第9話 「目覚め」
最近の“勇者の集い”は、戦闘続きだった。
魔獣討伐、護衛、殲滅――どれも神経を削る任務ばかりで、全員どこか疲労が抜けきっていない。
「今日はさすがに、安全なの行こう」
そう決めて受けたのが、里のすぐ外で花を採集するだけのD級クエストだった。
森を抜け、少し開けた草原に咲く色とりどりの花。
危険な魔獣の気配もなく、風も穏やかで、拍子抜けするほど平和だった。
「見て、シグル! これ、前に話してたやつじゃない?」
リュミエルが弾んだ声で花を指差す。
「ホントだ。乾かせば薬になるやつだな」
二人は顔を見合わせて、どこか楽しそうに笑った。
戦場では見せない、年相応の表情だった。
島田はその様子を、少し離れた場所からぼんやりと眺めていた。
特に混ざるでもなく、かといって目を逸らすでもない。ただ、眺めているだけ。
(……平和だな)
そう思った瞬間、逆に落ち着かなくなる。
この世界で、“何も起きない時間”がどれだけ脆いかを、島田はもう知っていた。
一方、バルガはというと――
地面にしゃがみ込み、黙々と採集を続けていた。
「……これは根ごとだな。使える」
夢中になりすぎて、周囲への注意が一瞬だけ薄れていた。
その時だった。
島田の視界の端に、違和感が引っかかった。
草原の向こう。
人影――いや、人にしては体格が異様に大きい。
(……あれ?)
ゆっくりと、だが確実にこちらへ近づいてくる。
装備も、雰囲気も、人間に似ている。だが、どこか決定的に違う。
「……シグル」
島田は低い声で呼びかけた。
「向こう、人っぽいのが来てる。……なんか、嫌な感じする」
その一言で、空気が変わった。
バルガが顔を上げた瞬間、表情が凍りつく。
「……ッ」
次の瞬間、その存在は――視界から消えた。
「来るぞッ!!」
バルガが叫ぶより早く、
空を裂くような衝撃音とともに、影が弾丸のように飛来する。
狙いは、一番前にいたシグル。
理解するより先に、シグルは悟った。
――避けられない。
(……死ぬ)
だが。
轟音とともに、二つの拳がぶつかり合った。
シグルの目の前で、バルガが立ちはだかっていた。
衝撃で地面が抉れ、土煙が舞い上がる。
間一髪だった。
花が揺れ、
さっきまでの平和な光景は、音を立てて崩れ去った。
衝撃が収まるより早く、シグルは体を翻した。
反射的に、リュミエルの前に立つ。
「下がれ!」
短く叫び、腰からシックス・ゴーストを抜く。
刃が空気を切る音だけが、やけに大きく響いた。
島田は、その一連の動きをただ見ていることしかできなかった。
なぜ急に襲われたのか。
なぜ、あんな化け物みたいな動きができるのか。
理解が、まるで追いつかない。
しかも今日は――
(……戦闘する気、なかったよな)
安全な採集クエスト。
バルガがいるからと、武器は宿に置いてきた。
島田は丸腰。
リュミエルも杖がないため、本気の魔術は使えない。
完全に、想定外だった。
相手は少し距離を取り、ゆっくりとこちらを見下ろした。
その目は、敵意よりも――見定めるような冷たさを宿している。
「バルガ……」
低く、重たい声。
「こんなところに居たのか。探したぞ」
一瞬の間。
「――裏切り者」
その言葉に、空気が凍りついた。
「……知り合いなのか?」
シグルは刃を構えたまま、バルガに問いかける。
バルガは歯を食いしばり、明らかに嫌悪を隠そうともしなかった。
「……ああ」
短く吐き捨てる。
「グルーシュ。俺と同じ……闘血種だ」
その言葉に、シグルの目が見開かれる。
「同じ……種族?」
視線をグルーシュに向ける。
「だったら、なんで急に襲ってきた?
“裏切り者”って、どういう意味だ」
問いはまっすぐだった。
だが、グルーシュは少しだけ眉をひそめ、面倒くさそうに肩を鳴らした。
「……説明するの、嫌いなんだがな」
ため息混じりに言葉を続ける。
「お前は知らなくていい、人間。
バルガは――本来、ここに居るべきじゃない」
視線が、冷たくバルガを射抜く。
「闘血種は、強さで序列が決まる。
村を守り、他をねじ伏せるのが役目だ」
一歩、前に出る。
「それを捨てて、他種族と馴れ合い、
“差別を減らしたい”? ……笑わせる」
拳が、ぎしりと鳴る。
「だから俺たちは決めた。
――お前は裏切り者だ」
その瞬間、島田はようやく理解し始めた。
これは偶然でも、事故でもない。
思想の違いだけで起きた、理不尽な殺意だということを。
最初は、拮抗していた。
拳と拳がぶつかるたび、空気が破裂する。
踏み込み一つで地面が抉れ、衝撃波が草原を薙ぎ払った。
――速い。
島田の目には、二人の姿が断続的にしか映らない。
消えて、現れて、次の瞬間にはもう別の場所でぶつかっている。
(……同じだ)
そう思った。
バルガも、グルーシュも。
どちらも“最強”と呼ばれる側の存在だ。
だが。
時間が経つにつれ、僅かな差が浮き彫りになっていく。
グルーシュの拳が、徐々に重くなっていくのに対し、
バルガの動きは、ほんのわずかずつ遅れていった。
避けきれない。
受け止めきれない。
ドッ
拳が腹部にめり込み、鈍い音が響く。
バルガの体が宙を舞い、地面を転がった。
「……っ」
立ち上がる。
だが、その動きに余裕がない。
島田は、そこで気づいてしまった。
バルガが――
歯を食いしばっている。
今まで、どんな戦闘でも。
どれだけ数に囲まれても。
苦しそうな顔など、一度も見せなかった男が。
(……ヤバい)
喉が鳴る。
助けに行きたい。
何かしなきゃいけない。
でも――
次の瞬間、二人の拳が交錯した。
音が、消えた。
遅れて、衝撃が来る。
島田の体が、数歩後ろに吹き飛ばされるほどの圧。
鼓膜が悲鳴を上げ、視界が揺れる。
(……無理だ)
悟ってしまった。
この戦闘に割って入れば、
自分は一瞬で肉塊になる。
シグルも、同じことを理解していた。
シックス・ゴーストを握る手が、微かに震えている。
援護できない。
近づけない。
速すぎる。
重すぎる。
強すぎる。
グルーシュの拳が、再びバルガの顔面を捉えた。
鈍い衝撃音。
血が、空中に散る。
バルガの体が、地面に膝をつく。
それでも立ち上がろうとするその背中が――
今までより、ずっと小さく見えた。
“最強”が、
押されている。
その現実が、
シグルの胸を、静かに、確実に、締め付けていった。
――そこで、グルーシュの動きが変わった。
無駄が、消えた。
さっきまでの荒っぽさが嘘のように、
一歩一歩が“最短距離”を踏み抜いてくる。
「……」
笑っている。
口角だけが、僅かに吊り上がっていた。
拳が振るわれる。
バルガは受け止めた――はずだった。
次の瞬間、腕が弾かれる。
衝撃が、骨を通り越して内側に叩き込まれた。
「ぐっ……!」
反撃しようと踏み込んだ、その刹那。
グルーシュの姿が消える。
――背後。
バギッ
肋骨に、拳が叩き込まれた。
空気が抜ける音。
バルガの体が、くの字に折れる。
そこからは、一方的だった。
避けようとした瞬間にはもう殴られている。
反撃の構えを取れば、その前に叩き潰される。
拳。
肘。
膝。
音速を超えた打撃が、休みなく打ち込まれる。
島田は、もう数えるのをやめていた。
何発殴られたかなんて、意味がない。
バルガは立っている。
――ただ、それだけだ。
顔は血で濡れ、
呼吸は荒く、
それでも倒れない。
「……まだ立つか」
グルーシュが、少しだけ感心したように呟く。
次の瞬間。
地面が、沈んだ。
グルーシュの踏み込み。
音を置き去りにした一撃。
腹部に、拳が突き刺さる。
衝撃が遅れて追いつき、
爆発のような音が響いた。
バルガの目が見開かれる。
空気が、内臓ごと吐き出される。
声にならない音が漏れ、
その巨体が――浮いた。
そして。
地面に、叩きつけられた。
土煙が上がり、
衝撃が周囲に広がる。
動かない。
あれほど強かった男が、
あれほど頼もしかった背中が。
腹を押さえたまま、
完全に沈黙した。
静寂。
島田の耳鳴りだけが、やけに大きく聞こえる。
グルーシュは、倒れたバルガを見下ろしながら、
興味を失ったように視線を外した。
そして――
グルーシュの視線が、ゆっくりと流れた。
倒れたバルガでもない。
剣を構えるリュミエルでもない。
――島田。
年齢。
体格。
戦意の薄さ。
狩るなら、そこだった。
島田は、その視線を理解する前に、
影が自分の前に落ちたことだけを認識した。
「――っ」
シグルだった。
小さな体が、迷いなく前に出る。
島田を背に庇い、シックス・ゴーストを握り締める。
思考は一瞬だった。
――攻撃される前に、攻撃しなきゃ殺される。
シグルは踏み込んだ。
地面を蹴り、
全身の力を刃に乗せて、
一直線に――斬りかかる。
ゴンッ
グルーシュは、避けなかった。
防御も、回避も、反撃の構えすらない。
ただ、そこに立っていた。
刃が、胴体に当たる。
確かな手応え。
確かに、当たった。
――なのに。
音が、違った。
金属でも、骨でもない。
鈍く、重く、刃が拒絶される感触。
シックス・ゴーストが、止まった。
通らない。
呪剣が、
人の肉体に、負けた。
その事実を理解する前に、
視界が反転した。
次の瞬間。
――拳。
真正面から、振り下ろされる。
回避も、防御も、間に合わない。
ゲンコツだった。
軽い。
あまりにも、雑な一撃。
それだけで。
シグルの頭部が、弾けた。
グチャッ
脳漿が飛び、
眼球が宙を舞い、
歯が砕け、
血液が雨のように散った。
小さな体が、
首から上を失ったまま、
その場に崩れ落ちる。
島田の視界が、真っ赤に染まった。
足元に転がるもの。
飛び散ったもの。
温かい飛沫。
――理解できない。
ついさっきまで、
喋って、笑って、
守ってくれていた“人”が。
こんな、
こんな簡単に。
グルーシュは、拳についた血を一度振り払い、
興味なさげに言った。
「……弱い」
それは評価ですらなかった。
ただの、事実確認だった。
島田は、理解してしまった。
目の前で――
唯一、言葉が通じた人間が死んだ。
守ってくれた人間が、
迷いなく前に立ってくれた人間が、
何の意味もなく、砕け散った。
息ができない。
喉が鳴るのに、空気が入ってこない。
グルーシュが、拳を上げた。
今度は、完全に島田を向いている。
さっきとは違う。
偶然でも、流れでもない。
明確な殺意。
空気が重い。
皮膚がひりつく。
本能が、叫んでいる。
――殺される。
島田は、逃げられなかった。
足が、動かなかった。
その瞬間。
視界の端で、何かが――動いた。
地面に散っていた、
脳みそだったはずの肉塊が、
ずるりと引きずられていく。
グチャグチャと音を立てながら。
形を取り戻していく。
――死体が、動いた。
島田の喉から、声にならない音が漏れる。
立ち上がったのは、
さっき確かに“死んだ”はずの少年だった。
シグル。
頭部は歪み、
皮膚はまだ繋がりきっていない。
それでも、立っている。
その視線が、ゆっくりと動いた。
リュミエル。
そして――島田。
安否確認。
まだ、生きているか。
まだ、守る必要があるか。
それを確かめるように、
シグルの口角が、ほんの少しだけ上がった。
島田は、その表情が
なぜか一番怖かった。
グルーシュも、それを見た。
確かに殺したはずの人間が、
確かに砕いたはずの頭が、
何事もなかったかのように立っている。
一瞬だけ、
ほんの一瞬だけ、
戸惑いが浮かぶ。
だが。
考えることが嫌いな闘血種は、
すぐに結論を出した。
「……なら、もう一度だ」
音が、消えた。
次の瞬間。
音速の裏拳が、
空気を裂いてシグルの頭部に叩き込まれる。
――グチャッ。
嫌に生々しい音。
肉の音、
骨が砕ける音、
今度は“形”すら残らない。
頭部が、完全に消失した。
シグルの体が、
糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
動かない。
再構築も、起きない。
今度こそ。
今度こそ、死んだ。
島田の中で、
何かが静かに、音を立てて壊れた。
グルーシュが、再び島田を向いた。
――殺す。
そう言わんばかりの視線だった。
だが、その瞬間。
島田は“見て”しまった。
地面に倒れ伏しているはずのシグルの首元で、
何かが、逆再生のように起きている。
白いものが、内側から盛り上がる。
メキメキ...
砕け散ったはずの頭蓋骨が、
骨の音を立てながら生えていく。
そこに、肉がまとわりつく。
赤黒い筋肉が形を取り、
血管が浮かび、
皮膚が張り付く。
眼窩に、ぬるりと眼球が嵌まり、
最後に、髪の毛が――
何事もなかったかのように元に戻っていく。
「……っ」
島田の喉が、引きつった音を立てた。
胃がひっくり返る。
視界が歪む。
生き返る、というより――作り直されている。
それでも。
再構築の途中で、
まだ起き上がれないままのシグルは、
動いた。
――ガシッ
倒れたまま、
伸ばした腕で、
グルーシュの足を――掴んだ。
弱い。
あまりにも弱い力。
だが、それで十分だった。
グルーシュの表情が、完全に変わる。
眉が吊り上がり、
歯が剥き出しになり、
顔に怒りそのものが浮かび上がった。
「……しつけぇんだよ」
片足が、ゆっくりと上がる。
そして――
踏み潰した。
再生しかけたばかりのシグルの頭部が、
足裏の下で砕ける。
形をなくしたそれは赤い体液を地面に撒き散らした。
迷いはない。
慈悲もない。
グルーシュは、完全に理解した。
――こいつは、殺しても終わらない。
だから。
終わらせるまで、殺し続ける。
標的は、完全に変わった。
島田でも、リュミエルでもない。
シグルだけ。
再構築が追いつく前に、また壊す。
ゴシャッ...ゴシャッ...
何度も。
何度も。
何度も。
殴るたびに、
地面が凹んでいく。
血と骨で、
赤黒いクレーターができていく。
島田は、動けなかった。
腰を抜かしたまま、
ただそれを――見ていた。
その時。
ころり、と。
何かが、島田の手元まで転がってきた。
丸い。
濡れている。
スーパーボールくらいの、大きさ。
何だろう、と思って
反射的に拾い上げる。
――柔らかい。
指の間で、
ぬちゃり、と嫌な感触がした。
次の瞬間、理解する。
眼球だった。
シグルの。
島田の視界が、真っ白になった。
声も、悲鳴も、出なかった。
ただ、
異世界という現実だけが、
確かにそこにあった。
島田は、ふいに横を見る。
リュミエルが――泣いていた。
声を殺して、歯を噛みしめて、
それでも溢れてしまう涙を止められずに。
島田から見れば、理由は明白だった。
大切な幼馴染が、
目の前で、
何度も、
ぐちゃぐちゃに壊されている。
泣かないほうがおかしい。
むしろ、
自分が泣けていないことのほうが、
どこかおかしかった。
――そこで、視界が反転する。
⸻
動けなかった。
脚が、地面に縫い止められたみたいに。
詠唱は、頭に浮かんでいる。
術式も、理論も、理解している。
でも――
杖がない。
距離がある。
何より、怖い。
(……私、何してる……)
治せない。
止められない。
守れない。
シグルが壊される音がするたび、
心のどこかが削れていく。
(また……また……)
あの日と同じだ。
守ると決めた人が、
目の前で壊れていく。
その時。
――違和感。
血と肉の塊の中で、
シグルの背中が、一瞬だけ見えた。
脊椎。
そこから――
何かが、滲み出ている。
黒い。
濃くて、重くて、
禍々しいもの。
それは煙のようで、
骨のようで、
骸骨の輪郭をしていた。
(……あれ……なに……?)
理解する前に、
リュミエルの視界が揺れる。
恐怖と絶望で、
思考が追いつかない。
⸻
意識が、浮上する。
最初に感じたのは――
匂い。
鉄。
血。
肉。
次に見えたのは、
赤黒く染まった地面。
クレーター。
何度も、
何度も、
同じ場所が叩き潰された痕。
(……何が……)
視線を動かす。
リュミエル。
島田。
――生きている。
一瞬、安堵しかけて。
次に、
シグルを見た。
殺され続けていた。
立ち上がっては壊され、
再構築しては叩き潰され、
それでも、
止まらず、
終わらず。
バルガの胸の奥で、
何かが、完全に切れた。
(……守れなかった)
怒りじゃない。
憎しみでもない。
自分への失望。
最強として生まれ、
誇りを持ち、
力を持ちながら。
――それでも、
守ると決めたものを守れなかった。
膝が、地面を押す。
立ち上がる。
体の奥から、
熱が噴き上がる。
闘志。
殺意。
抑えてきたもの。
見ないようにしてきたもの。
全部が、
一気に溢れ出す。
視界が、赤く染まる。
周りが見えなくなる。
――闘血種の本能。
「……グルーシュ」
声が、低く歪む。
守るための拳じゃない。
説得のための力でもない。
殺すための力。
バルガは、
完全に覚醒していた。
もう、躊躇はない。
もう、逃がさない。
ここで――
殺す。
拳がぶつかるたび、空間そのものが悲鳴を上げた。
衝撃は遅れて爆音となり、地平線の向こうまで轟く。
グルーシュは防御に回るが、それすら追いつかない。
バルガの一撃一撃は**「攻撃」ではなく「現象」**だった。
避けたと思った瞬間、既に次の拳が体を穿つ。
骨が砕け、肉が裂ける。
それでもグルーシュは笑っていた。
――いや、笑っている“つもり”だった。
「……なんだ、これは……」
初めて、グルーシュの声に焦りが混じる。
見えない。
感じ取れない。
予測が成立しない。
バルガは何も喋らない。
怒号も、叫びもない。
ただ、殴る。
守れなかった記憶。
目の前で壊れていった仲間。
自分が倒れていた間に奪われた命。
それらすべてが、拳に乗って叩き込まれる。
一撃。
二撃。
三撃。
草原はもはや原型を留めていなかった。
地面は抉れ、空気は焼け、視界は白に染まる。
グルーシュの体が宙を舞う。
次の瞬間、バルガは既に上にいた。
――ドンッ
光すら遅れる速度で、拳が振り下ろされる。
グルーシュは、殴られながら笑った。
その笑みは嘲りじゃない。
――感心だ。
「……これでこそ、闘士だ」
拳を受け止め、踏みとどまり、真正面から見据える。
「闘血種だ」
バルガの拳が頬を掠め、空間が爆ぜる。
グルーシュは血を吐きながら、静かに言った。
「覚悟が足りていなかったようだ……闘血種として」
そして、一歩踏み出す。
「俺も応える。その闘志に」
次の瞬間、本気の殺し合いが始まった。
拳と拳がぶつかるたび、ソニックブームが連続して発生する。
衝撃波が地面をめくり、空気を裂く。
もはや殴り合いではない。
意思と意思の衝突だった。
最初はバルガが押していた。
だが、徐々に――
ほんのわずかずつ、押し返される。
闘志の量。
技量。
経験。
その差が、確実に現れる。
バルガの拳が弾かれ、体が宙を舞う。
地面に叩きつけられ、クレーターが増える。
――敗北。
⸻
……戻った?
意識が、戻ったと思った瞬間。
激痛。
思考が、止まる。
――殺された。
次の瞬間。
また戻る。
また痛む。
また、殺される。
何度も。
何度も。
何度も。
考える暇はない。
考えようとした瞬間、壊される。
やがて、思考そのものをやめた。
殺され続けた人間は、壊れる。
残ったものは、ひとつだけ。
――殺す。
「殺す殺す殺す殺す殺す」
言葉じゃない。
感情ですらない。
蓄積された一瞬の衝動。
それが、溢れた。
魔力を持たない存在。
だが、それでも――
恐るべき何かが、生まれた。
⸻
……何、あれ。
崩れていたはずのシグルが、
再構築されていく。
肉体だけじゃない。
存在そのものが、組み上がる感覚。
圧が、違う。
今までとは比べものにならない。
近づこうとして――
足が、止まる。
違う。
止まったんじゃない。
逃げたい。
本能が、そう叫んでいる。
「……シグル……?」
⸻
見える。
音が、色になる。
世界が、単純になる。
やることは一つ。
――あれを、殺す。
⸻
シグルが、歩き出す。
呼び止めたい。
抱きしめたい。
戻ってきてほしい。
でも――
声が、出ない。
これは、もう“知ってるシグル”じゃない。
⸻
一歩。
また一歩。
倒れている闘士が見える。
バルガ。
でも、関係ない。
目的は、ただ一つ。
視線の先。
グルーシュ。
――殺す。
楽しい。
それが、正直な感想だった。
覚醒したバルガとの殴り合いは、久しく忘れていた高揚を呼び起こす。
拳が届く。
反応が返る。
殺意と闘志が、正面から噛み合う。
――ああ、これだ。
これが闘血種だ。
そう思った瞬間。
違和感。
背中を、撫でられたような感覚。
次の瞬間、それは確信に変わった。
……殺気?
しかも――
完全に、自分に向けられている。
反射的に視線を向ける。
そこにいたのは、ただのガキ。
腕も細い。
立ち姿も歪んでいる。
なのに。
怖い。
心臓が、嫌な音を立てた。
「……馬鹿な」
自分が、怯んだ?
そんなはずはない。
拳を振り上げる。
殺すつもりで。
だが――
圧。
見えない何かに、押し潰される。
軌道がズレる。
拳は、シグルの左肩に落ちた。
――弾けた。
左腕が、空中で形を失う。
血が散る。
……だが。
痛みの表情が、ない。
叫びも、呻きも、ない。
その目に映っているのは――
ただ、殺意だけ。
動けなかった。
理解できない。
恐怖が、思考を止めた。
次の瞬間。
弱々しい拳が、腹部に触れた。
あまりにも、軽い。
まるで、死にかけの人間の一撃。
――そのはずだった。
刹那。
腹部が、焼けるように痛んだ。
息が、止まる。
何が起きたのか、分からない。
視界が、傾く。
落ちる。
どんどん、低くなる。
……地面が、近い。
倒れた先で、見えたもの。
ガキと、自分の――
下半身。
そこで、ようやく理解した。
――切り裂かれた。
あの拳で。
シグルは左肩の痛みを押さえながらも、自然と殺意は消えていた。やるべきことは、もう果たしたのだから。
荒れた草原の風に吹かれながら、ゆっくりとリュミエルのほうへ歩み寄る。
「リュミエル……?」
怯えた彼女の目を見て、普段ならすぐに抱きしめてやるところだった。けれど、彼女は後ろに倒れ込み、シグルの手が届く距離にすらいなかった。
その瞬間、島田の声が震えて口をついた。
「バケモノ……」
シグルはその言葉にショックを受け、思わず声を漏らした。
「え?」
荒れた草と飛び散った花びらの間で、ただ三人の呼吸だけが聞こえる。
戦いは終わったのか、それともまだ、何かが残っているのか。
風に舞う花びらの中で、誰も答えを出せないまま、静かに夜が迫ってきた。
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