第10話 燃え盛る脂と、暴食の蹂躙】
鼻を突く獣臭と、背後から迫るゴブリンの足音が、俺の思考を「逃走」から「殲滅」へと強引に切り替えさせていた。
目の前には、数十体のオーク。
武器を構え、涎を垂らしながらジリジリと包囲網を縮めてくる。
もはや小細工で抜けられる状況じゃない。
俺は革袋から取り出した小瓶――「火蜥蜴のオイル」のコルク栓を、歯で食いちぎって開けた。
苦い味が舌に広がる。
本来は高級食材の香り付けに使う、発火性の高いオイルだ。金貨一枚分もした虎の子だが、命には代えられない。
「グル、火だ! 燃やし尽くせ!」
俺は叫びと共に、瓶をオークの最前列へ全力で投げつけた。
瓶が回転し、中身の赤い液体が霧のように撒き散らされる。
同時に、俺は腰のポーチから火打ち石を取り出し、打ち合わせる――暇などなかった。
カッ!
俺が火花を散らすより早く、グルの口から水弾ならぬ「何か」が放たれた。
それは、ジャイアントフロッグの水鉄砲ではない。
以前食べたファイアバードの残り火か、あるいは俺の殺気に呼応したのか。
小さな火の玉が、撒かれたオイルに着弾した。
ドォォォォォンッ!!
爆発的な炎上が、洞窟内を真昼のように照らし出した。
悲鳴を上げるオークたち。
脂ぎった皮膚に「火蜥蜴のオイル」が付着し、消えない炎となって彼らを焼く。
調理、というにはあまりに乱暴な火力。
だが、これで舞台は整った。
「ギャオオオオオッ!!」
炎の壁を突き破り、グルが飛び出した。
その姿に、俺は息を呑んだ。
怯え? 違う。
歓喜だ。
目の前のオークたちが「焼けた肉」になったことで、グルの認識が「敵」から「ご馳走」に変わったのだ。
グルは燃え盛るオークの一体に飛びつくと、その太い腕を骨ごと噛み砕いた。
バキリ、という硬質な音が響く。
オークが絶叫し、棍棒を振り下ろすが、グルはそれを避ける素振りすら見せない。
背中で受け止め、弾き返す。
あのスライムの弾力が、物理攻撃を無効化している。
「ブヒィィッ!?」
攻守が逆転した。
グルは腕を食いちぎった勢いで、次は喉笛に食らいつく。
鮮血が舞い、炎の中で蒸発して鉄の匂いを撒き散らす。
速い。強い。そして何より、残酷だ。
俺の知っている甘えん坊の幼竜はどこへ行った?
今、目の前にいるのは、食物連鎖の頂点に立つ捕食者そのものだ。
その時、集落の奥から、地響きのような咆哮が轟いた。
炎を割って現れたのは、通常のオークの二倍はある巨体。
全身を鉄の鎧で固め、巨大な戦斧を引きずったボス個体――オークジェネラルだ。
「ブモオオオオッ!!」
ジェネラルが戦斧を振り上げ、グル目掛けて叩きつける。
その風圧だけで周囲の炎が揺らいだ。
まずい、あれは防げない。
「グル、避けろ!」
俺の警告は、しかし無意味だった。
グルは逃げなかった。
むしろ、真っ向から突っ込んだ。
振り下ろされる戦斧の刃を、あろうことか「口」で受け止めたのだ。
ガギンッ!!
金属同士がぶつかり合うような火花。
グルの牙が、鋼鉄の戦斧をガッチリと噛み砕いていた。
嘘だろ……?
ジャイアントフロッグを食って顎の力が強くなったとはいえ、鉄を噛み砕くなんて聞いていない。
ジェネラルの動きが止まる。
その目に、初めて恐怖の色が浮かんだ瞬間だった。
グルは戦斧をへし折ると、そのままジェネラルの懐へ飛び込み、鎧の隙間から腹部へ頭を突っ込んだ。
柔らかい腹を一心不乱に食い破る。
断末魔すら上げさせない。
ただの食事風景だった。
圧倒的な強者が、弱者を啜るだけの作業。
周囲のオークたちは戦意を喪失し、武器を捨てて逃げ惑っていた。
背後から迫っていたホブゴブリンたちも、この異様な光景に足を止め、青ざめて後退していくのが気配で分かった。
俺は立ち尽くしていた。
手には空になったオイルの瓶を握りしめたまま。
包帯を巻いた指先が、冷たく痺れている。
俺はこいつを育てているつもりだった。
最強の相棒にするんだと、意気込んでいた。
だが、違ったのかもしれない。
こいつは最初から「最強」で、俺はただ、その封印を解いただけなんじゃないか。
ジェネラルが動かなくなり、グルが血まみれの顔を上げた。
金色の瞳が、ゆらりと俺を捉える。
その目に理性が宿っているのか、俺には分からなかった。
思わず一歩、後ずさる。
「……グル?」
名を呼ぶ声が震えた。
グルは「きゅう」と短く鳴くと、口元の血を長い舌で舐め取り、嬉しそうに尻尾を振った。
いつもの愛らしい仕草だ。
だが、その背景には、食い散らかされた無数の死体と、内臓を啜られたボスの残骸がある。
俺は安堵と、底知れぬ畏怖がない交ぜになった溜息を吐いた。
へたり込みそうになる膝を叱咤して、グルの元へ歩み寄ろうとした、その時だ。
「……おい、嘘だろ?」
背後の通路から、聞き覚えのある声がした。
呆然とした、間の抜けた声。
俺は振り返った。
そこには、薄汚れた装備を纏い、疲労困憊の様子で立ち尽くす四人組がいた。
戦士ガイル。魔法使いのエリス。
見間違えるはずもない。
俺を追放した元パーティ「銀の牙」のメンバーたちが、燃え盛る集落と、その中心に立つ俺と怪物を、信じられないものを見る目で見つめていた。
ガイルと目が合う。
彼らが何故ここにいるのか。おそらく、騒ぎを聞きつけて漁夫の利を狙いに来たのだろう。
だが、彼らが目にしたのは、獲物ではなく、彼らが捨てた「荷物持ち」が支配する地獄だった。
俺は無意識に、グルを庇うように一歩前へ出た。
かつては彼らの背中を追いかけるだけだった俺が、今は彼らを正面から見据えている。
喉まで出かかった言葉は、皮肉か、それとも拒絶か。
俺は血と脂の匂いが充満する空気の中で、かつての仲間たちに、どんな言葉を投げつければいい?
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