第5話
「それにしても」
メアリーはいきなりぐっと身を乗り出して僕に顔を近づけた。さわやかな微笑は、意地悪そうなにやにや笑いに変わった。
「うちのゾーイにアプローチをかけるなんて、庭師さんも隅に置けないね。てっきり寡黙な職人タイプかと思いきや」
「下心があるわけじゃないよ。メアリーが言っているような意味での下心は」
「じゃあ、なに? 薄暗い部屋にぽつんといるのを見て、同情心が湧いた? ていうか、そもそもなんでゾーイを発見できたの? 庭からこの部屋まで、けっこう距離があるよね。ウッドフィールド邸の敷地って広いから」
僕ははっとした。メアリーの指摘によって、ゾーイと出会ったきっかけが、彼女が歌っていた歌だったことを思い出したからだ。
同時に、その事実を、ゾーイ本人にまだ話していないことに気がついた。
この機会に話してしまおうか?
特に支障はない、と思う。庭まで聞こえるくらいのボリュームで歌っていたのだから、歌うことに関してはニック氏からも容認されているのだろうし。
ただ、なぜだろう。
打ち明けたくない。秘密にしておきたい。いつかゾーイ相手に話すことになるのだとしても、もうしばらくは。
「その沈黙はどういう意味? 発見した経緯はともかく、恋愛感情が絡んでいるっていう解釈は正解、ということでいいの? まあ、当然だよね。庭師さんも男なんだから」
「本人の前で言うのは気恥ずかしいけど……。広い意味での好意は、持っているね。その指摘は認める」
「マジで? うわー! 熱いねー、お二人さん」
メアリーは大げさに歓声を上げた。幼稚な真似を、と思ったが、この流れではどう反論しても彼女は茶化してきそうだ。
この雰囲気、ゾーイはどう思っているのだろう?
彼女の顔を直視できない。頬がどの程度色づいているのかは知る由もないが、その領域の温度はわずかながらも上昇している。恥ずかしさ、それプラス、自分への呆れ。
そりゃ呆れもするさ。立派な社会人、親を助けなければいけない立場だというのに、まるで初心なローティーンの少年みたいな反応をしてしまったんだから。
「その熱い想い、もう少し詳しく話してよ。あたし、こんなところで住み込みのメイドなんてやってるから、その手の話に飢えに飢えまくってるんだよね」
「……そういえば、まだ訊いていなかったけど、メアリーはどうしてこの部屋まで来たの?」
「あっ、話を逸らそうとしてるー」
「違うよ。他に用事があるんだったら、呑気に話をしている場合ではないんじゃないかな、と思って」
「用事ならいつもたくさん抱えているよ。今のところ急ぎの用事もないけど、なんだかラルフはあたしとあまり話したくないみたいだし――うん、今日はここまでにしておこうかな。ラルフも昼休憩はそろそろおしまいだよね?」
僕は作業着の内ポケットから懐中時計を取り出す。まだ少し早い時間だったが、「そうだね」と答える。
「しつこいようだけど、不安だから念のためにもう一回確認させて。ゾーイと話していたことを秘密にするっていう言葉、本当に信じていいんだね?」
「安心して。貴族に仕える人間は総じて口が堅いから。庭師さん、ゾーイに熱を上げすぎて仕事に支障を来さないようにね。ばいばーい」
メアリーは友だちに対してするように僕に手を振り、部屋を出ていった。
姿が見えなくなったとたん、会話中は意識の外にあった香水の匂いが存在感を取り戻し、どこかよそよそしく鼻孔をくすぐり始めた。
遠ざかる足音が消え、僕たちは顔を見合わせる。
「焦ったね。でも、助かった。メアリーの対応が寛大で助かったよ」
「そうだね。メアリーはわたしが困っている姿を見て喜ぶ人だから、ちょっと不安だったけど」
「……もしかして、ニックさんに密告されるのが怖い?」
ゾーイは揃えた左手の指先を左胸にそっと押し当て、弱々しく頭を振った。少しうつむくという首の角度のせいで、視線が重ならない。
「約束はきちんと守ってくれると思う。メアリーは言動が軽い子だけど、仮にも三年間、気難しい父からの信頼を得てこの家で一人で働いているわけだから」
「ゾーイは、メアリーをあまり快く思っていないの?」
返事はない。
答えなかったことこそが答えだ、と思った。
「そういえばゾーイは、メアリーがいるあいだずっと黙っていたよね。僕はほぼメアリーのほうを向いていたから、君の顔色や反応はいちいち見ていないけど、居心地が悪そうなのは伝わってきたよ。それにメアリーは、使用人という立場なのに、この家の主人の娘である君を呼び捨てにしていたよね。呼び方だけじゃなくて、態度とかもそうだけど、全体的に君を軽んじている感じがした。あくまでも、主人の娘と使用人という立場を考えれば軽すぎる、という意味での『軽んじている』だけど。僕とゾーイが話をしていることに驚いて、気が動転してしまったとか、説明をつけられないこともないけど、なんていうか――」
「実はわたし、メアリーから日常的にいじわるをされていて」
かすかに震える、でも芯が備わった声が、くどくどと紡がれる言葉の羅列を断ち切るようにして、驚愕の事実を告げた。
僕は絶句し、対面に佇む少女の顔を食い入るように見つめる。
ゾーイの顔に弱々しい微笑が灯る。懸命に気丈に振る舞おうとする姿、それがかえって痛ましく、胸に物理的な弱い痛みを感じた。心臓に水平方向に幾重にも巻きつけられた、柔らかだが丈夫な紐が、いっせいに食い込んできたかのような痛みを。
「そこまで酷いことをされているわけじゃないよ。部屋から出られないことをからかわれるとか、食事を運んできてくれたときにわざとこぼすとか。本当に、本当に、ちっぽけないじわるばかりだから。
……でも、そういうことを毎日されていて、嫌な思いをしているのは事実。二年くらいずっと被害に遭い続けているけど、慣れないよ。いまだに慣れない。一生慣れることはないんじゃないかな」
部屋から出られない。食事が粗末。部外者とみだりに話してはならない。
その三つの縛りだけでも酷いのに、異常なのに、使用人から嫌がらせを受けるという苦痛と屈辱までもが加算される。
ショックだった。ゾーイが甘んじている苦難が僕の想像を超えていたことも。メアリーが加害者という立場だったことも。
メアリーは、僕に対しては一貫してフレンドリーに接してくれている。ゾーイと会話していたことをニックには秘密にすると約束してくれた。僕がメアリーに対して抱いていた好感度は、知り合ったころからずっと高かった。
しかし、ゾーイに対する仕打ちを知ったことで、地に堕ちた。
今ここでメアリーがふらりと部屋に戻ってきて、また僕たちと話を始めたとしたら、僕はさっきまでのような態度で彼女の相手ができるだろうか?
正直、自信を持って首を縦には振れない。
「このさいだからもう一つ告白させて。わたし、今の父親――ニック・ウッドフィールドとは、血の繋がりがないの」
ゾーイの口調は吹っ切れたかのようだった。
僕が食らった衝撃は、小さくはなかったが耐えられないほどではなかった。最初の告白で感覚が麻痺してしまったのか。それとも、彼女が置かれている非人間的な環境を考えれば、しっくりくる原因だったからなのか。
返す言葉を見つけられずにいる僕を置き去りにして、白髪緑眼の少女はすらすらと説明する。
「父と奥さまとのあいだには子どもができなくて、養子をもらうことにしたんだけど、奥さまの子ども時代そっくりの顔だったからわたしが選ばれたみたい。わたしが養子にもらわれて一年も経たないうちに奥さまは亡くなってしまったし、父は奥さまのことは好き好んで語ろうとしないから、わたしが選ばれるまでのいきさつには謎も多いんだけど」
自虐的な笑みが口元に浮かび、一瞬で儚く消える。
「父からもメアリーからも聞いたんだけど、父はメアリーにわたしには厳しく接するように命じていて。たぶん、『主人の娘だからといって過度に甘やかさず、叱るべきときはちゃんと叱るように』くらいのニュアンスだと思うんだけど、彼女はそれを自分の都合のいいように解釈したんだろうね。一言で言えば、わたしをストレス発散のために利用している。
ストレスというのはね、ラルフ。わたしがこの家に来た少しあとくらいから、ウッドフィールド家は財政状況が悪化したらしくて、メアリー以外のメイドは全員解雇されたの。だから、この広い屋敷の仕事はすべてメアリーがこなさなくちゃいけなくなって、だからどうしてもストレスがたまる。
だからといって、当たり前だけど、雇い主に不平不満をぶつけるわけにはいかないよね。使用人にそんな権限は与えられていないし、仮にぶつけたとしても、父は厳しい人だから、その場で解雇を告げられてメアリーが路頭に迷うだけ。
だから必然に、不満の矛先はわたしに向かう。わたしがニック・ウッドフィールドの実の娘だとしたら、もしかしたらあからさまな加害行為は控えたかもしれないけど、義理の娘だとメアリーも知っているから」
「……そう、だったんだね」
僕はやっとのことで声を絞り出した。
「ゾーイに対するメアリーの態度の謎は、今の説明でわかったよ。でも、新しい疑問が生まれたから答えてほしい。ゾーイの、鎖に繋がれて部屋から出られないっていう措置。あれが『ゾーイに厳しく接する』という方針にもとづくものだとすれば、度を越しているように感じるんだけど。これは、どういうことなのかな」
「それは、また別の事件が関係しているの。わたしのとある小さな、でも父にとっては重大な失敗が関係しているんだけど――」
ゾーイはゆっくりと項垂れるようにうつむいた。
「ラルフ、ごめんなさい。言いたくないの。言えないじゃなくて、言いたくない。純粋にわたしの気持ちの問題で」
「……そっか。だったら、無理に言う必要はないよ。そういうのって、誰にでもあると思うし」
返事はなく、沈黙の幕が下ろされた。
僕がなにか気のきいた言葉をかけるべきなのだろう。でも、なにも浮かばない。どう受け取られるかがわからないのが怖くて、言い出せないのではなく、なにを言っていいのかさえもわからないのだ。
きっかけとなったのは、今が昼休憩中だと思い出した。
懐中時計を確認して、僕は「あっ」と声をもらす。
「いけない。もう仕事に戻らないと」
ゾーイはすがるような目つきで僕を見返してくる。再び、心臓が締めつけられる感覚。先ほどよりも圧迫感は弱い。しかし、それがかえって切ない。まるで彼女に対して、取り返しがつかない裏切り行為を実行しようとしているかのようだ。
ただ、そうはいっても仕事を疎かにはできない。経済的に支えなければならない家族がいるという意味でも。職務怠慢を利用に馘首を宣告されれば、ゾーイに二度と会えなくなるという意味でも。
自分でも狡いと思う。狡いと思うけど、今回は譲歩してもらうしかない。
「大丈夫だよ、ゾーイ。明日も仕事があるから、またお昼にここで昼食を食べるよ」
「ほんとに?」
「もちろん。僕は最初からそのつもりだよ。多めに持ってくるから、いっしょに食べようよ。お話も、今日に負けないくらいたくさんしようね」
「……うん。約束だよ」
ゾーイの表情にようやく明るさが戻った。快晴とは言い難いが、晴れは晴れだ。
その顔を見られていなかったなら、眠りに落ちるまでの僕は、世にも悲惨な時間の使いかたをしていたに違いない。
だから、ゾーイ。
君は僕に救われたかのような顔をしていたけど、同時に、僕も君に救われていたんだよ。
僕はニックの義理の娘のゾーイに好意を抱いている。
関係を深めようと模索すればするほど、彼女が、あるいはウッドフィールド家が抱える闇と深く向き合わざるを得なくなるだろう。やがては闇と一戦を交えなければならないときが来るかもしれない。
一介の庭師でしかない自分が、勝利を勝ち取れるのか。
そもそも問題に介入し、干渉する権利があるのか。
受け入れがたい真実に向き合うだけの覚悟、耐えがたい苦難や恐怖に立ち向かうだけの勇気と気力はあるのか。
考えれば考えるほど気分が沈む。挙げ句の果てには、めまいまでしてきた。戦わずに済むならそれに越したことはない、という思いはある。
だからといって、一介の雇われの庭師に立ち返って、ゾーイとの交流のいっさいを断って仕事に徹するなど、できるはずもない。
たった二日の交流で、ゾーイ・ウッドフィールドという一個人は、僕の中にそれほどまでに存在感を増していた。
まずはゾーイについてもっと知ろう。そうすれば、彼女を救う方法が見えてくるかもしれない。
消灯後のベッドで出した結論だ。
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