第一章 学園の醜聞【A Scandal in Bohemia】(四)
夜の研究棟は、昼とはまるで違う静けさを纏っていた。
昼間は学生が行き交い、実験器具が鳴り、研究員たちの議論が絶えないこの場所も、夜になれば別世界のようだ。
廊下に響くのは、自分の靴音と、魔力導管のごく微かな脈動だけ。
魔法灯は最低限の照度に落とされ、石壁は冷たい影を長く伸ばしていた。
言語魔法学科のフロアはすでに封鎖され、重い扉には監視局の赤い印章が押されている。
魔法封鎖用の紋章は、触れなくてもわかるほど強固な魔力を帯びていた。
シャーロットは一瞬だけ息を止め、許可の符丁を扉の隙間に差し込んだ。
細く刻まれた符丁がかすかに震え、錠が小さく、乾いた音を立てる。
――解除完了。
灯りを落とし、月光だけを頼りに歩く。
余計な光は影を増やし、観測を乱す。
月光は嘘をつかない。影は最小限、輪郭は最大限に浮き上がる。
アドラーの研究室に入ると、かすかにインクと紙の香りが残っていた。
紙の山が整然と積み上げられ、規則正しく並べられたインク瓶が机の上に光を返している。
壁一面にはびっしりと、細いチョークで描かれた三角形の連続
――
言葉で世界を固定する魔法式。
その線は乱れもなく、彼女の几帳面さと研究熱心さをそのまま写していた。
机の中央には、透明の羽根――《ミラージュ・ペン》の収納箱が置かれていた。
月光を受けて、箱の内側に細かい反射が走る。
しかし中は、空。
――なぜ、これがここに?
昼には監視局が調査に入っていたはずだ。
このような重要物を回収しないはずがない。
むしろ、あえて「置かれた」ような気配すらあった。
「ないにゃ」
ワトソンの声が低く響いた。
薄い魔法膜をまとって研究室に入り、周囲の痕跡を観察していた。
「“持ち出し”の観測が取れただけ。焦らない」
シャーロットは床に膝をつき、指先で薄い埃の筋をなぞる。
指に触れる感触、舞い上がる埃の量、残された熱。
皮革靴の跡――歩幅は一定。成人女性。
アドラー本人の歩幅と一致する。
さらに小さな埃の乱れが、その後を追うように続いていた。
複数の足跡。監視局の職員だろう。
シャーロットはゆっくりと息を吸い、指先で空をなぞる。
『Observare(オブセルヴァーレ)』
観測する。
その言葉とともに、《円》が展開する。
柔らかな光が床から広がり、空間の“点”が連鎖的に揺れ始める。
これはシャーロットの固有魔法。
魔法の源である「点」に残された存在の履歴を、観測し、再構成する魔法。
点・線・角の上位概念として“時間と因果”をひとつの環に結ぶ。
観測者により、過去の像を観ることができる。
淡い光が床から立ち上がり、空間に円環の残像が浮かぶ。
光が重なり、やがて像を形づくる。
そこに、机にペンを置くアドラーの横顔が映った。
浮かび上がる簡易記録。
そして、ミラージュ・ペンの存在。
シャーロットの指が止まった。
「にゃ、シャル……いやなにおいがするにゃ」
ワトソンがわずかに肩をすくめた。
猫としての直感――危険な研究の残り香。
「分析は保留。事実だけ記録する」
シャーロットは淡々と言い、観測を続けようとした。
そのとき、光が揺れた。
観測円が乱される。
部屋の奥から、柔らかな声が響いた。
「なにか、観測できましたか、シャーロット」
赤銅色の髪、金の瞳。
アドラーが、月明かりの中に立っていた。
いつもの白衣ではなく、外套を羽織り、髪が揺れていた。
「なぜ、《ミラージュ・ペン》を?」
シャーロットの言葉は、抑揚のない冷たさを帯びていた。
感情ではなく、事実確認のための問い。
「記録は力よ。国家が独占するには――あまりに“人間的”すぎるの」
アドラーは、少し寂しげに微笑む。
「国家は秩序を担保するために管理している。それが制度」
「秩序が、いつも人を守るとは限らないわ」
「あなたは、それで、何をしたの?」
「私に来たのは研究の依頼じゃない。“奨学生の記録を整えろ”という命令よ。名前を消し、性質を変え、都合のいい“将来”に並べ替えるための。」
アドラーの声は震えていない。だが、言葉の端だけが、わずかに擦れていた。
嘘の発声ではない。――恐怖か、諦めか、その混合だ。
アドラーの指先が空をなぞる。
三角陣が立ち上がり、光が弾けた。
「Triangula Fixatio(トリアングラ・フィクサティオ)」
アドラーが唱える。
三角魔法のひとつ――固定の魔法式。
「止まれ」と言葉を刻み、相手の周囲の動きを縫いとめる魔法。
しかし、その魔法が発動するより前に、
シャーロットは、《円》を発動し、
光の輪が三角魔法を囲み、アドラーの魔法式に干渉する。
三角と円――構築と言語、観測と再現。
相反する理が、空間で軋み、光が互いに弾ける。
「やはり、きかないのね」
「ええ、私には」
ふたりの声が重なる。
どちらも、相手を完全には敵と見ていない声だった。
「ボヘミア卿の記憶でも改ざんしたかったですか?」
「そうね、それも“よかったかも”ね」
アドラーは微かに笑い、すぐに目を伏せる。
「“彼”は変わってしまった。最初は純粋な研究だったのよ」
「研究? 人体実験でしょ」
「そう言われても仕方がないわね。でもね――
一度、力を手にしたら、離せないの。あの人も」
アドラーは哀しげな笑みを浮かべた。
その瞳は、誰かを恨むというより、自分を責めている色だった。
「この世界は、閉じられているのよ」
「詩的な比喩は分析の邪魔」
「なら言い換えるわ。“魔法のない世界”――」
アドラーは続けた。
「そのためには、原因を知らなければならないの」
その瞬間、シャーロットは干渉波を感知した。
誰かが、観ている。
観測者が別に存在する。
シャーロットは《円》をさらに展開し、すべての干渉を遮断しながら、波形から情報を抽出する。
円が天井まで広がり、魔法式に触れた。
「見たことない魔法式。――きれいだわ」
シャーロットのつぶやきは、純粋な興味だった。
アドラーは、その言葉を聞いて、寂しそうに目を伏せる。
「あなたも、そっち側の人なのね」
アドラーは静かに空の収納箱に触れた。
「《ミラージュ・ペン》は?」
「ここに置いたのは“回収された事実”を作るため。……本物は――」
言いかけた声が、廊下の遠い軋みで途切れた。
「あなたに、預けるわ」
「存在しないものは受け取れない」
「そうね――夜風の下で話しましょう」
屋上。
夜風が強く、雲が薄く流れていた。
塔の外壁の魔力灯がはるか下で小さくまたたき、ロンドンの魔法街の光が霧の底で揺れている。
アドラーは欄干に寄りかかり、風に乱れる髪を押さえながら言った。
「あなたの観測は正確。でも、人の心までは見ることは、できないわ」
「観測できないものを、私は信じない」
「――“世界”を観て」
アドラーの右手が空を指す。
空気が澄み、突然、視界が無数の文字で満たされた。
点が線になり、線が角になる。
角がゆっくりと曲がり、また点へと戻っていく。
光の雨が降り注ぎ、それぞれが過去の記録と未来の可能性を示している。
「にゃ……星みたいだにゃ」
ワトソンが小さく呟いた。
「それは記録。けれど、そこに宿る想いこそが真実よ」
シャーロットは、上空にある魔法式を一瞬で記憶した。
「あなたがそれを観測したとき――それはあなたのものになるの」
アドラーは透明の羽根ペンを取り出す。
光の中で、ペンはかすかに震えていた。
「――託すわ。私が選ばなかった道を、あなたが観測して」
風が吹き、アドラーの外套が揺れた。
「さようなら、シャーロット」
柔らかな笑みを残し、アドラーは塔の階段へと消えた。
その後ろ姿は、決意と諦念が混じった静かな影だった。
シャーロットの瞳に、かすかな熱が宿った。
それは感情というより、理解への痛み。
「追わなくていいのにゃ」
「ええ、私が依頼されたのは、”所在調査”だけよ」
朝。
塔の部屋に光が差し込む。
机の上には、淡く光る透明の羽根がある。
――《ミラージュ・ペン》。
シャーロットはペンを握る。
冷たいはずの羽根は、体温を吸うように温かい。
白紙を開き、静かに円を描いた。
――記録は真実を歪める。
けれど、観測された真実は、確かにここにある。
朝の光が塔の円窓を照らした。
新しい頁が、静かに風にめくられる。
次の更新予定
シャーロット(Charlotte)シャーロット・ホームズの魔法辞典 サクラのはま @Charlot
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