シャーロット(Charlotte)シャーロット・ホームズの魔法辞典

サクラのはま

第一章 学園の醜聞 【A Scandal in Bohemia】(一)

 

 夜は、学院塔の高みに静かに降りてくる。

 シャーロットは机上の観測記録を片づけ終え、銀のインク壺の蓋を閉じた。


――これで、今日の“興味”は終わり。そう決めたばかりだった。


 中庭の噴水は水流を止め、代わりに石造りの縁に沿って淡い魔力灯が小さな灯火を揺らしている。塔の外壁には街へ魔力を送る導管が細い線となって走り、青白い光が霧の中で脈打っていた。

 風が高窓をかすめるたび、本棚の古い魔導書の頁が、ひとりでにふっとめくれる。  紙とインクと、わずかな薬品の匂いが冷えた夜気に溶けた。


 机の端には箱が三つ、几帳面に並んでいる。

『依頼』

『興味』

『いずれ』


 窓辺で藍色の猫が尻尾をゆらし、床をすべるように近づいてきた。前足の先に、封蝋の押された封筒を押しやる。

「にゃ……シャル、また面倒の匂いがするにゃ」

 封筒は床を擦って机の脚にぶつかり、鈍い音を立てた。封蝋の赤だけが、灯りを吸って不自然に沈んで見える。

 

 机の向こう側で、少女は淡い青のネクタイを指先で整え、面倒くさそうに視線だけを落とす。

「……さっき片づけたところなのに」

 そう、ぼやきつつも、彼女は椅子の背にもたれたまま腕を伸ばし、封筒をつまみ上げた。

 

 ショートボブの髪は月光を受けて銀糸のように光り、少し寝癖の残る毛先が肩の上で跳ねている。灰青の瞳が文面をすべるときだけ、わずかに焦点が鋭くなった。

 肌は白磁のように滑らかで、表情には熱の影が少ない。

 制服の襟元からのぞく白いシャツと、整った指先の規則的な動きだけが、彼女の呼吸と生の気配を感じさせていた。


「魔法省監視局監査官レストレード……ボヘミア卿からの依頼。

――“記録の返還”?」


 淡々と読み上げながらも、シャーロットは封蝋の色と刻印を一瞥した。

 封蝋は深紅、刻まれた紋章のまわりに、ごく薄い魔力の揺らぎ。蝋の縁には、まだ消えきらない温度差が残っている。

 

 短く息を吐く。

 興味を示したときだけ、彼女の瞳はわずかに光を増す。

 名はシャーロット・ホームズ。ロンドン魔導学院二年。


 膨大な観測記録と試験成績のせいで、教師たちには「期待の問題児」と呼ばれ、同級生たちには感情を見せないことで、“塔の幽霊”と囁かれている少女だ。本人は、ただ面倒を避けているだけなのだが、いつの間にかそう呼ばれるようになっていた。

 人に説明して否定するほどの情熱もないので、放置している。

 周囲が話しかけてこないぶん、ほかに意識を集中できる――それは、彼女にとって悪くないことだった。


「“記録を取り戻せ”。抽象的ね」

 シャーロットはそう呟くと、躊躇なく手紙をそのまま『いずれ』の箱に放り込んだ。紙が軽い音を立ててほかの封筒と一緒くたになる。


「やらないのにゃ?」

 ワトソンが首を傾げる。猫の瞳に、室内の灯りと魔力線が小さく映り込む。


「やるわよ、あとで、」

 シャーロットは答えながら、すでに次の本を手元へ引き寄せていた。

 分厚い魔導理論書のしおりを抜き、何事もなかったかのように頁を開く。

 ワトソンはその横顔を見上げ、尻尾をゆらした。

 

――ほんとうに、黙っていれば可愛いのに。


「しょうがないわね」

 

 小さくため息をついて、ワトソンの尾がふわりと揺れた。

 その軌跡に沿って、微細な光の粒がぱらぱらと零れ落ちる。

 空気の温度が一瞬、ほんのわずかに下がった。床に落ちた猫の影が、まるで液体のようにゆらぎ、魔法陣がそこに重なる。

 符号の列が影の縁から立ち上がり、猫の輪郭をなぞるように回転した。

 瞬きのあいだに、毛並みは霧へとほどける。

 藍色の毛が光の筋となってほどけ、その中心に、細い腕と輪郭が形を取っていく。

 

 霧が晴れたとき、薄衣をまとった一人の女性がそこに立っていた。

 白衣と魔導医師の紋章を胸元に下げた人の姿――ワトソンだ。

 人型になっても、瞳の色と、どこか猫のようにしなやかな身振りだけは変わらない。

「まったく、シャルはいつもこうにゃ……いいえ、こうなのね」


 基本的に、興味がないことにはシャーロットは動かない。

 だが今回は、監視局と貴族――どちらも、放置すれば、あとで“もっと面倒なやつ”が直接この部屋までやってくる類の案件だ。

 

 レストレード監査官。

 

 シャーロットの旧知で、時に迷惑を、いや、手助けをしてくれる人物。

 レストレードには、シャーロットへの借りがある。

 そして、シャーロットにもある。

 持ちつ持たれつの関係にある。

 彼から手紙が直接来ることは少なくない。

 

 だが、貴族案件となると、話は少し違ってくる。

 貴族院と監視局、学院――どこから情報が漏れても困るような案件では、表向きの手順よりも「個人的な伝手」が優先される。

 

 ワトソンはため息まじりに言った。

「……内容だけ、読んでおきましょう。レストレードには貸しがあるんでしょう? 放っておいたら、今度は本人がここに来るわよ」

 

 シャーロットは本から目を離さず、肩だけをすくめた。

「……読むくらいはいいかもね。あとで廊下がうるさくなるわね」

 

 箱の中で眠っていた封筒を、ワトソンが指先で取る。

 ワトソンが指先で封を開き、魔法紙を広げた。

 そこには整然とした筆跡が並んでいる。きっちりと揃った文頭、揺れの少ない横線。癖のない、官僚らしい字だ。


『依頼内容:記録魔法具ミラージュ・ペンの所在調査。

 対象はボヘミア卿邸より持ち出された可能性あり。

 学内関係者の関与が疑われるため、学院内部での調査を依頼する。

 ――魔法省監視局監査官 レストレード』


「いつも通り、官僚的な文章ね。句点まで几帳面」

 ワトソンが耳をぴくりと動かす。

 

 シャーロットは、ようやく本を閉じた。


「つまり、ボヘミア卿のものが、学院の誰かに盗まれたってことね?」


「おそらくね。でも“盗まれた”と書いてない。――“所在調査”」

 

 シャーロットは紙面から視線を離し、封筒を持ち上げた。

 封蝋の光沢を指先でわずかに擦る。


「たぶん、局内で何か隠している」

 シャーロットの声が低く落ちる。


 盗難と書けない事情と、貴族の体面と、学院を巻き込みたい思惑――

 そういったものが、文言のわずかな差ににじむ。


 ミラージュ・ペン。――記録を歪める魔法具

 

 ワトソンが息を飲む気配を見ながら、シャーロットは静かに目を細めた。


「“歪める”、か」

 

 ミラージュ・ペン――名前だけなら、学院図書塔の奥にある禁書目録で見たことがある。

 人の記憶である“観測結果”そのものを、上書きし、改ざんし、別の現実をなぞらせる。

 過去の一件では、それを用いた貴族同士の争いがあったと聞く。


「そんなものを、よく貴族の邸に置いていたにゃ……」


「おそらく、“置いていた”ことすら、記録から消されている可能性があるわね」

 

 シャーロットは、封筒と手紙を一度机上に戻した。

 さっきまで「あとで」と切り捨てていた瞳が、今はまるで違う光を帯びている。

 灰青の奥、細い線が”ぴし”、と何かに接続していくような感覚。

 

 彼女の周囲の空気が、ごく僅かに張り詰めた。

 

 シャーロットが、世界を見つめ始めたとき、この部屋の“点”と“線”の配置は、わずかに変わる。

 机の縁、窓の反射、本棚の影、床に落ちた紙片。

 それら一つ一つが、彼女の視界における“証拠”としての位置を与えられていく。


「“記録を歪める魔法具”を、監視局は“所在調査”と言い。貴族は“返還”を要求している。そして、学院の誰かが、何らかの形でそれに触れた――」

 

 彼女は指先で机を軽く叩いた。一定のリズムで、三度。


「……あとの情報は、レストレードから直接聞くしかないわね」

 シャーロットはゆっくりと口角を上げた。

 その表情は、喜怒哀楽というよりも、「退屈が少しだけ薄まった」ときの顔に近い。


「“記録を歪める”なんて、観測魔法の基礎理論への挑戦じゃない。……それを、学内で、しかも、私が知らないまま、やっていたなんて、面白くないわ」

 ワトソンは、その横顔を見て小さく笑う。


「結局、一番の動機は“興味”なのね」


「ええ」

 

 シャーロットは銀のインク壺に手を伸ばし、机の片隅に新しいメモ用紙を一枚引き寄せた。

 そこにさらさらと、いくつかの単語が並べられていく。

『ボヘミア卿/ミラージュ・ペン/監視局の改竄/学院内関与者』

 そして、その紙片の上に、小さく円を描き、点と線でそれらを結んだ。

 

 塔の外では、遠く魔法省の時計塔が静かに時を告げていた。

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