第一章 学園の醜聞【A Scandal in Bohemia】(三)


 ハドソンとの話を終えたあと、シャーロットはそのまま塔を降り、研究棟へと向かった。

 

 朝の講義が終わった時間帯で、石畳の回廊には学生たちの足音と、魔導器具を抱えた助手たちの声が混じり合っている。外の中庭には、春の光が斜めに差し込み、木々の葉を透かして、地面に揺れる影を落としていた。塔と塔をつなぐ渡り廊下には、魔力導管の淡い光が通っており、その光が床の石の継ぎ目にそって細い線を描いている。

 

 研究棟に近づくにつれ、空気の温度と匂いが変わる。

 薬品、インク、魔力炉の微かな熱。

 

 普段なら聞こえるはずの実験器具の音――金属の擦れる音や、試薬瓶の蓋を開ける小さな破裂音――が、今日は妙に少ない。

 

 アドラー准教授の研究室がある階に上がると、廊下の雰囲気はさらに変わっていた。

 

 扉の前には監視局の印章を掲げた札が下がり、簡易封鎖用の結界が張られている。薄い光の膜が扉の縁をなぞり、近づく者を牽制するように揺れていた。

 

 見慣れた研究室の扉が、今はよそよそしく口を閉ざしている。

 その前に、助手のハティ・ドーランの姿があった。


「シャーロット」

 ハティの声には、不安と困惑が混じっていた。

 彼女の亜麻色の髪はいつも通りまとめられているが、指先は落ち着きなく袖口をいじっている。

 その表情と仕草を一瞥して、シャーロットは――彼女は何も知らされていないのだと察した。


「どうなっているの? アドラー准教授は連絡が取れないし、いきなり監視局が調査に入るなんて……。

 しばらくは出入り禁止らしいのよ。あなたには連絡、あった?」

 ハティは、封鎖札と扉とを交互に見ながら早口に続けた。

 

 研究室の中からは物音ひとつ聞こえない。

 いつもなら、この時間は誰かしらが資料を運び出したり、片づけていたりするはずなのに。


「いえ、私にもありません」

 シャーロットは淡々と答えた。


「そう。ダグラス・ロス教授にも連絡がないって」

 

 ダグラス・ロス教授は、アドラー准教授の上司だ。

 研究科全体の責任者であり、学園との連絡窓口でもある。

 その彼にさえ正式な通達がないということは、事態がどれほど異例で、どれほど急に動かされたかを物語っていた。

 

 誰も事情を知らないまま、彼女だけが消える――。

 その構図は、あまりにも不自然で、あまりにも意図的だ。

 

 シャーロットは、考える。

 

 監視局の職員が出入りしている今、この場でできることは少ない。

 封鎖結界の上に走る魔力の揺らぎを観察し、内部で大がかりな捜索が行われているらしいと読み取る程度だ。

 

 ハティの不安げな視線から、一度だけ目をそらし、廊下の窓の外に目をやった。石枠の向こうには、午後に傾きかけた光が、研究棟の影を長く伸ばしている。魔力導管に沿って、青白い光がかすかに脈打っていた。

 

 シャーロットは小さく息をついた。

 

 監視局が引き上げ、形式上の封鎖だけが残った頃合に来たほうがいい。


「大丈夫よ」

 ハティにだけ短く告げ、シャーロットは研究棟を離れた。

 

 遠くからの視線に気づき、彼女は足取りを変える。

 

 レストレードだ。

 

 人目のない場所まで移動してから、二人は向き合った。

 確認された事項は、主に三つ。


 ――昨日届いた手紙の真意。

 ――現時点で判明している事実関係。

 ――そして、本件に対する監視局の公式な立場。

 

 レストレードは監査官として言葉を慎重に選び、事実のみを提示する。

 シャーロットは、必要最小限の質問だけを挟んだ。

 感情を排した、すり合わせのための時間だった。

 

 ひと通りの説明が終わったところで、シャーロットは本題を切り出す。

 今夜、アドラーの研究室に立ち入る必要があること。

 それが非公式であっても、監視局の黙認――いや、許可が不可欠であること。

 短い沈黙ののち、レストレードは書類を取り出し、署名を入れた。

 

 「調査補助」の名目で発行された、限定的な立ち入り許可書。

 

 シャーロットはそれを受け取り、静かに一礼する。

 監視局は、夜には完全に引き上げる。

 そう、レストレードは言っていた。

 

 夜までは、まだ時間がある。

 人の目もある以上、動きすぎる理由はない。

 シャーロットは目立たぬよう、いったん講義に顔を出すことにした。


「出席さえしていれば単位がもらえる」と評判の、内容の薄い一般教養科目だ。

 普段なら、彼女がもっとも避ける類の講義である。

 

 講義室は古い石造りで、天井は高く、木製の長椅子が段々に並んでいる。窓の外には午後の日差しが斜めに差し込み、埃の粒を金色に照らしていた。魔法灯はまだ点けられておらず、自然光と石壁の冷たさが、妙な眠気を誘う。学生たちのざわめきが、低い波のように部屋いっぱいに広がっている。教科書を机に叩きつける音、羽根ペンを準備する音、友人同士の内緒話。

 

 シャーロットは、そのざわめきから適度に距離のある空席を選び、静かに腰を下ろした。

 視線だけで教室を一巡する。

 黒板の上に描かれた簡単な魔法図、壁際の時計、窓辺で居眠りしかけている男子学生。

 いつもと変わらない光景だった。

 

 アドラー准教授――彼女は言語魔法学の専門家だった。

 講義のたびに語られる「言葉の力」や「観察と言語の境界」の話は、他の教授にはない緊張感と鋭さがあり、シャーロットにとっても数少ない「聞く価値のある授業」の一つだった。

 

 『魔法は、観測によって生まれる。』

 

 その前提を、「言葉」という枠で再定義する試み。

 アイリーンの講義は、教科書には載っていない“危うさ”と“未来”の両方を孕んでいた。

 

 その講義が、しばらく休講になる。

 胸の奥に、ぽっかりと空白が生まれる。

 それは感傷というより、興味の対象をひとつ奪われたことへの苛立ちに近かった。


「どうしたの、シャル。怖い顔して」


 クラスメートのヴァイオレット・ハンターが声をかけてきた。高い席から軽やかに降りてきて、当たり前のように隣の椅子に腰を下ろす。この学院でシャーロットと気軽に話す数少ない友人の一人だ。

 

大人びた容姿の少女で、柔らかな金髪は肩のあたりでゆるく揺れている。笑顔は周囲を柔らかく照らし、その場の空気を自然に和らげる。

 

 だが、そのまっすぐな視線の奥には、意外なほど鋭い観察眼が潜んでいた。

 その視線を正面から浴びて、シャーロットは一瞬だけ、まばたきをした。


「普通よ」


「そう」

 あまりにもそっけない返事にも、ヴァイオレットは動じない。

 むしろ、「はいはい、そういうことにしておく」とでも言いたげな笑みを浮かべる。


「今日のアドラー准教授の講義、休講なんだって」


「そうみたいね」

 シャーロットの答えは短いが、その背後には別の情報が積み上がりつつある。

 研究室の封鎖、監視局の調査、ハドソンの言葉、ボヘミア卿。

 それらが頭の中で組み合わされていく。


「みんな、残念がっているわ。人気あるのに」

 

 アイリーンの講義は、難解だが刺激的だった。

 退屈な授業では居眠りする学生たちも、彼女のときだけは、最後まで目を覚ましていたくらいだ。

 シャーロットはアドラーの姿を思い浮かべた。

 

――人を惹きつける声と、意志の強い瞳。

 

 黒板の前に立つ後ろ姿、チョークを持つ指先、板書の合間にふいに見せる、楽しそうな微笑み。


 「シャルのお気に入りの先生だもんね」

 ヴァイオレットが軽く笑った。

 

 その何気ない一言に、シャーロットは視線を逸らす。

 彼女の鋭い勘と観察眼には、いつも少しだけ驚かされる。


「そうね。授業は面白いわ」

 シャーロットは、わずかに照れ隠しのように言葉を返した。

 

 ほどなくして講師が教室に入ってくると、ざわめきがすっと引いた。

 シャーロットは筆を取り、黒板に書かれる退屈な定義や年号を淡々と写し取りながら――

 

 ふと、昨日のアイリーンとの会話を思い出していた。

 彼女は、何かを言いかけていた。

 研究のあと、資料を片づけながら見せた、言い淀み。


 そして、「また明日、時間ある?」と、ごく自然な口調で告げた、その最後の一言。

 その「何か」が、いまも耳の奥に残っている気がした。

 

 黒板を走るチョークの音の裏側で、アイリーンの声だけが、鮮明に蘇る。

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