第3話

「貴族の身分のかたから仕事を任されたのは、実はこれが初めてなんだ。もちろん光栄に思うけど、プレッシャーも凄くて」

 話題選びには悩んだ。サンドウィッチの包装紙をわざとゆっくりと剝がしながら検討した結果、無難で話しやすいということで、自分の仕事について話すことにした。

 ゾーイは窓枠に両手を置いて外を向き、僕は彼女の真正面の地べたに胡坐をかき、相対している。

『短時間過ごすだけなら、ばれないと思いますよ。いざとなったらベッドの下に隠れればいいし。ちょっと散らかっているけど、それを我慢できるなら、ぜひ』

 昼食を手に戻ってきて早々そうすすめられたが、断った。たかが一時雇用の庭師の分際で、貴族の屋敷の中に無断で上がり込み、貴族の子女と部屋で二人きりにわけにはいかない。卑下するとか、相手を立てるとかじゃなくて、これはマナーの問題だ。

「実は、今の仕事を始めてからそう長いわけではなくて。クライアントの細かい注文にも応えられる自信がようやくついてきたところだったから、ウッドフィールドさんから依頼が来たときは驚いたよ」

「庭師を目指したきっかけとか、あるんですか」

「唐突な質問だね。気になるんだ?」

「あ……ごめんなさい。急に尋ねたりして」

「いや、気にしないで。思ったままの感想を口にしただけだから」

 ゾーイは僕が疑問を呈したり訊き返したり反問したりすると、まるで自分が過失を犯したかのような反応を見せる。緊張しているのと、性格、両方の影響だろう。

「僕の父親も庭師をしていてね。僕が社会人になる直前まで現役だったんだけど、仕事中の事故で怪我をしてしまって、庭師を続けるのが難しくなって。両腕と右脚なんだけど」

「腕と脚……。それは、庭師にとっては……」

「致命的だよね。治ったあとも、怪我をする前みたいにスムーズには動かせなくて、痛みもときどき出て、廃業するしか選択肢はなくて。

 当時の僕は学生で、別の道に進むことも考えていたんだけど、けっきょく跡を継ぐことにしたんだ。小さいころから父親から話を聞かされるとかして、庭師という職業に多少なりとも愛着はあったし、このまま家業を畳むのは惜しい気がして」

「……ごめんなさい。不躾な質問、でしたよね」

「いや、いいんだ。父さんは庭師を続けられなくなっただけで、今も普通に暮らしているから。落ち込んでいた時期もあったけど、今はもう落ち着いたしね。生活に必要なお金に困っているわけでもないし」

 ゾーイは気まずそうに黙り込んだのち、話頭を転じた。

 以降は話題が小刻みに移ろった。仕事関係のことが多かった。専門的な質問に関しては、素人を満足させる程度に深みのある回答ができたんじゃないかと思う。

 ただし、唯一、花言葉に関してはお手上げだった。

「この花の花言葉が知りたい、ではなくて、その逆はできますか? たとえば、『幸福』の花言葉を持つ花はなにがあるのか、とか」

「ごめん、花言葉はちょっとわからないかな。同じ植物関連ということで訊いてくれたんだろうけど、残念ながら専門外。ポピュラーな花の花言葉ですら思い浮かばないよ」

 そう答えると、ゾーイは「そうですか」と残念そうにつぶやき、話題を切り替えた。

 不慮の事故で庭師生命を絶たれた父さんの跡を急遽継ぐことになり、仕事に最低限必要な知識を短期間で詰め込む必要があった。必死だった。大きな収入源を絶たれ、生活の危機に瀕した両親を助けるために。そして、自分自身が食べて行くために。

 死に物狂いの努力が実り、今のところ二つの目的をなんとか果たせている。

 ……でも、こんないたいけな少女の素朴な疑問に答えることすらできない。

「そういえば、ゾーイはお昼になにを食べたの?」

 後ろめたさから逃げるように、そんな今さらな質問を投げかけてみる。

「昨晩の残りのスープと、パンです。ラルフさんは、仕事のときはいつもサンドウィッチなんですか?」

「一番多いかな。食べやすいし、具材をいろいろ変えられるから飽きもこないし」

 今食べているのは、サラミとレタスとスライスオニオンを挟み、マヨネーズがベースのドレッシングをかけたサンドウィッチ。もう一つ、ハーブ入りのソーセージを挟んだものも持ってきていたが、そちらはすでに胃の中だ。

「ゾーイ、よかったら食べる?」

 残りわずかとなったサンドウィッチを顔の高さに掲げ、そう提案してみる。

「え……。どうして、ですか?」

 ゾーイは戸惑っている。まん丸になった目からも、ほんの少し上擦った声からも、それは明らかだ。

「いや、ごめん、ちょっと言ってみただけ。さっき食べたって言ったばかりなのに、変なことを言っちゃったね。忘れて、忘れて」

「いいえ、せっかくだからいただきたいです。……かまいません、よね?」

 ゾーイはどこか不安そうな目つきで僕を見つめ、おずおずと両手を差し出した。

 これまでのところ一貫して控えめだった彼女の思いがけない行動に、僕は軽く面食らった。ただ、申し出を拒む理由はどこにもない。

 うなずいて行動に移ろうとして、僕は再び面食らってしまう。口をつけていないところを一口分ちぎろうとしたのだが、彼女は丸ごと手に取ったのだ。

 サンドウィッチはゆっくりと、真っ直ぐに、口紅に侵されていない唇へ。

 しゃくり、というレタスが上下の歯に切断される音。ゆっくりと味わうように咀嚼し、喉が大きく動いて一口目が嚥下された。

 うっとりとした、満足そうな表情がゾーイの顔に灯る。唇が小さく、咀嚼ではない目的で動いた。「おいしい」と言ったらしい。

 不可解で不可思議な重力に繋ぎ止められて、僕は彼女から目が離せない。

 僕にとっての三口分を、ゾーイは五回に分けて胃の腑におさめた。食べ終わると、ひと仕事を終えた直後のように大きく息を吐いた。その顔は、ささやかだが晴れやかな幸福感に包まれている。体内の光源に由来する清潔で明るい光が、肌を透かして彼女を輝かせているかのようだ。

「……あ」

 僕の視線に気がついたらしく、ゾーイは素早く右手で口元を隠した。肌の白さとの対比で、頬に滲む赤が実質以上に鮮やかに見える。彼女はすぐに手を離し、その指先で前髪に少し触れてから僕と視線を合わせる。

「ごめんなさい。無理やり奪ったみたいになってしまって。下品で、はしたなくて、みっともなかったですよね。恥ずかしい……」

「いや、気にしないで。むしろ、うれしかったよ。市販の食材を切って市販のパンに挟んだだけだけど、一応僕が作った料理ではあるわけだし」

「あ、そうだったんですね。全然気づきませんでした」

「パンの切り口が真っ直ぐじゃないし、サラミは厚さがまちまちだし、はみ出すのを恐れるあまりマヨネーズドレッシングは少なすぎる。こんな不格好なサンドウィッチ、売っていたらクレーム殺到で店がつぶれちゃうよ」

 僕は肩をすくめる。ゾーイは少しぎこちなく、でもはっきりと白い歯を見せた。

「すごくおいしそうに食べていたけど、好物でも入っていたのかな」

「好物というか、それ以前の問題というか」

「どういうこと?」

「実はわたし、毎日の食事が満足のいくものではなくて」

 僕は軽く息を呑んだ。

「今日のお昼にはパンとスープだったけど、パンは古いものだから堅いし、スープは野菜の切れ端がほんの少し入っているだけ。お肉なんて、食べたのは一週間ぶりくらいじゃないかな。その一週間前に食べた肉は、腐りかけで、調味料と香辛料で誤魔化しているような酷いもので」

 発言はそこで途絶えた。

 僕は一言も言葉を返せない。

 鎖に繋がれていて、部屋の外に出られない。のみならず、食事が粗末。

 気丈に振る舞ってはいるが、ゾーイの生活は、僕が想像している以上に悲惨みたいだ。

 悪意はなかった。でも、彼女を傷つけてしまったのも事実。

 この過失、どうやったら挽回できるのだろう。

「ゾーイはなにか食べたいものはある? 明日、君のために買ってきてあげるよ」

 沈黙を、僕は努めて明るい声で破った。

 ゾーイは双眸をしばたたかせながら僕を見返した。

 驚いているのは僕も同じだ。

 ゾーイの不幸を少しでも軽減したい。自分にでもできることがあるなら、今すぐにでも実行したい。

 そう願ってから、実行に移すまでが、まるでこう言われたときはこう対応すると事前に決めていたかのように迅速だったのだから。

「食べたいものがあるなら遠慮なくリクエストして。僕が買ってくるから、お昼にいっしょに食べよう」

「そんな……。悪いですよ、わざわざわたしなんかのために」

「いや、僕のためでもあるんだ。肉体労働者にとって食事は大切だけど、僕が心がけているのはしっかり食べることくらいで、メニューは偏りがちで。さっきは『サンドウィッチは具材をいろいろ変えられる』って言ったけど、それすら怠けちゃっているのが現状で。だから、君の好みに合わせて普段とは違うものを食べるのは、僕にとって明確なプラスになるんだ。迷惑どころか、その逆なんだよ、ゾーイ」

「……なるほど」

 うなずいたゾーイの顔つきは真剣だ。

「この屋敷まで持ってこられるものなら、なんでもいいよ。あまり深く考えずに、食べたいものをぱっと言ってみて」

「では、そうですね」

 短い黙考を経て、はにかみ笑いがゾーイの顔に浮かぶ。

「チョコレートが食べたいです。甘いもの、好きだったんだけどもうずっと食べていないから、久しぶりに食べてみたい」

「チョコだね、了解。いろいろな味があるけど、どうしようか?」

「あまり詳しくないので、ラルフさんに任せてもいいですか」

「もちろん。よさそうなものを選んで買ってくるよ。楽しみにしていて」


 ヨハンはクライアントとの打ち合わせがあるらしく、今夜は食事をともにできないという。

 そんな日には、大げさかもしれないが、見放されたような、見捨てられたような気持ちになることもこれまではあった。

 しかし、今日は逆にほっとした。あいつは文句なしにいいやつだが、下世話で詮索好きなところがある。秘密にしたいことがあるときは、彼抜きで行動したほうがいい。

 定食屋で夕食を手早く済ませ、繁華街に程近い通りを僕は歩いている。人工の明かりが世界をまばゆく照らし出し、人通りは絶えることを知らない。今日はじめての街灯が灯り、最後の街灯が消えるまでのあいだ、何人の人間の肩と肩がぶつかるだろう。

 田舎生まれ、田舎育ち。三年前に市内に住所を移してからも、閑静な住宅地にあるアパート暮らしの僕にとって、繁華街は特別感がある場所だ。平日は比較的頻繁に食事をしに来ているけど、その感覚はいまだに薄らいでいない。

 僕の歩調は比較的ゆったりしている。対照的に、視線はややせわしなく左や右に飛ぶ。

 隣にヨハンが不在。加えて、固定化されたライフサイクルに従容として従う僕からすれば、特殊な目的を胸に抱いている。そのせいで、どことなくそわそわした気持ちがずっと続いているのだけど、気分は決して悪くない。

 多少時間はかかったが、よさそうな店を見つけた。垢抜けた瀟洒な外観で、ガラス越しに見える店内ではたくさんの客が品定めをしている。目立つのは若い女性、そしてカップル。

 商品は総じてお値段高めだが、まあ許容範囲内だろう。唯一の明確な誤算は、品揃えが豊富すぎること。目移りしてしまってなかなか一つに絞れない。

「すみません。プレゼント用のチョコレートを買いたいのですが」

 そこで、従業員の女性にすがることにした。

「お贈りになる相手はどちらさまですか」

「えっと、知り合いのお子さんです。女の子で、十代なかばなんですけど」

「十代なかばのお嬢さまですね。でしたら――」

 店員がピックアップしたいくつかの商品の中から、優しい味わいが売りだというミルクチョコレートを僕は選び、ラッピングもしてもらった。

 赤い包みを胸に抱いて通りを歩く僕は、心も体も足取りも軽かった。日によっては気を滅入らせ、いら立たせる原因になる人の多さとうるささも、ほとんど気にならない。心は半分以上、ここにいない女の子に向いているのに、不思議と通行人にぶつかることなくすいすいと進んでいける。

 今の僕なら、大それた真似でもやってのけられる気がする。

 待っている未来は明るいと、疑いの余地なく信じられる。

 できるなら、今すぐにゾーイのもとに飛んでいきたい。

 理性が理性的でいてくれなかったら、「今僕は幸せだ!」とかなんとか、周囲の目もはばからずに馬鹿げたことを叫んでいたかもしれない。

 ただ、上機嫌でいられた時間は長続きしなかった。

 進路に見覚えのある顔を見つけて、僕の足は止まる。

 ヨハンだ。見慣れた作業着姿で、好対照なフォーマルな服装の中年男性と言葉を交わしている。

 夕食をともにする約束を交わさなかった時点で、今日は友とはもう会うことはないと思い込んでいた。僕を襲った混乱と狼狽は尋常ではなかった。

 僕は両腕で胸に押し当てるようにしてチョコレートの包みを隠し、脇道に逃げ込む。

 ヨハンが視界から消えても安心できず、足が止まらない。駆け足に変わる一歩手前くらいの速度でひたすら道を進み、息が切れたところで立ち止まる。

 路地裏だ。薄暗く、付近に人はいない。建物の外壁に背中を預け、せわしなく呼吸をくり返す。

「なにをやっているんだ、僕は……」

 チョコレートを買うために行動しているあいだ、僕は年甲斐もなく浮かれていた。

 静かな環境へと逃れて、冷静さを取り戻したことでやっと、自分が冷静ではなかったことに気がついた。

「まるで子どもだな……」

 苦味成分が混じった声がこぼれた。

 ヨハンを見かけるまでの僕は、学生時代、片想いをしていた女友だちのために誕生日プレゼントを買いに行ったときの僕に似ている。

 苦々しいような、微笑ましいような気持ちで過去に思いを馳せる。菓子店で見かけたカップルの仲睦まじい様子も思い出した。

 当時と今との共通点は、一人の異性に心を奪われているということ。

「僕は――」

 赤い包みを見下ろす。無意識に強く抱きしめてしまっていた気がしたが、箱は一ミリも変形していない。


 もともと心から望んで始めた仕事じゃない。

 父親の優秀さを誇らしく思っていた。本人はあまり多くは語らなかったが、仕事の話はいつも興味深く聞いたし、親しみだって抱いていた。

 ただ、自分も父のように働きたいかと問われると、すんなりと首を縦には振れない。昔は言わずもがな、まさにその職業に従事している今だって。

 激しくではないが、常に肉体を動かさなければならない。今のように日射しが殺人級に厳しい季節だと、仕事終わりには地べたに座り込んで動けなくなるくらいに疲労困憊する。「植木屋」に与えられる仕事は創造性が乏しく、単純作業に近い工程も多い。

 はっきり言って、愉快な仕事ではない。

 仕事中以外には仕事のことを考えたくない、そんな仕事の一つかもしれない。

 でも、ゾーイと出会ったことで、考えが百八十度変わった。

 明日が来るのが待ち遠しい。ちょっとした弾みで、彼女の顔が脳裏に浮上する。少々褪せているが、それを差し引いても美麗な、純白のロングヘア。見つめられると弱い力に束縛されてしまう、宝石のようなという比喩が比喩にはならない、エメラルドグリーンの瞳。少し控えめな、だからこそ可憐な、はにかむような微笑み。

 そして、声。

 ゾーイの声には透明感があり、聞いていて心地いい。あの美しさを、快さを、もう一度、いや何度でも味わいたい。浸りたい。それも有力な動機の一つだ。音声は映像よりも脳内再現性が低いという意味では、一番の動機といっても過言ではないかもしれない。

 仕事自体が楽しみになったわけではない。でも、昼休憩にさえ漕ぎ着けられれば、彼女と過ごすひとときが待っているのだと思えば、喜んで苦役に臨もうじゃないかという気持ちになれる。

 ゾーイ。

 君と、また会いたい。話がしたい。笑顔が見たい。

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