第3話 香草香るスライムのゼリー寄せ
目の前で弾けた酸の飛沫が、石畳をジューッと焦がす音が、鼓膜にへばりついて離れない。
俺は反射的に地面を蹴り、飛び出した相棒の後を追っていた。
グルはスライムの真正面にいる。
酸の塊に顔を突っ込むなんて自殺行為だ。
「馬鹿、離れろ!」
俺の叫びと同時に、グルがスライムの青緑色の体表に噛み付いた。
ぐにゅり、と粘液が歪む音がする。
だが、次の瞬間だった。
「ギャッ……!」
グルは飛び退くようにして口を離すと、頭を激しく振った。
口から粘液を吐き出し、前足で舌を拭おうとしている。
酸で焼かれたか? いや、違う。
あの顔は、腐った卵を噛まされた時の子供の反応そのままだ。
――不味かったのか。
スライムが敵意を増幅させ、体を震わせる。
次の酸攻撃が来る。
俺は滑り込むようにグルの前に立ち塞がった。
「下がってろ!」
短剣を逆手に持ち替える。
このグリップの感触だけが、非力なテイマーである俺に残された唯一の牙だ。
スライムの中心、揺らめく液体の奥に核が見える。
俺は敵の動き出しに合わせて半歩踏み込み、切っ先を突き出した。
パリン。
手応えはガラス細工を割るよりも軽い。
核を貫かれたスライムは、瞬時に形を保てなくなり、ただの濁った水溜まりとなって崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ……」
息を整えながら周囲を警戒する。
他の敵はいない。
俺は短剣についた粘液を振るい落とし、鞘に納めた。
背後を振り返る。
グルはまだ舌を出して「ぺっ、ぺっ」とやっていたが、怪我はないようだ。
「だから言ったろ。なんでもかんでも口に入れるな」
俺はしゃがみ込み、グルの頭を軽く小突いた。
グルは不満げに鼻を鳴らすと、俺を無視して、崩れ落ちたスライムの残骸に近づいていく。
水溜まりのようになったスライムの死骸。
グルはその匂いを嗅ぎ、チラリと俺を見る。
また匂いを嗅ぎ、また俺を見る。
その瞳が訴えていた。
『素材はここにある。ママ、仕事しろ』と。
「……食いたいのか、これ」
グルは肯定するように「きゅう」と鳴く。
生では不味くて食えないが、この素材には興味があるらしい。
俺はため息をつきながら、背中の革袋を下ろした。
本来なら、スライムの核だけ回収して撤収するのがセオリーだ。ダンジョン内で悠長に時間を潰すなんて、命知らずのやることだ。
だが、この偏食家は市場の肉に見向きもしなかった。
ここで食わせなければ、俺たちはまた飢えたまま地上に戻ることになる。
「見張りは頼むぞ。俺が食われても知らんからな」
俺は革袋から愛用の道具を取り出し、並べ始めた。
小型の携帯コンロ、手鍋、水筒、そして小瓶に入れた数種類の香草とスパイス。
これらは俺が「銀の牙」時代、気難しい冒険者たちの胃袋を繋ぎ止めるために買い揃えた、俺の商売道具だ。
鍋をセットする手つきだけは、剣を振るよりも遥かに慣れている。
俺は腰のポーチから空き瓶を取り出し、スライムの残骸の中から、まだ透明度の高いゼリー状の部分だけを慎重に掬い取った。
スライムの可食部位は核周辺の純度の高い粘液層だ。
下処理さえ間違えなければ、高級なゼリー寄せのような食感になる――というのは、一部の物好きグルメの間で囁かれる噂だが。
掬ったゼリーを鍋に入れ、少量の水を加える。
魔石でコンロに火を点けると、青白い炎が鍋底を舐め始めた。
俺は小瓶の蓋を開けた。乾燥させたミントと、臭み消しのレモングラス。
指先で摘んでパラパラと鍋に落とす。
「酸味を飛ばして、香りで誤魔化すしかないな」
スプーンでゆっくりとかき混ぜる。
熱が通るにつれ、青臭い酸の匂いが消え、爽やかなハーブの香りが立ち上り始めた。
鍋の中のゼリーが溶け、再び固まり始める直前の、とろりとした状態になる。
俺は仕上げに、気休め程度の岩塩をひとつまみ振った。
調理というよりは実験だ。
だが、俺の意識はいつしか、最適な火加減と香りのバランスを取ることに集中していた。
不遇職だろうが追放者だろうが、鍋の前にいる時だけは、俺は「作る側」の人間でいられる。
「……よし、こんなもんだろ」
火を止め、鍋を地面に置く。
熱々のスライム・ハーブ煮込みの完成だ。
見た目は透明感のある綺麗な翡翠色のスープ。冷めればゼリー状に固まるだろうが、待っていられない。
グルが待ちきれない様子で飛びついてきた。
熱くないのかと心配する間もなく、顔を鍋に突っ込む。
ハフッ、ハフッ、ジュルリ。
猛烈な勢いで啜る音が響く。
さっきの不味そうな顔が嘘のように、喉を鳴らして食べている。
尻尾が左右に激しく振られ、石畳をパタパタと叩いていた。
「美味いか?」
聞いてみると、グルは顔を上げて、口の周りをゼリーでべとべとにしたまま、嬉しそうに目を細めた。
その無邪気な表情を見ていると、さっきまでの緊張が少しだけ緩むのを感じた。
俺の料理で、誰かが(魔物だが)喜ぶ。
久しく忘れていた感覚だ。
鍋の中身があっという間に空になった。
グルは名残惜しそうに鍋底を舐め回し、それから満足げにゲフッとげっぷをした。
その時だ。
カッ。
グルの体が、内側から発光したかのように淡く輝いた。
俺は驚いて身構える。
光はすぐに収まったが、グルの様子がどこか違う。
濃紺だった鱗の色が、ほんのわずかに――スライムのような青緑色の光沢を帯びていた。
それだけではない。肌の質感も、硬質なリザードのそれから、少し弾力のある艶やかなものに変わっているように見える。
「おい、グル。お前……」
俺は恐る恐る手を伸ばし、グルの背中に触れた。
ぷにゅり。
硬い鱗の下に、衝撃を吸収するような柔らかさがある。
まるで、さっき食べたスライムの特性そのままだ。
食べた物の性質を取り込む?
いや、そんな都合のいい能力を持つ魔物は聞いたことがない。
だが、俺の手の感触は嘘をつかない。
グルは俺の手を押し返すように背中を反らし、力が漲っていると言わんばかりに小さく咆哮した。
その声には、生まれた直後の頼りなさはもうなかった。
ただの食事じゃない。
こいつにとって「食う」ことは、俺たちが装備を新調するのと同じ意味を持つのかもしれない。
俺は空になった鍋を見つめた。
もし、もっと強い魔物を食わせたら?
もっと特殊な能力を持つ魔物を、俺が調理して、美味しく食わせたら?
想像した瞬間、背筋が震えた。
それは恐怖か、それとも武者震いか。
俺の手の中にあるこの小さな命が、とんでもない化け物に育つ予感が、確信めいた重さを持って胸に落ちてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます