第2話

「父上は、叔母上を後妻に迎えるおつもりなのですか?」


 縁側で手紙を読んでいた息子の言葉に、楫取は飲みかけの茶を吹き出した。


「見苦しいことで……」


 顔を顰めながら手拭いを差し出してくる粂次郎くめじろうを、楫取はじろりと睨んだ。


「粂、滅多なことを申すものではない。文にも迷惑であろう」

「滅多なことではありませんよ。皆が噂しております。『県令殿は、亡き奥方の妹御を後妻に迎えられればよいのに』と」

「噂は所詮、噂に過ぎん」


 楫取は手拭いで着物を拭いながら、溜息を吐いた。粂次郎は、とっくに手紙に向き直っている。


 文は約束どおり、楫取家の家政を取り仕切ってくれるようになった。来客がある際は数日前から滞在し、細やかに世話を焼いてくれる。

 だからといって、常に寝食を共にしているわけではない。

 しかし、互いに長い付き合いであるせいか、あるいは寿亡き後の家政を託したせいもあってか――文はこれまで以上に、楫取家にとって密接な、欠かせぬ存在となっていた。


 家の鍵を渡した時は、能面のような顔ばかりしている義妹が、珍しく目を丸くしていた。

 だが、楫取は構わずそれを受け取ってくれるよう頼み込んだ。


 県令という立場上、家を空けることは少なくない。数日ならばともかく、数ヶ月に及ぶ不在もある。そうなれば屋敷の空気は籠もり、虫もわく。家の世話をしてくれる者がいればありがたい――そう説くと、文は一瞬目を伏せたが、すぐにいつもの仏頂面に戻って、重い鍵を受け取った。


 そして今も、文は楫取家にいる。

 粂次郎が訪ねてくると聞いていた彼女は、昼過ぎから丹精込めて夕餉の支度をしていた。漂ってくる鰹出汁の香りに、楫取は思わず目を細めた。


「父上が帰っていらした時――叔母上、嬉しそうなお顔をなさいましたよ」


 粂次郎は手紙を見下ろしたまま言った。


「俺は、叔母上を後妻に――という話、賛成です」

「馬鹿なことを言うな」

「馬鹿なことではありませんよ。俺だけじゃない。篤太郎兄上や、秀次郎ひでじろうだってそう申しております」


 はい、と粂次郎は手紙を突き出した。見覚えのある文字は、今名前の挙がった秀次郎からのものだ。

 手紙には、もし再婚するというのなら反対はしないこと、そして再婚しないというのなら、あまり文を群馬へ呼ばないでほしい、と綴られていた。

 彼女への恩義はあるし、今後の面倒を見る程度の蓄えはある、とも。


(生意気なことを言うようになったものだ)


 楫取が呆れていると、台所の方から足音が近づいてきた。


「夕餉が整いましたが、お持ちしてもよろしいでしょうか……?」


 文が恐る恐る、入り口から覗き込んでくる。楫取が頷くと、文は強張った肩の力を抜いた。

 文の足音が台所に戻っていくのを聞きながら、粂次郎が肩を竦める。


「叔母上は、父上や母上の前では童女のようなお顔をなさいますね」

「気持ちの上では、幼い頃のままなのであろう」


 楫取は粂次郎に手紙を突き返しながら言った。

 出会った時、文はまだ十歳だった。当時、二十歳をとうに過ぎていた楫取にとって、十歳の娘など扱いの分からぬ赤子のようなものであった。


(正直、文が嫁いだ時の衝撃たるや……)


 昔から引っ込み思案で、人の言葉に否と言えぬ性質の娘であった。特に、亡くなった次兄・松陰の押しには勝てなかったらしい。お使いを頼まれれば汗だくで本を十冊も担いで帰り、一晩寝ずに松下村塾の門下生たちの世話を焼く。


 極めつけは、柳井にある知人の寺まで、三日もかけて往復させられた時だ。

 流石にその時は「断ってよいのだ」と皆で嗜めたが、文は俯くばかりで、うんともすんとも言わなかった。結局、松陰に頼まれれば、文は毎度凝りもせずに従い、何日も家を空けていた。


「あの頃の、意思を持たぬ人形のような有様を思えば……まあ、幾分ましか」

「人形、ですか」

「? なんだ、その態度は」


 粂次郎は秀次郎からの手紙を懐に仕舞うと、意味深な笑みを浮かべて立ち去った。


(まるで、自分だけが文を理解しているとでも言いたげな……)


 そう考えて、楫取は「当たり前か」と独り言ちた。

 文と粂次郎は、単なる叔母と甥ではない。一時期、親子の縁を結んでいたのだ。


 文はかつて、松陰の愛弟子である久坂玄瑞の妻であった。

 だが、久坂は文をあまり気に入っていなかったという。愛想のない文を好みではないと公言し、一度は縁談を断ろうとしたほどだ。

 結局、兄弟子たちに叱咤されて祝言を挙げたものの、情の通わぬまま一ヶ月ほどで久坂は遊学へ旅立ち、その後、共に暮らす機会はほとんどなかった。


 当然、そんな夫婦の間に子が授かるはずもない。久坂は楫取の次男である粂次郎を養子にしたいと、文を通じて頼み込んできたのであった。


 そうした縁もあり、粂次郎はほとんど文の手によって育てられた。血の繋がり以上に、育ての親から受ける影響は大きい。粂次郎と文の間には、実の親である楫取や寿でさえ立ち入れぬ絆があった。


 そして――先ほど名前の挙がった秀次郎。彼は久坂の実子であるが、母は文ではない。京都で寵愛していた芸妓に産ませた子である。  文には何の報せもなかったため、実際に誰が秀次郎を産んだのか、今に至るまで明らかにはなっていない。

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2026年1月3日 17:00
2026年1月4日 17:00
2026年1月5日 17:00

花かんざし 水城 真以 @mizukichi1565

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