第一章 学園の醜聞 【A Scandal in Bohemia】(二)
翌朝、ハドソン学院寮長からの緊急の呼び出しがあった。
早朝の鐘が鳴りはじめたばかりで、学生寮の廊下にはまだ眠気を引きずった魔力灯の光がぽつりぽつりと揺れている。
夜の青が薄まり、塔の上層をかすめる白い霧が朝日を拒むように漂っていた。
シャーロットは足早に寮長室へ向かう。
昨夜まとめた観測メモを手に、深い思考の渦の中に沈んだまま。
呼び出しは突然だったが、シャーロットにとっては調査を進めるうえで好都合だった。
――寮長室に呼ばれるということは、学院側がすでに何かしらの情報を掴んだという可能性がある。
情報は、早ければ早いほどよい。
寮長室の扉をノックし、入室すると、柔らかな香りが迎えた。
紅茶と蝋燭、そしてほんのわずかな薔薇の香油。
部屋は落ち着いた暖色の光に照らされ、書棚には学院の公式文書や古い寄付記録が並んでいる。
窓辺に吊るされた魔法ランプが、カーテンに淡い揺らぎを投げていた。
学院寮長、ハドソン。
栗色の髪をきれいに結い上げた姿は、いつもと変わらず整っている。
その微笑は優しいが、観察眼に満ちた人間特有の静かな緊張が、そこにはあった。
「来てくれてありがとう、シャーロット。座ってちょうだい」
シャーロットは深く一礼し、椅子に腰を下ろした。
ハドソンは、静かにティーポットを傾けた。
紅茶が注がれる音が、緊張した空気をやわらかく切り分ける。
薄い琥珀色の液体がカップへ満ち、灯に透けて美しい反射を作る。
やがて、寮長は封筒から小さな写しを取り出した。
「では、私から一つ確認があります。――ボヘミア卿から連絡がありました」
机上に置かれた写しには、透明な羽根を模したペンの図が描かれていた。
「
……それを、言語魔法学科のアイリーン・アドラー准教授が持ち去った。
そして、彼女は今、連絡が取れません」
その名を聞いた瞬間、シャーロットの目がわずかに見開かれた。
視線が鋭く結ばれ、脳裏にいくつもの出来事が一度に立ち上がる。
(アイリーンが? 昨日も一緒に研究室にいたのに)
アイリーン・アドラー准教授。
学院で数少ない“言語魔法の専門家”であり、シャーロットが尊敬し、時折助手として協力する研究者。
論理的だが情熱もあり、魔法言語の微細な変化に心から興味を示す人物。
シャーロットは思わず前のめりになった。
「どういうことですか?」
「ええ、あなたとアドラー准教授は仲が良かったわね」
ハドソンの声音は柔らかい。
だが、その奥にあるのは“情報提供者としての期待と警戒”だ。
寮長という立場上、個人の感情よりも学院の安定が優先される。
探るような静けさが、その言葉の響きに混じっていた。
「私を呼んだのは、そのためですか?」
「そうね。でも、アドラー准教授とかかわりのある人には全員話を聞いています」
その公平さは、シャーロットも理解している。
だからこそ、まっすぐに寮長を見つめ返した。
その無言の視線は、“わかっています”という同意そのものだ。
「ボヘミア卿とアドラー准教授は、どんな関係ですか?」
「出資者です。アドラー准教授の研究に資金を提供していました」
なるほど、とシャーロットは紅茶に視線を落とした。
香りが鼻先をくすぐり、思考の速度が自然と落ち着く。
「彼は学内の複数の研究に出資しています。この学院でも、多くの奨学金を出しているのですよ」
ハドソンは紅茶を一口含み、淡い湯気を越えてシャーロットの顔を見た。
その瞳は、優しさと厳しさを兼ね備えている。
学院運営を担う人間の、それが自然な表情だった。
シャーロットは無言で頷き、指先でカップの取手をなぞった。
その指先は落ち着いているように見えるが、瞳の奥には推論が高速回転し始めている気配があった。
「ボヘミア卿は学院理事であり、魔法省の主要協力者です。
――軽んじてはいけませんよ、シャーロット」
「軽んじてはいません。観察中です」
その即答に、ハドソンは小さく目を細めた。
「そういう言い回しは、軽んじているときに使うのよ」
だが、反論はしない。
どちらにせよ、事実だからだ。
わずかに笑みを浮かべたハドソンは、すぐに表情を引き締めた。
「まず、“持ち去った”というのは依頼側の主観です。観察の結果が出てから、用語を確定します」
シャーロットは言う。
紅茶の香りがふっと濃くなる。
寮長が言葉を続ける。
「
省印がなければ持ち運びはできない――はずでした」
「……それを、理事であるボヘミア卿が私的に使用していた?」
「研究名目で“貸与”されたのは事実です。ボヘミア卿から、アドラー准教授へと。
ただし、その研究内容が問題でした。“人の記録を再構築する”
――つまり、観測を超えて“改変”する研究です」
シャーロットは息を飲んだ。
《観測》を超える“改変”。
それは魔法理論における禁忌の一つであり、魔法省でも最も厳しく制限されている領域。
「でも、アイリーン――いえ、アドラー准教授の研究は言語魔法です。
実験など、彼女がするはずがありません」
声が少しだけ強くなる。
シャーロットには確信があった。
アイリーンの研究は、言語体系、古代魔法語、他国の魔導言語との比較。
人に危害を加えるたぐいのものからは、最も遠い。
(それに、もし実験が必要なら、私を使えばいいのに……)
心の奥で、ひそやかな疑問が広がっていく。
ハドソンは静かに頷きつつ、紙束をめくった。
「では、その研究でアドラー准教授は何を“観測”していたのですか?」
「第四研究棟で行われていた実験。
――それは、観測という名の“書き換え”を行っていた可能性があります」
寮長は書類を見せる。
表には、容姿、精神傾向、言語反応、認知特性など、学生の個人情報が並んでいた。
――そして、目が止まる欄。
《指導要否:要介入》
《支援継続判定:条件付き》
《保護者連絡:要》
シャーロットは目を細めた。
文字は丁寧で、言葉は中立を装っている。
――けれど、意味するところはひとつだ。「従うかどうか」を測っている。
「この書類は、アドラー准教授の研究室にありました。これは、奨学生たちのデータです。ボヘミア卿の奨学金を受けている子たち。 彼の“後援”なしに学院に通えない子たちも多いわ」
シャーロットの指先が止まった。
言葉の残酷さが、紙の上で温度を持つ。
「学院は理想だけでは回りません」
その一言には、学院運営の現実が凝縮されていた。
理想だけでは成り立たない学院。
権力と支援と、交換条件。
「この欄を誰が書いたのか、まだ確定していません。
ただ一つ確かなのは、昨夜からアドラー准教授と連絡が取れないということ」
シャーロットは短く頷いた。
「私にできることは?」
ハドソンは微笑を消し、真っ直ぐに言った。
「勝手に学院から外へ出ないこと。
そして――あなたが動くなら、目立たないこと」
シャーロットの瞳がわずかに揺れた。
紅茶の香りが、静まり返った部屋の空気に重く滞る。
――アイリーンは、何をしようとしていたのか。
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