第6話 跳ねる油と、黄金色の唐揚げ
泥に沈んだ巨体から立ち昇る生臭いにおいが、勝利の余韻よりも先に、俺の胃袋を強烈に刺激していた。
ジャイアントフロッグの死骸は、まだピクリとも動かない。
俺は一度深く息を吐き、革袋のサイドポケットに差していた解体用ナイフを抜いた。
手に馴染んだ柄の感触が、戦闘モードだった神経を、職人のそれへと切り替えていく。
さっきまでの恐怖対象は、いまやまな板の上の食材だ。
「よし、やるか」
まずは血抜きだ。
魔物の肉は死後硬直が始まる前に処理しないと、独特のえぐみが全身に回ってしまう。
俺はカエルの首元、動脈にあたる部分にナイフを滑り込ませた。
逆さに吊るすのが理想だが、この巨体では無理だ。水場の傾斜を利用して、効率よく血を流す。
グルが興味津々で鼻先を近づけてくるが、手で制した。
「待て。血生臭いのは嫌いだろ?」
グルは「きゅう」と鳴いて、少し離れた岩の上でお座りをした。
尻尾がメトロノームのように左右に揺れている。あいつの視線は俺の手元ではなく、その先にある「ご馳走」に釘付けだ。
俺は革袋から防水シートを広げ、解体作業に移った。
狙うは後ろ足の太もも。
筋肉が密集し、最も旨味が詰まっている部位だ。
分厚い皮に切れ込みを入れ、剥ぎ取る。
ズルリ、という音と共に現れたのは、透き通るような桜色の筋肉だった。
美しい。
市場で見かける鶏肉よりもキメが細かく、弾力がある。
適度な大きさに切り分けながら、俺は脳内でレシピを確定させた。
この上質な淡白さを活かしつつ、泥臭さを完全に消し去るには、やはりあれしかない。
唐揚げだ。
それも、スパイスを効かせた濃いめの味付けで。
俺は平らな岩場を選び、携帯コンロをセットした。
鍋に油を注ぎ、火にかける。
油の温度が上がるのを待つ間に、下味をつける作業だ。
ボウル代わりの深底の器に肉を入れ、革袋の奥から取り出した調味料の小瓶を並べる。
醤油、酒、すりおろしたニンニクと生姜。
これらは俺が「銀の牙」時代、遠征先でもまともな飯を食うために自腹で買い集めたものだ。兵站管理の余り物とも言うが、今は俺たちの命綱だ。
調味料を揉み込む。
包帯を巻いた指先が少し痛むが、肉にタレが染み込んでいく感触が心地いい。
ニンニクの食欲をそそる香りが、湿ったダンジョンの空気を塗り替えていく。
「グル、もう少しだ。涎を拭け」
振り返ると、グルが岩から乗り出し、口の端から透明な雫を垂らしていた。
目が怖い。捕食者の目だ。
油の表面にさざ波が立ち始めた。適温だ。
俺は片栗粉をまぶした肉を、一つずつ油の中へと滑らせた。
ジュワアアアッ!!
派手な音が洞窟内に響き渡る。
一気に立ち昇る香ばしい匂い。
肉の水分が弾け、油が踊る。
俺は菜箸で肉を泳がせた。
表面が徐々にきつね色に変わっていく。
衣はカリッと、中はジューシーに。
この瞬間のために、重い油瓶を背負ってきたと言っても過言ではない。
パチパチという音が、高い音に変わる。
揚がった合図だ。
俺は網の上に肉を引き上げた。
黄金色に輝く衣。余熱でさらに火が通り、香りが凝縮されていく。
「よし、完成だ」
皿に盛り付ける余裕はない。防水シートの上に揚げたての唐揚げを山積みにする。
熱気と共に、スパイスと脂の暴力的な匂いが漂った。
「食っていいぞ」
俺の言葉が終わるか終わらないかのうちに、グルが飛びついてきた。
熱々の塊に躊躇なくかぶりつく。
カリッ、サクッ。
いい音がした。
グルは「ハフハフ」と熱がりながらも、決して口から離さない。
咀嚼するたびに、肉汁が溢れ出しているのが分かる。
目を細め、喉を鳴らし、全身で「美味い」と表現している。
その姿を見ているだけで、俺の喉もゴクリと鳴った。
俺も一つ手に取る。
指先に伝わる熱と油の感触。
口に運ぶ。
カリッとした衣を歯が突き破ると、中からプリプリとした弾力のある肉が弾けた。
噛み締めると、熱い肉汁が口いっぱいに広がる。
鶏肉に似ているが、もっと味が濃い。
ニンニク醤油のパンチが効いた味付けに、カエルの野性味あふれる旨味が負けていない。
泥臭さなど微塵もない。ただ純粋に、美味い肉だ。
「……美味いな」
思わず声が出た。
ただのダンジョン飯だ。
でも、命懸けで戦って、自分で獲って、その場で作ったこの味は、王都の高級レストランでも食えない。
俺の「調理」という名のバフ魔法は、もしかしたら世界一なんじゃないか。
そんな馬鹿な自惚れさえ抱いてしまう。
グルは猛烈な勢いで山を崩していた。
自分の頭ほどもある肉塊を、あっという間に平らげていく。
俺も負けじと手を伸ばす。
二人(一人と一匹)だけの、静かで贅沢な宴。
ダンジョンの奥底で、油の匂いに包まれながら、俺たちはひたすらに食った。
最後の一個をグルが飲み込み、満足げに腹をさすった時だ。
異変は突然起きた。
ドサッ。
グルが糸が切れたように倒れ込んだ。
腹を出し、白目を剥いている。
「おい、グル!?」
俺は慌てて駆け寄り、抱き上げた。
熱い。
触れた手が火傷しそうなほどの高熱を発している。
食あたりか? 毒消しはしたはずだ。
だが、グルの呼吸は荒く、体内で何かが暴れまわっているかのように脈打っている。
――いや、違う。
これは病気じゃない。
グルの体表、あの濃紺の鱗に、ピシリと亀裂が走った。
まるで窮屈になった服が裂けるように。
裂け目から溢れ出すのは、眩いばかりの青白い光。
スライムを食べた時とは比べ物にならない光量だ。
脱皮だ。
それも、ただ古皮を脱ぐだけじゃない。
もっと根本的な、生物としての作り変えが行われている。
「くっ、熱い……!」
俺は熱さに耐えかねて手を離しそうになったが、歯を食いしばって抱きしめ続けた。
今離したら、こいつはどうなってしまうか分からない。
俺の魔力を持っていけ。
俺は無意識に、自身の魔力をグルへと流し込んでいた。テイマーとしてのパスが繋がり、俺の中の何かがドレインされていく感覚。
バキッ、バキバキッ。
骨が軋むような音がする。
グルの体が、光の中で一回り、いや二回りは大きく膨張しようとしていた。
俺は目を見開いたまま、その光景を焼き付ける。
ジャイアントフロッグの脚力。粘着質な舌。強靭な胃袋。
それらを取り込み、こいつは何になろうとしているんだ?
光が洞窟全体を白く染め上げる。
俺の腕の中で、相棒だった小さなリザードが消え、未知の輪郭が生まれようとしていた。
この脱皮が終わった時、目の前にいるのは「グル」なのか、それとも制御不能な「怪物」なのか。
不安と期待が入り混じる熱波の中で、俺はただ、その名を呼び続けた。
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