第9話 連携する小鬼と、袋小路の絶望

 石畳を踏みしめるブーツの底から伝わる振動が、昨日の浅層とは明らかに違う重さと殺気を帯びていた。


 地下5階層。ここからが通称「中層」と呼ばれるエリアだ。

 湿った苔の匂いは消え、代わりに乾いた土埃と、古い鉄錆のような血の匂いが漂っている。

 俺は通路の角に身を寄せ、呼吸を殺した。

 背負った革袋のベルトを握る手が、じっとりと汗ばんでいる。中に入っている調理器具や食材の重みが、今はただの重石のように感じられた。


「……グル、静かにな」


 足元に控えるグルにハンドサインを送る。

 グルは「分かってる」とでも言うように短く鼻を鳴らし、姿勢を低くした。

 その体表は、周囲の岩肌に溶け込むように少しだけ色を変えている。カエルの擬態能力まで取り込んだのかは分からないが、隠密性は格段に上がっていた。


 前方の広間から、ガチャガチャという金属音と、耳障りな笑い声が聞こえてくる。

 ホブゴブリンだ。

 浅層のゴブリンとは体格も知能も違う。奴らは粗末ながらも武器を持ち、鎧を着て、何より「指揮系統」を持っている。


 俺は潜望鏡代わりに磨いたナイフの刃を突き出し、様子を窺った。

 数は五体。

 先頭に盾持ち、中央に槍、後衛に弓が二体。

 完全にパーティを組んでいる。

 ソロの冒険者が中層で死ぬ原因の九割は、この「数の暴力」と「役割分担」に対処しきれないからだ。


「……まずは弓を潰す」


 俺は小声で呟き、作戦を脳内で組み立てた。

 正面からぶつかれば、盾持ちに足止めされている間にハチの巣にされる。

 俺の投擲スキルと、グルの機動力。それを組み合わせるしかない。


 俺は腰のポーチから、スリング(投石紐)と、昨夜作った「特製弾」を取り出した。

 布に包んだだけの簡単なものだが、中には市場で安く仕入れた胡椒と唐辛子の粉末が詰まっている。

 料理人の武器は包丁だけじゃない。


「グル、合図と同時に右の弓兵を狙え。水鉄砲だ」


 グルが頷く。

 俺は深呼吸を一つ入れ、飛び出した。


「そこだッ!」


 俺の姿に気づいた前衛が声を上げるより早く、スリングが唸りを上げた。

 放たれた粉袋が、後衛の弓兵たちの頭上で炸裂する。

 舞い散る刺激性の粉末。


「ギャギャッ!?」


 弓兵たちが目を押さえて悶絶する。

 視界と呼吸を奪えば、弓はただの木の棒だ。

 その隙を、相棒が見逃すはずがない。


 ケプッ、という軽い発射音。

 岩陰から飛び出したグルが、走りながら水弾を放った。

 高圧の水流が一直線に飛び、右側の弓兵の顔面を打ち抜く。

 悲鳴すら上げられず、ゴブリンが吹き飛んだ。


「グル、引け! 接近されるな!」


 一撃離脱。

 だが、残った敵の反応は早かった。

 盾持ちが即座に防御態勢を取り、槍持ちがグルの進路を塞ぐように突きを出してくる。

 グルは空中で体をひねり、辛うじて穂先をかわしたが、着地と同時に盾で殴り飛ばされた。


「ギャウッ!」


 地面を転がるグル。

 粘体皮膚のおかげで致命傷ではないが、軽い体躯が仇になった。

 俺は即座に二発目の粉袋を投げようとしたが、生き残ったもう一体の弓兵が、涙を流しながらも矢を放ってきた。


 ヒュンッ。

 頬を掠める風圧。

 狙いが逸れたのは奇跡だ。


「チッ、しぶとい……!」


 俺は舌打ちをして、グルに撤退の合図を送った。

 五体のうち一体を無力化したが、まだ四体。

 しかも完全に警戒モードに入った。

 これ以上の継戦はジリ貧だ。俺のスタミナも、グルの水弾も無限じゃない。


 俺たちは通路を駆け戻った。

 背後からドタドタという足音と、怒り狂った叫び声が追いかけてくる。

 中層の恐ろしさはこれだ。一度見つかれば、執拗に追跡してくる。

 そしてその騒ぎが、他の部屋の魔物まで呼び寄せる。


 曲がり角を曲がるたびに、地図の記憶を必死に手繰り寄せる。

 ここは複雑な迷路エリアだ。

 地の利を活かせば撒けるはず。

 俺はかつて、パーティのために安全なルートを必死に暗記した。その知識が、今、俺自身の命を繋いでいる。


「こっちだ、グル!」


 狭い横穴に滑り込む。

 グルもそれに続く。

 追っ手の足音が通り過ぎていくのを、息を殺して待つ。

 ……遠ざかった。


 俺は壁に背中を預け、ズルズルと座り込んだ。

 心臓が早鐘を打っている。

 Fランク相当のグルと、不遇職の俺。

 個別の能力なら通用するが、集団戦になるとやはり厳しい。

 決定的な「火力」が足りないのだ。

 一撃で複数を薙ぎ払うような、広範囲攻撃が。


「悪かったな、グル。無茶させた」


 足元で荒い息をしているグルを撫でる。

 グルは「平気だ」と言うように俺の手を舐めたが、その舌は乾いていた。

 水弾の使いすぎで水分不足になっているのかもしれない。

 俺は水筒を取り出し、蓋に水を注いで飲ませた。


 一息ついたところで、異変に気づいた。

 この横穴、風が流れている。

 行き止まりの退避スペースだと思っていたが、奥に通路が続いているらしい。

 地図にはない道だ。

 隠し通路か、あるいは崩落で新しくできた道か。


 背後から、再びホブゴブリンの声が近づいてくるのが聞こえた。

 戻ってきたのか。鼻が利くやつがいるのかもしれない。

 戻れば鉢合わせだ。


「……進むしかないか」


 俺は立ち上がり、未踏の奥へと足を踏み出した。

 狭い通路は徐々に広くなり、やがて巨大な空間へと繋がっていた。

 

 そこに出た瞬間、俺は自分の判断ミスを呪った。

 ムッとする獣臭。

 焚き火の煙と、腐った肉の匂い。

 そして、暗がりに無数に光る、豚のような小さな瞳。


 そこは、オークの集落(コロニー)だった。


 広大な空洞に、骨や皮で作られた粗末なテントが立ち並んでいる。

 その数、十や二十ではない。

 中央には、一際巨大な体躯を持つボスらしき個体が鎮座し、人間の腕ほどの太さがある骨付き肉を齧っていた。


 オーク。

 中層の食物連鎖の頂点に近い魔物。

 一体でも脅威なのに、ここは奴らの本拠地だ。


 俺の侵入に、手近にいた見張りのオークが気づいた。

 ブヒッ、と鼻を鳴らし、棍棒を持ち上げる。

 その声が呼び水となり、集落全体がざわめき始めた。


 背後からはホブゴブリンの追っ手。

 前方にはオークの軍勢。

 最悪の袋小路だ。


「……冗談だろ」


 俺は短剣の柄を握りしめたが、手汗で滑りそうになる。

 勝てるわけがない。

 逃げる場所もない。

 俺の「戦略」も「知識」も、この圧倒的な物量の前では紙屑同然だ。


 だが、グルは違った。

 俺の足元で、怯えるどころか、低く唸り声を上げている。

 その視線は、オークたちが囲んでいる焚き火――そこで焼かれている巨大な肉に向けられていた。

 食欲?

 こんな状況で、こいつはまだ「食う」ことを考えているのか。


 その貪欲さに、俺の中の恐怖が一周回って呆れに変わり、そして冷たい覚悟へと変質した。

 そうだ。ここで諦めて食われるくらいなら、あいつらを食ってやるくらいの気概がなきゃ、こいつの相棒なんて務まらない。


 俺は革袋から、最後の切り札になりそうな「瓶」を探り当てた。

 まだ調理法も思いつかない未知の食材だが、この状況をひっくり返すには、これを使うしかない。


「グル、腹は減ってるか?」


 震える声で問いかける。

 グルは力強く「ギャウ!」と吠えた。


 上等だ。

 俺はこの包囲網を食い破るための、狂った晩餐会の準備を始めた。

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