花かんざし

水城 真以

第1話

 ふわり、と甘い香りがした。  楫取素彦かとりもとひこは箪笥から手を離し、香りが漂ってきた方角を振り返る。


「……寿ひさ?」


 最愛の妻の名を呼びかけてから、すぐに「何を言っているんだ」と苦笑し、再び箪笥に向き直った。  丁寧に折り畳まれた水色の生地には、汚れどころか皺ひとつ寄っていない。


 まだ新婚であった頃――食べるものに困るほどではないが、贅を尽くした暮らしをさせてやることはできなかった。

 ようやく一着の着物を買い与えることができたのは、寿を妻にして二度目の秋が近づいた時のことだ。

「本の一、二冊でも買えばよろしいのに」

 そう憎まれ口を叩きつつも、湯治まだ十代半ばであった寿は、毎日その着物を慈しむように撫でていた。楫取が「せっかくだから着たところを見せてくれ」と頼んでも、「汚したら勿体ない」と言って、なかなか袖を通してはくれなかった。  落ち着いた柄ゆえ、大人になってからも大切な折には好んで着ていたことを思い出す。


「……寿」


 楫取はその着物を抱き寄せた。


「まだ、見足りないよ」


 苦労ばかりかけて、気の強い妻に甘え続けた。あまつさえ病に伏せった際も、公務に追われ、ろくに会いに帰ることさえできなかった。ひどい夫であった。

 なのに寿は、


「旦那様は公のために働いておられるのだから、妻の死などという私事で呼び戻すなど言語道断」


 と、知らせを出そうとした息子たちを厳しく叱り飛ばしたという。

 その話は、葬儀の折に寿の妹が教えてくれた。

 姉は立派な最期でございました、と。


「……立派な女でなくてよかったものを」


 最後に会いたいと言ってほしかった。弱いところを見せてほしかった。

 烈婦と称されるほどの気高さは彼女の美徳だが、長年連れ添った夫としては――愛しい者の最期に寄り添うことさえできぬほど、虚しいことはない。


 いつもそうだった。

 楫取は、大切な人の最期に間に合わない。


 ふいに、甘い匂いが近づいてきた。香油の類を好まなかった寿の香りと、よく似ている。

 顔を上げると、そこには不機嫌そうな顔をした女が立っていた。

 寿の妹、ふみである。


「すまない。情けない姿を見せた」


 目元を袖で拭おうとする楫取の前に、皺ひとつない真っ白な手拭いが差し出された。


「……どうぞ」


 楫取が受け取らずにいる間も、文は指先ひとつ動かさず差し出し続けている。

 仕方なく受け取ると、ようやくその腕が下ろされた。

 娘の頃から洒落っ気のない娘であったが、今日も幽霊のごとく白い麻の小袖に、黒い帯を締めているだけだ。   

 文はにこりともせず、硬い表情のまま淡々と告げた。


「兄から、楫取家のお手伝いをしてくるよう仰せつかりました」


 文は楫取の横を通り抜けると、迷いなく寿の遺品に手を伸ばした。


「荷物……捨てるのか」

「蔵がございましたね。一度そちらへ移し、整理させていただきます。それと、杉家わがやの方でもいくつか形見を分けていただきたいのですが」


 文の動作には一切の無駄がない。寿の持ち物を手際よく紙に包み、蔵へと運んでいく。

 生前、寿が「文はよく働く」と目を細めていたことを思い出す。


(確かに、働き者は間違いなかろうが……)


 寿が亡くなってから、楫取は新しい女中を置かなかった。

 一度は雇い入れた者もいたが、どうにも気が利かなかった。触れてほしくない遺品を無造作に捨てようとしたり、あまつさえ、主人が独り身になったと知るや否や、後妻や妾の座を狙おうとする者までいた。


(俺がおかしいのだろうな)


 楫取は自嘲する。

 公のために奉仕する立場にありながら、亡き妻の面影が軽んじられることに耐えられない。

 寿を超える存在など、この世にいないのだ。

 しかし、県令という公人である以上、家政を支える妻の存在は不可欠であった。特に客人をもてなす「奥」の力量が求められる。

 しかし、寿以外の女に「妻」という肩書きを与えるなど。想像するだけで背筋が凍りつく思いだった。



 文はそれから二、三日かけて、寿の遺品を整理し終えた。

 滞在中、彼女が口を開くのは事務的な相談のみ。楫取が気を利かせて声をかけても、その表情が緩むことはついになかった。


粂次郎くめじろうは、よくこの女と一緒に暮らせたものだ……)


 一時、文の養子となっていた次男に心の中で救いを求めたのは、一度や二度ではない。

 「寡黙で暗い娘」という印象はあったが、いざ二人きりになれば、これほどまでに息が詰まるものか。

 「萩に、帰ります」と告げられた時、楫取は文に悟られぬよう、こっそりと肩の力を抜いた。


久坂くさかでなくとも、これを妻にしたい男はおりますまい……)


 かつて「好みではない」と文を拒んだという亡き義弟・久坂玄瑞の気持ちが、今なら少しだけ理解できた。

 四日目の朝、文が汽車に乗るため家を発つ。見送りに立った楫取は、彼女が振り返ることもなく立ち去るだろうと思っていた。


 しかし、文はなかなか歩き出そうとしない。楫取の襟元を、じっと見つめている。


「どうした?」


 楫取が首を傾げると、文はゆっくりと瞬きをした。薄化粧の顔立ちに、意外なほど長い睫毛が揺れる。


「萩にいらしたら……いつでも杉家我が家に顔を出してくださいませ」


 風にそよぐ風鈴のような、涼やかな声であった。


「兄が申しておりました。義兄上さまは、ずっと杉家の婿である、と。これからも義弟として頼りにしているとお伝えせよ、と仰せつかっております」

「そうか……梅太郎うめたろう殿が」


 楫取は思わず笑みをこぼした。あの義兄らしい言葉だ。


「梅太郎殿によろしく伝えてくれ」


 文は会釈をすると、楫取に背を向けた。

 ふわり、と結んだ黒髪が猫の尻尾のように翻る。

 楫取は――無意識に、その白い袖を掴んでいた。


「義兄上さま……いかがなされましたか?」


 面を被ったように無表情だった文が、見慣れぬ困惑の表情を浮かべている。

 楫取ははっとして手を離した。気まずい沈黙が、二人の間に降りる。

 楫取は慌てて言葉を探し、なかば強引に話題を転換した。


「また、群馬こちらに来てもらえないだろうか」

「群馬に、でございますか……?」

「その……新しい女中を雇うべきなのは分かっている。だが、寿の遺品を他人に触れられるのは、どうにも忍びなくてな。あれはこだわりの強い女であったし」

「確かに……姉上は、そういうお方でございました」


 文も思い当たることがあったのだろう。

 一文字に結ばれた唇が、わずかに緩んだ。


「お前なら、寿の実の妹だ。俺にとっても昔なじみ。この家の女幹事おんなかんじとして、お前に任せたい」


 寿と暮らしたこの家を、見知らぬ女に汚されたくはない。

 しかし、文であれば。

 年の差もあり、男女の欲など湧くはずもない。互いに事情を知る者同士、それが一番「ちょうどいい」はずだった。


「……汽車に遅れますので、そろそろ」


 文は、楫取の手をふわりと振りほどいた。

 やはり迷惑であったか。楫取が戸惑っていると、文は自身の袖をなぞりながら言葉を継いだ。


「仔細は手紙にて、兄上とご相談ください。私は……義兄上さまのご都合に合わせ、いつでも参りますので」

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