第10話 「帰還」

ギルドへの帰り道、

“勇者の集い”の誰一人として口を開かなかった。


足音だけがやけに大きく聞こえる。

血の匂いはもうしないのに、鼻の奥に残っている気がした。


ギルドに入ると、いつもの喧騒があった。

笑っている冒険者、報酬に一喜一憂する声。

それらは、まるで別の世界の出来事のようだった。


受付嬢が顔を上げる。


「お帰りなさい。クエストの報告を——」


シグルは何も言わず、採集した花をカウンターに置いた。

血にまみれていない、ただの花束。

それが逆に、先ほどの惨状を否定しているみたいで胸が痛んだ。


受付嬢は一瞬だけ首を傾げたが、すぐに事務的な表情に戻る。


「……確認しました。

採集クエスト、達成です。こちらが報酬になります」


銀貨が、乾いた音を立てて置かれる。


シグルはそれを受け取り、軽く頭を下げただけだった。

感謝の言葉も、達成感もない。


そのまま、誰とも目を合わせずにギルドを出た。



宿に戻ると、シグルは服も脱がずに布団に潜り込んだ。

身体は動いていたが、心はとっくに限界を超えていた。


目を閉じた瞬間、夢を見る。


リュミエルが、後ずさりしている。

怯えた顔で、こちらを見る。


「……来ないで」


その一言が、胸に突き刺さる。


近づこうとする。

腕を伸ばす。

だが、身体が思うように動かない。


次の瞬間、

自分の身体が砕ける感覚。


頭が潰れる。

視界が赤に染まる。

何度も、何度も、同じところからやり直される。


——殺される。

——また、殺される。


意味も理由もない。

ただ、終わらない。


シグルは、そこで目を覚ました。


荒い呼吸。

汗で濡れた布団。

心臓が、まだ戦場にいるみたいに暴れている。


朝だった。


窓から差し込む光は穏やかで、

昨日の出来事など存在しなかったかのようだった。


それが、何より最悪だった。


シグルは布団の中で、じっと天井を見つめたまま動かなかった。


コンコン、と扉を叩く音がした。


シグルは布団から身を起こし、少し間を置いてから扉を開ける。

そこに立っていたのは島田だった。


顔色が悪い。

昨日よりも、さらに。


「ドウシタ?」


覚えたての日本語を、慎重に並べる。


島田は一瞬だけ視線を逸らし、それから絞り出すように言った。


「……日本に帰りたい」


その言葉を聞いた瞬間、

シグルの胸の奥で、何かが静かに落ちた。


怒りでも悲しみでもない。

ただ、失望だった。


返事はしなかった。

否定もしなかった。


シグルは黙って身支度を始める。

武器を確認し、最低限の装備だけを整える。


「……イコ」


短くそう言って、宿を出た。



森へ向かう道。

あの洞窟——迷宮へと続く道。


以前来たときは、常に気配があった。

魔獣、怪魔、何かがこちらを伺っている感覚。


だが今日は、

不気味なほどに何もない。


バルガが徹底的に狩り尽くしたのだろう。

草の揺れも、殺気も、音すらない。


シグルは警戒を解かないまま進む。

島田は、その隣を黙って歩いていた。


なぜか、この景色が——

昔のものに見えた。



この道、

どこか知っている気がした。


木の匂い。

土の湿り気。

人のいない静けさ。


——山。


小学生の頃を、思い出す。


島田はいじめられていた。

理由なんて、もう覚えていない。


最初は、よくあるやつだった。

無視されて、からかわれて、物を隠される。


でも、途中で壊れた。


友人と、些細なことで喧嘩した。

それだけだった。


次の日、その友人の兄が現れた。

高校生だった。


「弟に何した?」


そう言われて、

島田は何も言えなかった。


放課後、

高校生三人に連れていかれた。


——山奥。


逃げ場はなかった。


殴られた。

蹴られた。

何が起きてるのか、途中からわからなくなった。


最後に、

誰かが笑いながら言った。


「根性、入れとくか」


焼けたタバコが、

島田の手のひらに押し付けられた。


音も、匂いも、

今でも忘れられない。



両親は必死だった。

学校に掛け合って、警察にも相談して。


それでも、

「証拠がない」で終わった。


兄がいる。

それだけで、相手は調子に乗った。


学校でも、

いじめは続いた。


帰り道、

田んぼの水をかけられた。


周りをぐるぐる回られながら、

笑われた。


蹴り倒された。


誰も助けなかった。


島田の心は、

そこで完全に壊れた。



引きこもりになった。

高校生になっても、外に出なかった。


ゲームして、

飯食って、

寝て。


何も変わらなかった。


……そして今。


異世界。

危険で、理不尽で、

死がすぐ隣にある世界。


それでも、

なぜか——


この森の静けさが、

あの山と重なって見えた。


迷宮に足を踏み入れた瞬間、

シグルは違和感を覚えた。


——静かすぎる。


前回来た時。

そうだ、バルガがいた。


罠を見つけるたびに、

壊して、叩き潰して、踏み抜いて。

慎重さなんて欠片もなく、

「危ないものは消せばいい」と言わんばかりに。


その光景を思い出して、

自然と島田と出会った時のことまで思い出していた。


怯えて、

何も分からず、

それでも必死についてきていた人間。


——あの時は、まだ。


迷宮の最奥。

あの個室。


扉を開けた瞬間、

魔法陣が視界に入る。


そこで、

シグルは気づいた。


「……リュミエル」


連れてきていない。


一瞬、戻ろうかと考えた。

だが、島田はもうここにいる。


——自分でも、できるか。


シグルは魔法陣に手をかざした。


吸われる感覚。

体の奥から、何かが引き剥がされていく。


冥府無限廻。

死ぬたびに、

溜まり続けていた魔力。


それが一気に流れ込む。


魔法陣が、光った。


……起動した。


シグルは、少し驚いた顔でそれを見下ろし、

それから島田を振り返る。


「イツデモ……」


いつでも、帰れる。


そう言ったつもりだった。


だが、

島田は動かない。


一歩も。


立ったまま、

魔法陣を見つめている。


シグルには、理解できなかった。


帰りたいと言った。

安全な世界に戻りたいと言った。


なのに、

なぜ、行かない。


「……ナンデ」


小さく、問いかける。


「ナンデ……イカナイ?」



島田視点


昨日の光景が、

脳裏から離れなかった。


シグルが、

何度も殺されていた。


頭が砕けて、

肉が潰れて、

それでも立ち上がって。


グルーシュが向けてきた殺意。

あれは、演技じゃない。


確実に、

俺を殺すつもりだった。


この世界は、

子供にすら慈悲がない。


逃げ遅れたら、

死ぬ。


守られなければ、

生き残れない。


——でも。


アックス・マンティスの時も。

アイアン・ホッパーの時も。

グルーシュの時も。


俺は、

何一つできなかった。


剣も振れない。

魔術も使えない。

叫ぶことすらできなかった。


ずっと、

守られてばかりだった。


それも、

年下の子供に。


日本に帰れば、安全だ。

死ぬことはない。


……でも。


詰んだセーブデータだ。


戻ったところで、

何も変えられない。


どうせまた、

部屋に籠もる。


ゲームして、

飯食って、

寝るだけの生活に戻る。


それを、

俺はもう知っている。


魔法陣は、光っている。


帰れる。

今すぐ。


なのに、

足が動かなかった。


魔法陣の光が、

静かに脈打っていた。


それを見て、

シグルの中で何かが切れた。


「……ナンデ」


低い声。


さっきまでの戸惑いは消えていた。


「ナンデ……ニゲル?」


単語だけ。

文法もぐちゃぐちゃ。

それでも、はっきりと怒りが滲んでいた。


シグルは一歩、踏み出す。


「オレ……マモッタ」


拳が震えている。


「シマダ……マモッタ」

「シンダ」

「ナンドモ……シンダ」


息が荒くなる。


「ソレデモ……タスケタ」

「マホウジン……ウゴカス」

「チカラ……ツカッタ」


少ない魔力。

昨日、死にまくって削れた体で。

それでも、帰れるように準備した。


なのに。


「ナンデ……ヒトリデ……ニゲル?」


島田は、言葉に詰まった。


視線を逸らし、

しばらく黙ったあと、

ぽつりと口を開く。


「……じゃあさ」


顔を上げる。


「一緒に行こうぜ」


シグルが瞬きをする。


「日本なら……安全だ」

「誰も死なない」

「殴られないし、殺されない」


必死だった。


「ここよりマシだ」

「少なくとも……生きてられる」


だが、

シグルは首を横に振った。


ゆっくり。

だが、はっきりと。


「ダメ」


短く。


「リュミエルヲ……マモラナケレバ……ダメ」


胸を押さえる。


「ヤクソク……シタ」

「オレ……ニゲナイ」


その言葉が、

島田の中で何かを叩き壊した。


脳が、フル回転する。


——俺に何ができる?

——目標は?

——役割は?


……何も、ない。


島田は、突然壁を殴った。


ゴン、という鈍い音。


蹴る。

もう一度殴る。

自分の頭を叩く。


「クソ……ッ」


そして、崩れ落ちる。


床に膝をつき、

拳で床を叩き続ける。


「何もねぇよ!!」


声が割れる。


「俺には何もねぇ!!」

「力もねぇ!!」

「才能もねぇ!!」

「何もできねぇ!!」


涙が落ちる。


「全部……全部、守られてただけだろ!!」

「年下のガキに!!」


嗚咽混じりに叫ぶ。


「俺は……俺は……!」


その姿を、

シグルは黙って見ていた。


そして、

ゆっくり口を開く。


「……ソウナラ」


少し間を置いて。


「ハジメカラ……ソンナコト……イウ……ダメ」


責めるでもなく。

慰めるでもなく。


ただ、事実のように。


島田は、

その言葉を噛み締める。


日本に戻っても、

何も成せない。


詰み状態のセーブデータ。

ロードしても、

同じ場所に戻るだけ。


でも——


この世界なら。


怖い。

死ぬかもしれない。

今日だって、昨日だって、地獄だった。


それでも。


ほんの少しでも。

0.1でも。


ステータスを、

上げられるかもしれない。


——最後の幻想。


それに、

縋りつくしかなかった。


迷宮を、逆向きに歩いた。


来るときとは違い、

警戒も、緊張も、ほとんどなかった。


魔獣の気配はない。

罠も、落石も、何もない。


足音だけが、

静かな迷宮に響く。


しばらく、

誰も喋らなかった。


島田は前を歩くシグルの背中を見ていた。

小さい。

昨日、あれほど壊され、殺され、それでも立っていたとは思えないほど。


……なのに。


「……オレ」


不意に、シグルが口を開いた。


拙い日本語。

それでも、さっきまでの怒気はない。


「オレ……ナンデ……ボウケンシャ……ナッタカ」


島田は、黙って耳を傾けた。


「オレ……ノロイ……アル」


少し、間が空く。


「イモータル・ラウンド」

「ニホンゴ……デ……冥府無限廻」


聞き慣れない言葉だった。


「シヌ……デモ」

「マタ……モドル」


迷宮の壁を、指でなぞりながら。


「ドンナ……キズ……デモ」

「ナオル」

「クビ……トンデモ」


淡々としている。

まるで、他人事のように。


「ソノ……ダイショウ」

「カラダ……チイサク……ナッタ」


一瞬、立ち止まる。


「ナナサイ……マデ」


島田は、息を呑んだ。


「モト……モドラン」


振り返らずに、

シグルは続ける。


「コレ……ジュウショ」

「ノロイ」


足音が、再び動き出す。


「オヤジ……イル」


「黎明コルタス」


その名前を口にする時だけ、

ほんの少し、声が揺れた。


「ツヨイ……ヒト」

「ユウシャ……チカイ」


迷宮の出口が、

微かに見えてきている。


「ソノ……マエ……オレ」

「キメタ」


ぎゅっと、拳を握る音。


「リュミエルヲ……マモル」

「ドンナ……コト……アッテモ」


「ニゲナイ」

「ステナイ」


「ソレ……チカッタ」


歩みは止まらない。


「ダカラ……オレ」

「ボウケンシャ……ナッタ」


最後に、

ほんの一言だけ付け足す。


「……コレ……オレノ……イキル……イミ」


迷宮を抜ける。


外の光が、二人を包んだ。


島田は、

しばらく何も言えなかった。


逃げ道はいくらでもあったはずだ。

それでも、シグルは逃げなかった。


島田は、

その事実が胸に引っかかったまま、迷宮を歩いていた。


——なんでだ。

——どうして、そこまでして。


答えは聞いた。

呪い、不死身、7歳の体、父との誓い。


それでもなお、

「逃げなかった」という一点が、頭から離れない。


迷宮の壁を照らす松明の光が揺れるたび、

島田の視界は、少しずつ暗転していった。


そして——

思い出す。


最後に、学校から下校した日のことを。


その日は、

いつもいるはずのイジメっ子たちが、いなかった。


胸をなで下ろした、その直後。


前を歩く背中が、一つ。


梶山シュウタ。


クラスメイト。

ヤンチャで、声がでかくて、

正直、頭はあまり良くない。


でも、

妙に堂々としてるやつだった。


島田は距離を取った。

殴られるかもしれない。

何か言われるかもしれない。


足が、無意識に強張る。


——また、始まる。


そう思った瞬間。


シュウタが、振り返らずに口を開いた。


「おい、島田」


心臓が跳ねる。


「俺さ」

「人を守るために、親父から武術を学んでんだわ」


意味が、すぐには理解できなかった。


「それが、今の俺の生きる意味」


足を止めて、

シュウタは初めて振り返った。


真っ直ぐな目。


「なぁ、お前はさ」


一拍。


「何の為に、生きてんだ?」


喉が、詰まった。


言葉が出ない。


——変なこと言ったらどうしよう。

——気に障ったら、殴られるかもしれない。


怖くて、

ただ黙って、視線を逸らした。


シュウタは、

それ以上何も言わなかった。


その翌日から、

島田は学校に行かなくなった。


答えを、

持たないまま。


——そして、今。


迷宮の出口が、はっきりと見える。


島田は、歩きながら、口を開いた。


「……シグル」


小さな背中が、少しだけ振り向く。


「俺さ」


一度、息を吸う。


「昔、聞かれたことがある」


「何の為に生きてるんだって」


足を止めずに、続ける。


「答えられなかった」

「怖くて」

「逃げた」


光が、二人を包む。


「でも、今は」


島田は、はっきりと言った。


「その答えを返すために」

「俺は、ここに居る」


一瞬、沈黙。


それから。


「……ソウカ……」


シグルは、

安心したように、ゆっくり頷いた。


その背中は——

なぜか、あの日のシュウタと重なって見えた。


小さいのに、

前を向いて歩く背中。


逃げない背中。


「……カエロ」


シグルは、短くそう言った。


二人は、

何も言わずに宿への道を歩き出した。


迷宮の奥に、

もう、過去は残っていなかった。


布団の上で、

リュミエルは天井を見つめていた。


昨日の光景が、

何度も、何度も頭の中で再生される。


——血。

——折れた身体。

——それでも立ち上がる、小さな背中。


何より忘れられないのは、

あの時のシグルの顔だった。


はっきりと分かるほど、

明らかにショックを受けていた表情。


守られているのは、

いつも自分の方なのに。


「……ごめんなさい」


誰にも聞こえない声で、そう呟く。


それでも——

正直に言えば、あれは辛すぎた。


目を逸らしたくなるほどの死に方。

何度も繰り返される終わり。


自分が耐えられなかった現実を、

シグルは真正面から受け止めていた。


布団から起き上がり、

リュミエルはシグルの部屋へ向かった。


……けれど。


扉の前に立っても、

中から気配はしない。


「……いない……?」


胸が、少しだけざわつく。


心配になりながらも、

リュミエルは行き先を変えた。


——治療中の、バルガのもとへ。


部屋に入ると、

ベッドの上で安静にさせられているバルガが目に入った。


包帯だらけの身体。

それでも、表情は穏やかだった。


「……あの」


リュミエルは、ぽつぽつと言葉をこぼす。


「シグルに……嫌われてしまったでしょうか」

「私、守ってもらってばかりで……」

「どうやって謝ればいいのか、分からなくて……」


不安が、次々と溢れ出る。


バルガは少しだけ目を細めて、

ゆっくりと答えた。


「……シグルはな」


「覚悟を持っている」


それだけだった。


でも、

それ以上はいらなかった。


リュミエルは静かに頷き、

部屋を後にした。


宿の外に出ると、

空気がひんやりとしている。


少し先——

道の向こうから、二つの影が見えた。


小さな影と、

その隣を歩くもう一人。


「……!」


シグルと、島田だった。


近づくにつれて、

リュミエルは気づく。


シグルの目が——

昨日と、違う。


虚ろじゃない。

壊れてもいない。


むしろ——

ここ最近で、一番生き生きしている。


何かを決めた人の目。


それを見た瞬間、

胸に溜まっていた不安が、すっとほどけた。


「……よかった……」


小さく息を吐いて、

リュミエルは微笑んだ。


まだ、全部は分からない。

怖さが消えたわけでもない。


それでも。


——シグルは、ちゃんと前を向いている。


その事実だけで、

今は十分だった。

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