第5話 粘着する舌と、初めての命令

 湿った空気が振動するあの不気味な重低音が、俺の鼓膜だけでなく、胃の腑まで揺さぶってくるようだった。


 地下水脈が流れ込む広大な空洞。

 天井からは鍾乳石が牙のように垂れ下がり、足元はぬかるんだ泥と浅い水溜まりで覆われている。

 俺はブーツの底が泥に沈む不快感を無視して、岩陰に身を潜めた。

 隣にはグルがいる。

 普段なら獲物を見つけた途端に飛び出すこいつが、今は低く身を沈め、喉の奥で唸っている。

 本能が告げているのだろう。

 目の前の敵は、これまでの雑魚とは格が違うと。


 岩陰からそっと顔を出す。

 二十メートルほど先の水辺に、その巨体はあった。

 ジャイアントフロッグ。

 体高は大人の男の背丈ほどもあり、濡れた緑色の皮膚はゴムのように分厚い。

 眼球がギョロリと回転し、周囲を警戒している。

 かつてパーティの前衛が「斬っても刃が滑る」とぼやいていたのを思い出す。


「……グル、いいか」


 俺は小声で呼びかけ、相棒の背中を撫でた。

 冷やりとした鱗の下で、筋肉が硬く強張っているのが伝わってくる。

 ただのペットなら逃げ出す場面だ。だが、こいつの目には恐怖よりも食欲の色が濃い。


「真正面からは行くなよ。あいつの舌は速い」


 言い聞かせる俺の声は、少し震えていたかもしれない。

 テイマーとしての指示なんて、教科書で読んだだけの机上の空論だ。

 だが、グルは俺の方を一度だけ振り返り、「ギャオ」と短く応えた。

 合図だった。


 バシャッ!


 水飛沫を上げ、グルが飛び出した。

 速い。

 スライムを食って得た瞬発力か、泥足場などものともせず加速する。


 カエルが反応した。

 巨大な口がパカリと開き、ピンク色の影が射出される。

 舌だ。

 鞭のようにしなるそれが、グルの進行方向を正確に狙って飛んでくる。


 グルは直前で横に跳んだ。

 着弾した舌が岩を砕く。

 その隙に懐へ飛び込もうとするグル。

 だが、カエルの反応速度は俺の予測を超えていた。

 打ち出した舌を戻す動作そのものが、横薙ぎの攻撃となってグルを襲う。


「ギャッ!」


 避けきれず、弾き飛ばされる小さな体。

 グルは水面に叩きつけられ、水飛沫の中に姿を消した。


「グル!」


 俺は岩陰から飛び出そうとして、足を踏みとどまらせた。

 今俺が行っても、カエルの標的が増えるだけだ。非力な俺が捕まれば、グルを守るための人質にしかならない。

 俺の役目は剣を振ることじゃない。

 戦況を見て、勝てる道筋(レシピ)を作ることだ。


 水面からグルが顔を出した。

 ダメージはあるようだが、すぐに体勢を立て直している。あの「粘体皮膚」のおかげで、打撃はある程度軽減できているらしい。

 だが、攻め手がない。

 グルの牙や爪では、あの分厚いゴムのような皮膚を切り裂くにはリーチが足りない。

 決定打が必要だ。

 それも、カエルの防御を貫通し、一撃で動きを止めるような。


 俺は視線を巡らせた。

 カエルの特性。動くものに反応する視覚。粘着質の舌。皮膚呼吸を補助するために常に湿っている体表。

 そして弱点。

 腹部は柔らかいが、そこへ潜り込むには舌の射程をかいくぐる必要がある。

 なら、上か?

 いや、ジャンプ力も高い。


 ポケットの中を探る。

 指先が、ガラス瓶の冷たい感触に触れた。

 調理用の油、スパイス、そして――。


 俺は一つの瓶を握りしめた。

 賭けだ。だが、勝率はゼロじゃない。


「グル! もう一回だ!」


 俺は大声で叫びながら、岩陰から飛び出した。

 カエルの巨大な眼球が、瞬時に俺を捉える。

 標的が二つになったことで、敵の意識が一瞬分散する。


 俺は走りながら、握りしめた瓶をカエルの顔面めがけて全力で投擲した。

 狙いは目ではない。その少し下、鼻先だ。


 パリンッ!


 瓶が砕け、中身が飛び散る。

 入っていたのは、激辛の乾燥トウガラシ粉末だ。

 本来は肉の臭み消しや食欲増進に使うものだが、粘膜に直接触れればただでは済まない。


「ゲコォォッ!!?」


 カエルが苦悶の声を上げ、前足で顔を拭おうとする。

 皮膚呼吸をする両生類にとって、刺激物は劇薬だ。

 動きが止まる。

 その一瞬の隙を、相棒が見逃すはずがなかった。


「やれ、グル!!」


 俺の指示が飛ぶのと同時、水面を蹴る音が響いた。

 グルが跳ぶ。

 今度は正面ではない。

 カエルが顔を庇ってがら空きになった、喉元へ。


 カエルの皮膚は厚いが、呼吸で膨らむ喉袋だけは薄い。

 そこは音を出すための器官であり、急所だ。


 ガブッ!!


 嫌な音がした。

 グルの牙が食い込み、さらに食いちぎるように首を振る。

 鮮血が噴き出した。

 カエルがのたうち回り、舌をデタラメに振り回すが、グルは決して離れない。

 まるでスッポンのように噛み付き続け、傷口を広げていく。


 数秒の後。

 ドサリ、と巨大な質量が泥の中に沈んだ。

 痙攣していた四肢が力を失い、だらりと伸びる。


 静寂が戻った。

 残る音は、天井から落ちる水滴の音と、俺の荒い呼吸だけ。


「はぁ、はぁ……」


 俺は膝に手をつき、肩で息をした。

 心臓が早鐘を打っている。

 勝った。

 俺たちの力で、Fランクとはいえ中ボス級の魔物を倒したのだ。


 グルが血まみれの顔を上げ、俺の方を見た。

 その瞳は興奮で輝いており、「やったぞ」と自慢げに尻尾を振っている。

 俺は震える足で近づき、泥だらけの相棒を抱き上げた。

 重い。

 だが、その重さが頼もしい。


「……よくやった。お前、すごいな」


 素直な称賛が口をついて出た。

 俺の指示に合わせて動いたこと。俺が作った隙を無駄にしなかったこと。

 こいつはただの暴食魔獣じゃない。

 俺となら、もっと上に行ける。

 初めて感じた「相棒」としての確かな手応えが、恐怖を塗り替えていく。


 俺は横たわる巨大なカエルの死骸を見下ろした。

 艶やかな緑色の皮膚。太く発達した腿の肉。

 市場で買えば金貨数枚はする高級食材だ。

 さっきまでの脅威が、今や宝の山に見える。


 腹が鳴った。

 緊張が解けた途端、猛烈な空腹感が襲ってきたのだ。

 グルも同じらしい。

 俺の腕の中で、カエルの死骸をじっと見つめ、喉を鳴らしている。


「さて……どう料理してやろうか」


 俺は腰の解体ナイフを抜いた。

 使い慣れた柄の感触が、戦士のそれから料理人のそれへと意識を切り替えさせる。

 淡白なカエル肉には、やはり油が合う。

 唐揚げか、それとも香草焼きか。

 俺はこの勝利の味を、最高の一皿に変えるためのレシピを脳内で組み立て始めた。

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