからないよ」

「あまりにも簡単に口をつけたから、面食らっちゃって。普通は事前に許可をとるよね」

「かたいこと言わないでよ。別にいいでしょ、間接キスくらい」

 事もなげに言って、もう一口、二口と飲む。あまりにも平然と振る舞うので、頬を熱くさせていた感情はいつの間にか引っ込んでしまった。

「あ、でも、この暑い中で飲み水を奪うって、よく考えたら損害がでかいよね。ラルフは肉体労働者なのに。ちょうど喉が渇いていたから、なにも考えずに飲んじゃったよ。ごめんね」

「……ああ、たしかにそうだね。正直、ちょっと不安かもしれない」

「だったら埋め合わせに、三時のティータイムに紅茶を持ってきてあげるよ。そうしたら不足分は補えるんじゃないかな」

「いいの? 僕なんかがご馳走になって」

「なんの問題もないよ。たかが使用人のあたしだって毎日飲んでるんだから」

 メアリーは軽やかな口ぶりで言ってのける。

「お茶だけだと味気ないから、ついでにお菓子も持ってきてあげるね。ご主人さまが食べなくなったからあまり作らなくなったけど、あたしけっこう得意だよ。ちなみにご主人さまからは、お菓子も含めて料理は好きなものをいつでも自由に作っていいって言われていて、怒られる心配はないから」

「そういうことなら、好意に甘えさせてもらうよ」

 笑みがこぼれたのも束の間、脳裏に忽然とゾーイの顔が浮かんだ。僕がプレゼントしたチョコレートを食べたときの、年端もいかない少女のようなゾーイの笑顔。少し遅れて、チョコレートの味を飾らない言葉で賞賛する、小鳥のように美しい彼女の声も甦った。

 気持ちはあっという間に冷めた。

 ゾーイはおそらく、普段は菓子どころか紅茶にさえもありつけていないのだろう。三食の食事にすら満足にとれていないのだから、間違いない。

 そんな彼女を差し置いて、自分だけ嗜好品を味わうって、どうなんだ?

「で、話ってなんなの?」

 人工の香りがにわかに強まった。メアリーが少し僕へと体を寄せ、顔を下から覗き込むようにして問うてきたのだ。

「あたしに話があるんだよね? 急いではいないみたいだけど」

「あ、うん。話というのは……」

「なんだか言いにくそうだけど、もしかして恥ずかしがってる? あたしに下心があるから? 昨日はゾーイにアタックしてたのに、今日は早くもあたしに乗り換えかぁ。一途っぽいと思わせておいて軽いところあるんだね、ラルフって」

「違うよ。そうじゃない」

「そうきっぱり否定されるのも傷つくんだけど」

「ごめん。話っていうのは、ゾーイのことなんだけど」

「あ、やっぱそういうこと? うわっ、なんか傷つく! 実は、今度の庭師が若い男って聞いた時点で、あの子はライバルだって思っていたからね。恋のライバル」

 メアリーは笑いを含んだ声で言う。本気なのか冗談なのか、僕には判断がつかない。

「ゾーイはある意味君とは正反対だよね。笑っていても、言葉をやりとりしていても、常になにか暗いものを抱えている。交わした言葉の数はメアリーよりも多いけど、ゾーイのことを理解できたっていう手応えが全然なくて」

「だからあたしから訊き出してやろうってわけね」

「単刀直入に言えばね。

 昨日三人で話をしてみてびっくりしたのは、メアリーがゾーイに友だちみたいな口をきいていたこと。自分は使用人で、相手はこの家の娘なんだから、敬語を使うのが普通でしょ。それなのに呼び捨てにしているから、戸惑ったよ。なにか複雑な事情があるのかなって、勘繰ってしまったんだけど」

「ご主人さまから厳しくしろって言われているの。『私の娘だと思わなくていい、同じ使用人のつもりで接しろ』って。あたしは雇用主の命令に忠実に対応しているだけで、別にあの子が憎いわけじゃないよ」

 ゾーイも同じことを言っていた。憶測でも邪推でもなく、真実だったらしい。

「ゾーイ本人は、メアリーからよくいじわるをされると言っていたけど」

「ああ、そう? たしかに、あの子にはきつい言葉をぶつけたりもしているけど、非常識なことを言ったりやったりはしていないよ。厳しく接しろと言われただけで、非人間的に扱えと命じられてはいないからね。ゾーイは被害妄想が強すぎるんだよ。暗い部屋にずっと閉じ込められている影響かな? 日の当たる場所で暮らしているあたしには理解できないけど」

 小馬鹿にするように口元を歪めてメアリーは説明した。

 その態度で、悟った。理解してしまった。

 メアリーは日常的に、故意にゾーイを傷つけるようなことを言っている。そして、罪悪感をまったく覚えていない。

 使用人が雇用主の家族から嫌がらせをされるならまだしも、ゾーイの場合はその逆だぞ。しかも、ただ暴言を浴びせられているだけではなく、部屋から出られなくて、食事も貧しくて……。

 僕はやるせなさに両手を握りしめる。

「厳しくって、そういう意味じゃなくない? たぶんだけど、ウッドフィールドさんが言っていることとメアリーがしていることは――」

「わかってるよ。そんなことくらいわかってる。

 でも、ついつい出ちゃうんだよね、暴力とか暴言とかが。申し訳ないなとは思うけど、しょうがないことなのかなってあたし自身は思ってる。

 だって、一日中部屋の中にこもっていればいいあの子と違って、あたしは毎日毎日きつい仕事こなさなきゃいけないんだよ? しかも、たった一人で。比べるのはナンセンスなのを承知で言わせてもらうとね、庭師の仕事よりもハードだよ、貴族の使用人って。住み込みだから逃げ場もなくて、満足に息抜きもできないから」

 メアリーは仕事上の愚痴や不満を次から次へと並べ始めた。

 相槌を打ちながら、ゾーイが言っていたストレス原因説は正しかったのだ、と僕は納得する。

 原因はわかっているのに、対策を講じられない。それはたぶん、右も左も分からないまま痛めつけられ続けられるのに負けないくらい、つらいことなのだろう。

 百パーセントではないにせよ、理解できるし共感もできる。職場環境はまったく異なるが、メアリーが打ち明けたのとまったく同じ目に遭ったことが何度かあった気さえする。

 でも。

 だからといって、ゾーイに対するメアリーの行為を許容してもいいのか?

「つまりメアリーは、ゾーイ個人がというよりも、ウッドフィールドさんの指示や君の労働環境こそが問題だ、と言いたいんだね」

「そういうこと。あ、でも、態度がちょっとむかつくっていうのも理由の一つかもしれない」

「それ、どういう意味?」

「怖い顔しないでよ。たぶんラルフにも共感してもらえる理由だから。

 なにがむかつくかっていうと、お金持ちってなんていうか、いつも余裕ありげな態度でしょ。あたし、それが無性に鼻につくんだよね。向こうに悪意あろうがなかろうが、そんなことは無関係にむかついちゃう。金持ってるからって余裕見せつけやがって、って。

 あの子が養子だっていうことは知ってるよ。うちに来る以前に、どの程度の経済レベルの家で暮らしていたのかは知らないけど、ゾーイは短期間ですっかり貴族の色に染まった。この家で暮らし始めて長いあたしよりも、あの子はずっと貴族っぽい。同じ貴族の家で暮らすのでも、使用人として生きるのと、子どもとして生きるのとでは大違い、ということなんだろうね。……狡いよねー。歳もそう離れていないのに、あたしとこんなにも差がついて」

 がっくりと首を垂れて陰鬱なため息をつき、再び僕と目を合わせる。

「要因はいろいろあるけど、あの子に恨みがあってやっているわけじゃないから、そこのところだけは頭に置いておいてほしいかな」

「悪意がないんだから罪には該当しませんよ、と主張したいわけだね」

「そういうこと」

「……わかった。もうメアリーのことは責めたりしないよ」

 メアリーは唇を「ありがと」と動かし、僕の肩に頬をのせた。水筒の水を勝手に飲んだときのように、なんのためらいもなく。体温が急上昇し、鼓動が速まる。十秒も経たずに体は離れたが、高鳴りはなかなかおさまらない。

 こういう形で人に好意を伝えることを厭わない人が、自分よりも弱い立場の人間を平気で傷つけているのだと思うと、やりきれない。

「あたしからも一つ質問させて。ラルフはずいぶんとゾーイに惹かれているみたいだけど、それはどうして? 冷やかしとかからかうとかじゃなくて、マジで気になるんだけど」

「いや、僕はゾーイに恋愛感情は――」

「ちょっと言葉が悪かったかな。ラルフってゾーイに同情的でしょ。その理由を知りたいの。二人は身分が違うし、年齢にも差がある。ゾーイのどこに惹かれたのか、考えてみても浮かばなくて。だから、よければ教えてよ」

「惹かれた理由、か」

 僕は顎を指先で軽くつまんで黙考に沈む。

 メアリーいわく、僕はゾーイに同情的だという。

 同情というのは、ようするに、他人の中に不幸な共通項を見出し、痛みを自分のものとして感じるということだ。

 ただ、行動の制限、食事の不自由、日常的な嫌がらせ――思いついたものから並べていったかぎりでは、どの不幸も僕とは無縁。

 つまり、個別の不幸に、というよりも。

「大きな意味で同じ不幸な者同士だ、という意識があるんだと思う。メアリーが言ったように、僕とゾーイはなにからなにまで違う。だけど、大きく見れば同じ不幸な人間だっていう仲間意識があって、だから彼女に同情しているんだ」

 メアリーは眉をひそめている。視線が重なると、眉間に生じていたしわがいっそう深くなり、

「つまりラルフは、ゾーイは不幸だと思ったけど、あたしは不幸だとは思わなかったわけね? 肉体を酷使するという意味では仲間なのに、あたしの苦労話をちょっと聞いただけでは、あたしへの同情心は湧きませんでしたよ、と」

「え? いや、僕はゾーイのことを言って――」

「でも、特に感想はなかったよね。……なんだかなぁ」

 ため息がこもった声でそう言って、腰を上げる。両手で尻を払いながら陰気な息を吐き、座り込んだままの僕を見下ろす。

「ゾーイは鎖に繋がれて、あんな埃っぽい部屋に放り込まれていたから、不幸だと思った。そういうことだよね?」

「煎じ詰めれば、そうなるかな」

「そっか。表面的なものの見方しかできない人なんだね、ラルフは」

 またため息をつき、僕から視線を切る。

「いや、ラルフを責めるつもりはないよ? あたしは自分ではわりと不幸なつもりだから、期待していたような反応が得られなかったから、首をかしげているだけで。別にゾーイと不幸の度合いで張り合うつもりはないけど――なんだかなぁ」

 メアリーはこの短時間で早くも三度目となるため息をつき、脇目も振らずに玄関へと引き返す。地面に落ちていたほうきを拾い上げて掃き掃除を再開したのを見て、ようやく僕も腰を上げる。

「……ごめんね、メアリー」

 彼女に背を向け、道具を置いてある場所へ向かいながら僕はひとりごちる。

「同情していないわけじゃない。でも、ゾーイのほうがかわいそうだ、不幸だという思いは、見て見ぬふりできないんだ」

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