第4話

 目覚めた瞬間から心がそわそわしていた。いつもどおりのことをいつもどおりにこなしているはずなのに、一挙手一投足がいつもよりも少しずつぎこちなくなっているように感じられた。

 ウッドフィールド邸を訪問したのを境にその症状は悪化し、玄関で挨拶を交わしたメアリーに訝しがられなかったのが奇跡に思えた。

 刃物を扱うし、高い場所に上ることもある仕事だ。集中力だけは切らさなかったが、物音が聞こえたわけではないのに、ゾーイが囚われている部屋の方角に目を向けることが何度もあった。懐中時計を取り出して文字盤を見る頻度も普段よりも高かった。

 陳腐だから、奇跡という言葉は使いすぎたくない。こんなお粗末な集中力でも怪我なく、目立った遅れもなく仕事をこなせたのは、短いなりに積み上げた経験のたまもの。そういうことにしておこう。

 正午を回るまでは長かった。

 普段の一・五倍速で汗を拭い、水分補給をする。プレゼントのチョコレートを含む食料を胸に抱え、ゾーイのもとへ。

 部屋の窓は開いていた。昨日と同じ七十パーセントほどだが、窓辺にゾーイの姿はない。

 昼寝でもしているのだろうか。それとも、なんらかの理由で今日は部屋にいない? 窓が開いていることをどう解釈するかだけど……。

 真実を確かめたい欲求のまにまに中を覗き込もうとすると、

「わっ!」

 声とともにゾーイが窓から顔を覗かせた。

 僕は小さく悲鳴をもらして身を竦めた。しかし二秒後には、全身の緊張を解いて歯を見せる。

 ゾーイは僕を驚かせようと企んで、窓の外からは死角になる場所に身を潜めていたのだ。

 いたずらを仕掛ける無邪気なところ。驚かすさいの「わっ」という声。いたずらを成功させたあとのきらきらした笑顔。

 どれもかわいい。かわいすぎて、なんていうか、めまいがしそうだ。

「おはよう、ゾーイ。まんまと驚かされちゃったよ。君の勝ちだ」

「ほんとに? やった! いたずら成功!」

 ゾーイは握り拳を二つ作った。

 直後、彼女は「あっ」と言って双眸を大きく見開き、僕の胸を指差した。正確には、両腕で抱えているものの中の一つを。

「その赤い包み、もしかして……」

「そう、チョコだよ。君がリクエストしたチョコレート」

「本当に買ってきてくれたんですね」

「約束したからね。買ったのはお菓子専門店で、それなりに上等な品だと思う」

「本当にいいんですか? 高かったんですよね」

「否定はしないけど、二・三日食費を抑えれば取り戻せる程度の出費だから。さあ、封を開けてみて」

 ゾーイは箱を恭しく受け取る。逸る気持ちを懸命に抑えつけるかのような手つきで、慎重に開封していく。エメラルドグリーンの瞳はらんらんと輝き、まるで誕生日プレゼントをもらった年端もいかない子どもだ。

 現れたのは、扁平な白い箱。包装紙をていねいに畳んで窓枠の上に置いてから、恐る恐るといったふうに箱の蓋を開ける。長方形の内部は八つの枠に区切られていて、一枠につき一個、指頭大のミルクチョコレートがおさまっている。

「うわぁ、とってもいい香り! 食べてもいいかな?」

 もちろん、というふうに僕はうなずく。

 ゾーイはさっそく一つつまみ、真っ二つに割るように噛む。瞬間、つぶらな目が大きく見開かれた。その表情のまま、口だけが動く。嚥下が完了すると、まばゆいばかりに輝く笑顔がこちらを向いた。

「おいしい! ラルフ、これ、今まで食べた中で一番おいしいよ! 甘くて、食感がなめらかで、味わいが濃厚で――ああ、知っている言葉が少なすぎて、ぴったりはまる表現を見つけられないよ。大げさかもしれないけど、わたし今、凄く感動してる。ラルフ、ありがとう」

 迸るような言葉と、はしゃぐ自分を恥じながらも抑えられない姿に、僕は口角が持ち上がるのを自覚する。

 たった今気づいたことだが、僕は大人になってから誰かにプレゼントをあげた経験がほとんどない。

 両親には帰省したさいに土産物を持って帰るが、実質的には食料支援の一環。ヨハン相手に食事をおごることはたまにあっても、記念日に贈り物をすることはまずない。

 でも、こうしてゾーイの喜ぶさまを間近で見て、こういうのも全然悪くないな、と心から思った。

 ゾーイは残る半分も一口で食べてしまうと、箱を差し出して僕にもチョコをすすめた。辞退しようとかとも思ったが、水を差したくなかったので一つつまむ。とびきりおいしかった。最終的に僕が二個、ゾーイが六個食べた。

「はい、お粗末さまでした」

 僕は空になった箱の蓋をぱたんと閉め、甘い残り香を封印した。

 ゾーイは唇をしきりに舐めている。僕からの視線に気がつくと、慌てたように手で口を隠した。僕から顔を背けた直後、なにかを思い出したような表情になった。掌を外して僕に注目を戻し、

「ねえラルフ、箱と包装紙をもらってもいいかな? 記念にとっておきたいから」

「もちろん。包むものも含めてゾーイへのプレゼントだから」

 ゾーイは「やった」と言って握り拳を作り、二つを手に部屋の奥へ。

 室内は照明が灯っておらず薄暗い。壁際にいくつかの家具が置かれている。そのうちの箪笥の引き出しが彼女の手によって開かれ、もう一方の手に持っていた二つがしまわれた。幼い子どもが宝物をケースにおさめるような手つきだった。

 ゾーイが背を向けている隙に、部屋全体に目を走らせる。昨日「散らかっている」とゾーイ本人が言っていたとおり雑然としているが、家具の並びは整然としている。部屋にある物が多すぎて、整頓しきれないせいで散らかっているように見えるのかな、という印象だ。

 家具は複数置かれているが、生活感は感じられない。個人の自室というよりも、物置部屋。今すぐに使う予定のないものを一時的に保管しておくのではなく、捨てたくても捨てられないものを放り込んでおく類の。

 そんな部屋を、貴族の娘が自室として使っているというのだから、普通ではない。

 いや、そもそも、手錠と鎖で拘束されている時点で、めちゃくちゃ異常だ。

「おまたせ」

 鎖が床をこする音と明るい声に僕は我に返る。ゾーイが戻ってきたのだ。彼女は窓枠を両手で掴んで軽く身を乗り出し、

「ラルフは昼食、チョコレートだけじゃないよね? 食べながらお話しようよ。わたしはもう昼食は済ませているし、チョコだってたくさん食べた。ねだったりしないから安心して」

「わかった。でも、欲しくなったら遠慮なく言ってね」

 ゾーイのほうがしゃべっている時間が長かった。チョコレートを買った菓子店の様子を尋ね、昨夕仕事を終えたあとのこちらの行動を知りたがり、仕事の進捗状況を確認する。

 多弁で、質問が多いが、土足で踏み込んでくるような図々しさはない。好奇心旺盛なところはどこか子犬を思わせ、むしろ微笑ましい。持ち前の声の美しさが、会話の満足度を高めてくれているのは言うまでもない。

 僕の何気ない一言を悪いように考えて、過敏に反応することも少なくなったし、口調もだいぶ砕けてきた。

 昨日よりも、僕に心を許してくれている手応えがあった。

「なんかさっきから、わたしばかりしゃべっちゃってるね。ラルフもわたしに訊きたいこと、あるんじゃないかな。もしあるんだったら、どうぞ。なんでも答えるよ」

 僕が一個目のサンドウィッチを食べ終わるのを見計らったようなタイミングでのゾーイの発言だ。表情は質問攻めをしてきたと同様に明るいが、その底には緊張と怯えがうっすらと滲んでいる。

 僕は思案に沈む。

 体を動かす自由は与えられているとはいえ、部屋に鎖で繋がれている。与えられている食事は粗末。肉や甘いものはめったにありつけない、という告白。

 ゾーイがなんらかの闇を抱えていることに疑いようはない。

 でも、どこまで探りを入れるべきなんだ?

 どちらか一方が、あるいは二人ともが傷つく結果にはならないか。

 一時雇用の一介の庭師ごときが、雇用主の娘が抱える闇に触れてもいいのか。

 こうして、囚われの身の少女と会話していること自体、許される行為なのかも定かではないのに。

 難問だが、まずは二者択一。

 ゾーイとは、昼休憩時間にいっしょに食事をとり、リクエストに応えてプレゼントを贈る関係にとどまるか。

 それとも、彼女が抱える闇に踏み込んでいくか。

 僕が選ぶべきなのは、選びたいと思うのは――。

 突然、床板が軋んだ。

 なにが起きたのか、僕は咄嗟には理解できない。

 一方のゾーイは、弾かれたように振り向いた。

 彼女の真後ろ約一メートルの壁際に、ちょうど彼女の背丈ほどの、シンプルな造りの木製本棚が設置されている。その横にドアがある。真鍮製のノブが付属した、ありふれたデザインのドア。僕もその存在は早くから把握していたが、中からでも開くのかや、どこに通じているのかなどは、これまでまったく考えてこなかった。部屋の中に入る意思自体がないため、その部屋のさらに先の領域に行く設備には関心が向かなかったんだと思う。

 ゾーイはそのドアを振り向いた。

 僕たちの合計四つの瞳に凝視されながら、ドアがゆっくりと開かれる。

 現れたのは、鮮やかな金色の長髪を腰に垂らし、メイド服に身を包んだ若い女性。

 ウッドフィールド家唯一の使用人・メアリーだ。

 彼女がいつも淡くまとっている大人びた香水の芳香が、窓の外の僕の鼻孔に達した。その香りが連れてきたとでもいうように、場は張り詰めた緊迫感に包まれた。

 僕とゾーイが対話している場に、ウッドフィールド家の住人――ニックやメアリーがいつ訪れてもおかしくない。それは頭では理解していたつもりだ。

 でも、接近には気づけなかった。

 ドアの近くにいるゾーイでさえ、ドアが開く直前まで。

 互いに注意が疎かだった。油断していたと認めざるを得ない。おそらくは、昨日今日と、二人で過ごした時間があまりにも楽しすぎるせいで。

 僕が抱いている感情は恐怖に近い。

 これまで数回接したかぎり、職業柄自分を抑えている部分があることを差し引いても、メアリーはフレンドリーな性格だ。年齢が近いのもあって、僕にはある程度好感を抱いてくれているみたいだ。

 ただ、そうはいっても、彼女はあくまでもウッドフィールド家に雇われた使用人。ニック氏が、ゾーイが部外者と交流することをどう捉えているかによっては、僕に厳然たる措置が下る可能性もある。

 最悪、本日付で馘首されるかもしれない――。

 メアリーはドアノブを掴んだまま、口を半開きにした顔で二人を見ていたが、やがて無言で室内に全身を入れた。かちゃり、という後ろ手でドアを閉めたさいの音は、静寂の中で冷たく明瞭に聞こえた。

 固唾を呑む僕の視界の中央で、彼女はゆっくりと首を動かして僕たちを交互に見た。そして、顔を綻ばせた。

「二人とも、無断で楽しくお話なんかしちゃって、いけないんだ。ご主人さまに言いつけてやろうかな」

 その声からは、告発者特有の刺々しさは感じられなかった。

 メアリーはゾーイの隣まで移動し、真正面から僕を見据えた。長いまつ毛を備えた碧眼に見つめられたとたん、焦燥感が込み上げてきた。

「ご、誤解だよ、メアリー。ゾーイと話がしたいと望んだのも、窓を開けるようにお願いしたのも僕で、ゾーイにいっさい非はないから。僕はそもそも、ゾーイと話をするのが禁じられているとは思わなくて。だから、その、この件に関する責任は――」

「ラルフ、笑っちゃうくらい早口になってるよ。世界の終わりが来たみたいに焦っちゃって、かわいいなー」

 からかうような調子の、この上なく能天気なメアリーの声に、はっとして言葉を止める。

「落ち着いて、ラルフ。言わないよ。あたしはこのことは誰にも言うつもりはない」

「え……」

「たしかに、ご主人さまからは禁じられているよ。ゾーイは勝手に部外者と会話を、というよりも意思疎通自体してはいけない。ご主人さまから本人に言い聞かせているし、万が一あたしが見つけたときは厳しく注意しなさいって言いつけられている。雇った人間がウッドフィールド家の人間と話すのは――どうなんだろうね。だめとは言われなかったけど、奨励されてもいないんだよね。でも、ゾーイが部外者と話すのを禁じられているんだから、部外者のほうも従わなくちゃいけないよね、普通に考えれば」

「でも、メアリーさんはさっき、誰にも言うつもりはないって……」

「うん、ないよ。そんなつもりはまったくない。だって、ご主人さまからすれば罪かもしれないけど、あたしにとってはそうじゃないもん」

 メアリーはさらりと言ってのけた。まるで現在時刻を問われたから、上着の内ポケットから懐中時計を取り出し、表示された数字を口にするように。事態の深刻さに向き合いたくないがためにわざと軽く言う、といった様子もなく。

「さっき『ご主人さまに言いつける』って言ったけど、あれは百パーセント冗談だから。だって、考えてもみてよ。あたしがゾーイを告発するメリット、ある? ないよね。だって、主人の娘のルール違反を告発するのは、通常の業務の範疇。馬鹿真面目にこなしたところで、ねぎらいの言葉をかけられるわけでも、ましてや臨時ボーナスが出るわけでもないんだから。むしろデメリットばかりっていうか」

「デメリット?」

「ああ、ラルフはわかんないか。あの人は、ご主人さまは感情的になると、気まぐれの後出しで重い罰を下すことがあるの。だから今回も、監督不行き届きっていう名目で、あたしも連帯責任を取らされる可能性があると思うんだよね。だったら、秘密にしておいてその可能性を消すべき。あたし自身は、ゾーイが誰と話そうがなんとも思わないし」

 説明しているあいだ、メアリーはずっとリラックスした表情をたたえている。邪な企みを抱いているようにはとても思えない。僕の体のこわばりは次第に緩んでいく。

「そもそも、たしか庭師さんって、休憩中は庭を自由に使ってもいいって言われていたよね。ご主人さまからはそう聞いたような記憶があるけど」

「確かにそう言われました。ただ……」

「ただ?」

「無断でしゃべっておいてなんですけど、娘さんと勝手にしゃべっていいかは別問題じゃないですか。さっき言った、ゾーイは部外者としゃべってはいけないというのは、冗談ではないんですよね?」

「うん、本当のことだよ。だとしてもさ、ごはん食べながら雑談してただけなんでしょ? ゾーイにいやらしいことをしようとか、部屋からなにか物を盗もうとしたとか、そういうことはしてないよね?」

 僕、ゾーイの順番に顔を見つめる。僕は間髪を入れずに首肯したし、ゾーイもそうした。

「じゃあ、別によくない? なにも悪いことはしてないんだから」

「メアリー、確認させて。ゾーイとは本来話をしてはいけないんだけど、メアリーにはウッドフィールドさんに違反として報告する意思はない。そして、僕は今後もゾーイと会話してもいい。そういうことだね?」

「うん、そういうこと。よくできました」

 メアリーは白い歯をこぼし、胸の前で形だけの拍手をした。

 安堵の息が僕の口から吐き出された。抑えようとしても抑えようのない、特大の吐息が。

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