第2話 拒絶された干し肉と、最弱ダンジョンの匂い
ズキズキと脈打つ指の痛みが、目覚まし時計の代わりに俺の意識を叩き起こした。
薄暗い天井を見上げる。
カビ臭い安宿の空気。そうだ、俺は昨日パーティを追い出され、そして妙な生き物を拾ったんだった。
重い体を起こし、右手を目の前にかざす。
人差し指に巻いた包帯は、一晩で赤黒く染まっていた。けっこう深くやられたらしい。
「きゅ……」
枕元で不満げな声がした。
視線を落とすと、濃紺の鱗を持つリザード――グルが、俺の腹の上で丸まっていた。
昨晩よりも、鱗の艶が増している気がする。俺の魔力を啜ったおかげか。
こいつは大きな瞳で俺を見上げ、ピンク色の舌をチロチロと出し入れした。
明らかに「飯」と要求している顔だ。
「わかってるよ。腹減ったんだろ」
俺はベッドの脇に投げ出していた革袋を探った。
中から取り出したのは、昨晩も拒否された干し肉だ。
だが、一晩経てば腹も減って妥協するかもしれない。テイマーの教本にも「空腹は最良の調味料」と書いてある。
俺は硬い肉片をちぎり、グルの鼻先に差し出した。
グルは興味深そうに鼻をひくつかせ、匂いを嗅ぐ。
そして次の瞬間。
ペシッ。
尻尾の一撃が、俺の手から干し肉を弾き飛ばした。
肉片は乾いた音を立てて床の隅へと転がっていく。
「……お前なぁ」
贅沢を言うな、と叱りつける気力も湧かなかった。
グルは「そんなゴミはいらない」と言わんばかりに顔を背け、再び俺の包帯を巻いた指に視線を固定している。
また俺の血を吸う気か。冗談じゃない。
「血は駄目だ。俺が死んだら、お前の飯係もいなくなるんだぞ」
言い聞かせると、通じたのか通じていないのか、グルは「きゅう」と短く鳴いて首を傾げた。
とにかく、何か食わせなければならない。
俺は財布を取り出し、中身をベッドの上にぶちまけた。
銀貨が三枚と、銅貨が十数枚。
これが全財産だ。次の仕事のアテもない現状で、ペットの食費に回せる余裕なんてほとんどない。
ため息をつきながら硬貨を拾い集める。
冷たい金属の感触が、現実の厳しさを指先に伝えてくる。
「買い物に行くぞ。安いクズ肉なら食うかもしれん」
俺はグルを革袋のサイドポケット――本来は水筒を入れる場所だ――に押し込み、部屋を出た。
***
朝の市場は、売り買いの声と食材の匂いで満ちていた。
普段なら活気を感じて少しは気分も浮上する場所だが、今の俺には騒音が頭に響くだけだ。
人混みを避けながら、精肉店の並ぶエリアへと向かう。
店先に吊るされた鶏や豚の枝肉。
血の匂いに反応するかと思ったが、ポケットの中のグルは大人しいままだった。
顔だけをひょっこりと出し、周囲をキョロキョロと見回しているだけだ。
「へい、安くしとくよ! ホーンラビットの腿肉、どうだい!」
威勢のいい店主が声をかけてきた。
俺は足を止め、台の上に置かれた肉を見る。
ホーンラビット。下級モンスターだが、味は悪くない。
試しに、少し近づいてみた。
グルに肉を見せる。
反応なし。
あくびまでしている。
「……あー、すまん。ちょっと冷やかしただけだ」
「なんだよ、シケてんなぁ」
店主の悪態を背に受けながら、俺はその場を離れた。
その後も数軒回ったが、結果は同じだった。
普通の動物の肉も、処理済みの魔物の肉も、こいつにとっては「石ころ」と同じらしい。
俺は路地裏の木箱に腰を下ろした。
ポケットからグルを引っ張り出し、膝の上に乗せる。
「お前、一体何を食うんだ?」
昨晩は俺の指に食いついた。つまり「生きた獲物」か「魔力を含んだ新鮮な血」が必要ということか?
だとしたら、市場で売っているような血抜きされた肉では意味がない。
生きたままの魔物を調達する?
そんな金は逆立ちしてもない。
グルが俺の腹に頭を擦り付けてくる。
腹の虫が鳴っていた。こいつの腹か、俺の腹か。
このままでは二人揃って野垂れ死にだ。
俺は視線を上げ、街の北側にそびえる巨大な石造りの塔――ダンジョンの入り口を見つめた。
金がないなら、現地調達するしかない。
かつてはパーティの荷物持ちとして潜っていた場所。
だが今は、俺一人と、この役立たずの幼体だけだ。
「……行くか」
膝の上のグルを撫でる。
冷やりとした鱗の感触が、迷いを少しだけ冷ましてくれた。
俺は立ち上がり、ダンジョンへと続く大通りに足を踏み出した。
***
王都北区、第7ダンジョン「深緑の地下空洞」。
初心者向けの浅い階層が続く、Fランク相当のダンジョンだ。
石造りのゲートをくぐると、受付の喧騒が俺を迎えた。
装備の点検をする冒険者たち。パーティメンバーを募集する声。
以前なら「銀の牙」のメンバーとして、顔パスで奥へ進んでいた場所だ。
俺はカウンターの端へ向かい、入洞手続きの用紙にペンを走らせた。
パーティ名の欄で、ペン先が止まる。
一瞬の躊躇いの後、俺はそこを空白のままにし、個人名の欄に「アレン」とだけ記した。
「ソロでの申請ですね。無理はなさいませんように」
受付嬢が事務的な笑顔で許可証を渡してくる。
その視線が、俺の軽装と、腰に下げただけの粗末な短剣に向けられた気がした。
テイマーの武器は鞭や指示棒が主だが、自衛用の短剣も扱える。とはいえ、前衛職には遠く及ばない。
地下への階段を降りる。
一段降りるごとに、空気がひんやりと湿り気を帯びていく。
カビと土、そして微かな獣臭。
ダンジョン特有の匂いだ。
ポケットの中のグルが、にわかに落ち着きをなくし始めた。
モゾモゾと動き回り、爪で革を引っ掻く音がする。
「おい、暴れるな。まだ入り口だぞ」
小声で嗜めるが、グルは興奮しているようだった。
地上では見せなかった反応だ。
やはり、こいつの本能はこっち側――魔物の領域にあるらしい。
地下1階層。
苔むした石壁に囲まれた通路が、薄暗い奥へと伸びている。
松明の魔法具を取り出し、掲げる。
炎の揺らめきが、壁に長い影を落とした。
俺は慎重に歩を進めた。
かつてはガイルや他のメンバーが先行し、俺は後ろからついていくだけで良かった。
だが今は、全方向を自分で警戒しなければならない。
背中の汗が冷えていく感覚。
足元の小石を蹴る音さえ、爆音のように耳に障る。
5分ほど歩いた頃だろうか。
通路の先、曲がり角の向こうから、ペタ、ペタ、という粘着質な音が聞こえてきた。
俺は足を止め、壁に背を預けて様子を窺う。
影が動いた。
半透明の青緑色の塊。
スライムだ。
ダンジョン内では最弱の部類。
核を潰せば終わりだし、動きも遅い。
だが、今の俺にとっては、迂闊に近づけば酸で火傷を負わされる脅威だ。
短剣を抜く。
手のひらが汗ばんでいた。
その時。
「ギャッ!」
短い鳴き声と共に、ポケットから濃紺の影が飛び出した。
グルだ。
「おいっ、待て!」
俺の声など耳に入らない様子で、グルは床を蹴り、一直線にスライムへと向かっていく。
速い。
昨日生まれたばかりの生物とは思えない脚力だ。
スライムが侵入者に気づき、体を波打たせて酸を飛ばそうとする。
だが、それより早く、グルがスライムの真正面に躍り出た。
あんな酸を浴びたら、鱗のない腹側はひとたまりもない。
俺は反射的に走り出した。
短剣を握りしめ、間に合うかどうかも分からない距離を詰める。
だが、俺の心配をよそに、グルは大きな口を限界まで開けていた。
目の前のゼリー状の物体が、敵ではなく、ご馳走に見えているかのように。
こいつ、まさかあの酸の塊をそのまま食うつもりか?
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