第6話 「いつものやつ」

 朝の空気は、やけに澄んでいた。

 昨日の血の匂いが、もうどこにも残っていないのが不思議なくらいだ。


 安宿の木製の扉を押し開けると、リュミエルが一瞬だけ肩をすくめた。人間の里の朝は、まだ慣れないらしい。

 それでも彼女は何も言わず、シグルの一歩後ろを歩く。


 バルガはというと、相変わらず無言だった。

 だが、昨日より少しだけ歩幅が揃っている。それだけで、パーティーになったんだと実感する。


 ギルドの建物が見えてくる。

 朝から人は多く、鎧の擦れる音や、依頼内容を確認する声が飛び交っていた。


 中に入った瞬間、視線が集まる。

 ――子供が二人、エルフが一人、そして闘血種が一人。

 昨日よりも露骨な視線だったが、誰も何も言わない。昨日の一件が、もう噂になっているのだろう。


 受付に依頼書と魔獣の証明部位を提出すると、受付嬢は一瞬だけ目を見開いた。


「E級探索任務、達成確認。加えて……ウッド・ウルフの討伐数、規定数を大幅に超えていますね」


 彼女はカウンターの下で何かを確認し、淡々と続ける。


「規定に基づき、パーティーランクを更新します」


 周囲がざわついた。


「……Cランクまでの依頼、受注可能です」


 一瞬、静寂。

 次の瞬間、小さなどよめきが広がる。


 リュミエルが目を丸くしてシグルを見る。

「……もう、C?」


「まあ、ついでで殴りすぎたな」


 バルガがぼそっと言うと、近くにいた冒険者が引きつった笑いを浮かべて距離を取った。


 シグルは依頼板に目を向ける。

 Eの札が減り、Cの札が増えている。

 確かに前に進んでいる。少しずつだが、確実に。


選んだのはもちろんC級任務――

 「街道警備兼魔獣討伐」


 内容は単純だった。

 人間の里と隣町を繋ぐ街道を半日巡回し、魔獣や盗賊がいれば排除する。それだけ。


「楽勝だな」


 依頼書を見た瞬間、シグルはそう思った。

 実際、間違っていなかった。


 街道はよく整備されていて、視界も開けている。

 森に比べれば奇襲も少ないし、危険度も低い。


 最初に出てきたのは、E級の小型魔獣。

 狼にも満たないサイズの個体だった。


 ――が。


 バルガが一歩前に出た瞬間、全てが終わった。


 武器はない。構えもない。

 ただ歩き、拳を振るうだけ。


 鈍い音が一度鳴っただけで、魔獣は地面に沈んだ。

 骨が砕け、肉が潰れ、息絶えるまで一瞬。


「……」


 シグルはシックス・ゴーストに伸ばしかけた手を止める。

 抜く必要が、なかった。


 その後も同じだった。


 ゴブリンが二体出れば、二体とも消える。

 群れで来ようが、奇襲しようが関係ない。


 バルガは、ただそこにいるだけで戦況を終わらせる存在だった。


「すご……」


 リュミエルが小さく呟く。

 だがその声には、感嘆よりも戸惑いが混じっていた。


 ――強すぎる。

 守られている安心感と、何もできていない感覚。


 シグルも同じだった。


(……あれ?)


 歩く。

 見張る。

 魔獣が出る。

 バルガが殴る。

 終わる。


 それの繰り返し。


 気づけば、もう街道の半分を過ぎていた。


(今回、俺……出番なくね?)


 冥府無限廻も、シックス・ゴーストも、必要ない。

 死ぬ理由も、戦う理由も、どこにもない。


 シグルは少しだけ肩の力を抜いた。


「……まあ、こういう日もあるか」


 それが、

 この日、最後の油断だった。


 ――違う。


 胸の奥が、ひくりと鳴った。


 理由はわからない。

 根拠もない。ただ――嫌な感じだけが、背骨を撫でた。


「……シグル」


 エルフの勘。

 それが言葉になる前に、


「え?」


 シグルが振り向いた、その瞬間だった。


 ズバンッ。


 空気が裂ける音。

 理解するより先に、赤が弾けた。


 シグルの首元から、血が噴き出した。


 次の瞬間、

 彼の体は――上下で、真っ二つに吹き飛んだ。


 首。

 胴体。

 下半身。


 それぞれが、別々の方向へ転がる。


 リュミエルの視界は、理解を拒んだまま固定されていた。


 パシャッ。


 血が地面に落ちる音。


 ドサッ。


 肉の塊が、土に叩きつけられる鈍い音。


 鼻を突く、鉄と生臭さが混じった匂い。


「…………」


 声が、出ない。


 時間が止まったみたいだった。

 いや――自分だけが、取り残された。


(……あ)


 視線の先。

 そこにあるのは、


 首のない胴体。

 転がる頭部。

 血溜まり。


 シグルの、死体。


 そこで、ようやく理解した。


 ――死んだ。


 ――シグルが、死んだ。


 グリム・ストーンの時とは、違う。

 あの時は、恐怖で頭が真っ白だった。

 魔獣が大きすぎて、何が起きたのか直視できなかった。


 でも今回は――


 見た。


 最初から最後まで。

 逃げ場もなく、遮るものもなく。


 血が噴き出る瞬間も。

 体が分かれる瞬間も。

 命が、完全に終わる瞬間も。


(……私、何も……)


 足が、震える。


 助けられなかった。

 止められなかった。

 声をかけることすら、できなかった。


 たった一人の友達が、

 目の前で、肉塊になった。


 胃がひっくり返る。

 喉が焼ける。

 涙も、悲鳴も、出てこない。


 ――死って。


 ――こんなに、汚くて。


 ――こんなに、音がして。


 ――こんなに、臭いものだったんだ。


 リュミエルは、その場から一歩も動けなかった。

 動けるわけが、なかった。


 ただ――

 血に濡れた地面と、バラバラになったシグルを、見つめ続けていた。


 最初に動いたのは、バルガだった。


 シグルの体が地面に転がるより早く、

 地面が鳴った。


 ――ドン。


 踏み込んだ足が土を砕き、衝撃が周囲に走る。


「……ッ」


 バルガの喉から、獣みたいな低い音が漏れた。

 叫びじゃない。怒鳴りでもない。


 ――殺意が、圧縮された音だった。


 彼はシグルの死体を一度も見なかった。

 視線は、ただ一直線に“何か”を追っている。


 見えないはずの“何か”を。


「……そこか」


 空気が、歪んだ。


 確信はない。

 けれど、影が動いた気がした。


 ほんの一瞬。

 木の影が、木とは違う揺れ方をした。


 ――魔獣じゃない。


 バルガは理解する。


 あれは、生き物ですらない。


「怪魔か……」


 吐き捨てるように言った、その瞬間。


 世界から、音が消えた。


 リュミエルの視界が、唐突に暗くなる。

 まばたきをしたわけじゃない。

 目は開いているのに、何も見えない。


「……っ!?」


 思考が、遅れる。

 焦りが来る前に、“考える”という行為そのものが鈍くなる。


 ――ああ、これだ。


 バルガの脳裏に、忌々しい名前が浮かぶ。


 B級怪魔

 “キッドナップ”

 ――通称、《連れ去る者》。


 呪いから生まれた存在。

 魔獣のように肉体を持たず、

 怪物ですらない、超常そのもの。


 見えているはずなのに、気配がない。

 目の前にいても“いる”と認識できない。


 そして、攻撃は単純で、陰湿だ。


 視界を奪い、

 感覚を薄め、

 思考を削り取る。


 恐怖すら、感じさせない。


 気づいた時には――

 何も考えられなくなった人間が、静かに消える。


「……ふざけるな」


 バルガの声が、低く震えた。


 空気が、重くなる。


 彼は、怒っていた。


 怒りの対象は、怪魔だけじゃない。

 守れなかった自分。

 目の前で、子供を殺された現実。


 拳が、ぎしりと音を立てる。


 闘血種。

 理性が切れれば、止まらない種族。


 それでも――


 バルガは一歩、前に出た。


 見えない敵に向かって。


「……出てこい」


 返事はない。

 あるのは、さらに深くなる暗闇だけ。


 リュミエルの思考が、ゆっくり溶けていく。

 悲しみも、恐怖も、名前を失っていく。


 ――このまま、取り込まれる。


 その直前。


 地面に転がっていた、シグルの“肉片”が、微かに動いた。


 バルガは、殴った。


 見えないはずの“何か”に向かって、

 ただ本能だけで拳を振る。


 ――ゴンッ。


 空を殴ったはずなのに、

 鈍い手応えが返ってきた。


「……当たったか」


 次の瞬間、視界の端で影が歪む。

 地面に、何かが擦れた跡。


 キッドナップは、確かにそこにいた。


 バルガは間合いを詰め、

 掴もうと腕を伸ばす。


 ――だが、掴めない。


 拳はすり抜け、

 影だけが、滑るように後退する。


「チッ……!」


 その瞬間。


 **ぐち、**と。


 背後で、嫌な音がした。


 リュミエルは、そちらを見てしまった。


 見てはいけないものを、見た。


 地面に散らばっていた、

 シグルの肉片が――


 動いていた。


 最初は、指だった。


 血に濡れた小さな指が、

 まるで迷うみたいに、ぴくりと震える。


「……え……?」


 思考が追いつかない。


 次に、腕。

 骨の断面から、白い線が伸びる。


 ――骨が、伸びている。


 音もなく。

 ありえない速さで。


 その周囲に、

 赤い膜が張り付くように広がり、

 筋肉が、勝手に形を作っていく。


 ――ずる、ずる。


 肉が、肉を引き寄せる音。


 血は流れているのに、

 失われるはずの量が、減っていく。


 バルガが再び拳を振る。


 ――ドンッ!!


 今度は確かに、何かが吹き飛んだ。


 空中で、影が歪み、

 キッドナップが距離を取る。


 だが、倒れない。


「……しぶとい」


 その間にも――


 胴体が、組み上がっていく。


 切断されていた断面同士が、

 引き合うように近づき、


 ――ぐちゃ。


 気持ち悪い音を立てて、繋がった。


 内臓が、正しい位置に収まり、

 皮膚が、縫われるように閉じていく。


 リュミエルの喉が、ひくりと鳴る。


 息が、浅い。


 目を逸らしたい。

 でも、逸らせない。


 ――見てしまった。


 死体が、“人に戻る瞬間”を。


 バルガが叫ぶ。


「まだだ……!

 まだ、終わってない!!」


 その声に反応するように、

 最後に残っていた――


 シグルの首が、転がる。


 目は、開いたまま。

 虚ろで、何も映していない。


 その首の断面から、

 黒い靄のようなものが滲み出た。


 冥府無限廻。


 死を、燃料にする呪い。


 靄は首と胴体を繋ぎ、

 ぐい、と引き寄せる。


 骨が合わさり、

 肉が縫い合わさり、

 皮膚が閉じる。


 ――そして。


 ごほっ。


 咳き込む音。


 シグルの胸が、大きく上下した。


 リュミエルの世界が、

 一瞬だけ、音を取り戻す。


「……ぁ……」


 声にならない声が、漏れた。


 目の前で、

 死んだはずの友達が、息をしている。


 シグルは、ゆっくりと起き上がった。


 血に塗れた体。

 何事もなかったかのように、首を回す。


「……いつもの、やつか」


 その一言が、

 リュミエルの心を、完全に壊した。


 シグルは、反射的に動いた。


 再構築されたばかりの体を引きずるように、

 リュミエルの前へ立つ。


 剣を構え、

 半歩、前に出る。


「……大丈夫だ。俺がいる」


 その声は、落ち着いていた。

 あまりにも、いつも通りだった。


 ――それが、限界だった。


 リュミエルの膝が、がくりと折れる。


「……ぁ……」


 力が抜けたみたいに、

 その場に崩れ落ちる。


 手が震える。

 呼吸が、うまくできない。


 今の年齢には、重すぎた。


 首が落ちる音。

 肉が裂ける感触。

 血の匂い。


 それらが、まだ――

 頭の中で、鳴り止まない。


 遠くで、バルガが暴れている。


 ――ヒュン。

 ――ヒュン。

 ――ヒュン。


 音が遅れて聞こえるほどの速度。


 視界の端で、

 空気が歪み、影が砕ける。


 拳が振るわれるたびに、

 見えない何かが弾き飛ばされている。


 シグルは、一瞬だけ背後を気にした。


「……リュミエル?」


 剣を下げ、

 駆け寄ろうとする。


 その瞬間。


 リュミエルは、見てしまった。


 シグルの背後――

 そこに、“何か”が立っていた。


 人の形をしている。

 だが、人ではない。


 骨だけの顔。

 空洞の眼窩。


 死神のような、ドクロ。


 それは、鎌も持たず、

 ただ――


 リュミエルを、見つめていた。


「……っ……」


 声が、喉で潰れる。


 ドクロの周囲から、

 黒く、濃いオーラが溢れている。


 それは霧のようで、

 煙のようで、

 血の臭いを伴っていた。


 そのオーラは、

 シグルの背中から――

 直接、噴き出している。


 まるで、

 彼自身が“門”であるかのように。


 ドクロは、笑っていなかった。


 ただ、

 当然のものを見る目で、

 リュミエルを見下ろしている。


 ――次は、お前の番か?


 そう言われた気がして、

 リュミエルの喉が、ひくりと鳴った。


 シグルは気づかない。


 自分の背後に、

 そんなものが立っていることに。


 ただ、心配そうに膝をつき、

 リュミエルの顔を覗き込む。


「……無理しなくていい。

 ここは、俺とバルガで――」


 その瞬間。


 リュミエルの視界で、

 ドクロが、すっと後ろへ下がった。


 溶けるように、

 シグルの影へと戻っていく。


 禍々しいオーラも、

 同時に、背中へ吸い込まれる。


 ――何も、なかったかのように。


 残ったのは、

 血に塗れた少年と、

 震える少女だけ。


 リュミエルは、唇を噛みしめた。


 この人は、生き返る。


 でも――

 死と一緒に、歩いている。


 その事実が、

 胸に、重くのしかかった。


「リュミエル、ここから動くな」


 血に濡れた体のまま立ち上がったシグルは、即座にそう言った。


「何かあったら、すぐ叫べ。助けを呼べ」


 それだけ告げると、振り返りもせず駆け出す。

 リュミエルの前から、血溜まりを踏み越えて――バルガのいる方向へ。


「……シグル?」


 声が、聞こえた。


 確かに。

 死んだはずの少年の声が。


 バルガは一瞬だけ目を見開いた。

 胴体を吹き飛ばされ、首が転がった光景を、確かに見ていたからだ。


 だが、今はそんなことを考えている暇はなかった。


「……来たか」


 低く吐き捨てるように言い、視線を前へ戻す。


「相手は魔獣じゃねぇ。怪魔だ」


 見えているはずなのに、輪郭が定まらない。

 そこに“いる”のに、気配が薄すぎて感覚が追いつかない。


 シグルはその言葉を聞いた瞬間、脳裏の奥を探った。

 ――昔、読んだ本。


(怪魔は呪いから生まれる。

  斬るだけじゃ殺せない。

  呪術でしか、終わらせられない)


「……なるほどな」


 シグルは迷わなかった。

 腰の呪剣――シックス・ゴーストを強く握る。


「バルガ! 拘束しろ! 逃がすな!」


「チッ……分かってる!」


 次の瞬間、バルガが地面を蹴った。

 視認できない何かに向かって、拳を叩き込む。


 ゴォン!!


 空気が歪む。

 見えないはずの“何か”が、確かに吹き飛んだ感触。


 だが怪魔は簡単には終わらない。

 影のように蠢き、バルガの視界を掠め、背後へ回ろうとする。


「させるかぁぁ!!」


 バルガは咆哮し、両腕で空間ごと抱え込むように掴んだ。


 ――重い。

 確かに、何かを掴んでいる。


 怪魔が暴れる。

 見えない腕が、見えない足が、バルガの体を締め付ける。


 だが、怪力はそれを上回った。


「今だ、シグル!!」


 シグルは地面を蹴り、一直線に駆ける。


 そして――

 見えない“腹部”があるはずの位置へ、迷いなく剣を突き立てた。


「――喰らえ」


 ズブリという、生々しい感触。


 その瞬間、シックス・ゴーストが低く唸った。

 剣身に刻まれた呪紋が、妖しく光り始める。


 怪魔が暴れ狂う。

 逃げようとするが、バルガの腕は緩まない。


 呪力が、吸われていく。

 命そのものを、根こそぎ奪われていく感覚。


 やがて――

 抵抗が、止まった。


 シグルが剣を引き抜くと、そこに“何もないはずの空間”が崩れ落ちる。


 どさり。


 初めて、姿を現した。


 それは、生物とは呼び難い異形。

 腕は十七本。

 足は四本。

 頭部には、巨大な目が一つだけ。


 呪いの塊が、ただの死体となって横たわっていた。


 怪魔の死体を前に、しばし沈黙が落ちた。


 最初に口を開いたのはシグルだった。


「……これ、ギルドに持って帰ろう」


 異形の死体を見下ろしながら、淡々と続ける。


「怪魔討伐の証拠になる。報告して死体を明け渡せば、パーティーランクは一気に上がるはずだ」


「……正気か?」


 バルガは思わず聞き返したが、すぐに肩をすくめる。


「まぁ、確かにこの化け物なら文句は出ねぇか」


「運ぶの、頼める?」


 その一言に、バルガは黙って頷き、怪魔の死体を担ぎ上げた。

 常人なら悲鳴を上げる重量でも、彼には問題なかった。


 歩き出してから、数歩。


 バルガは、堪えきれなかったように口を開いた。


「……お前」


 低い声だった。


「どうやって、生き返った」


 空気が、少しだけ張り詰める。


 シグルは歩きながら、隠す気もなく答えた。


「俺の名前は――黎明シグル」


 その名を聞いた瞬間、バルガの足が止まる。


「冥府無限廻保持者だ」


 次の言葉で、バルガの表情が凍りついた。


「……冥府、無限廻?」


 それは、ただの能力名じゃない。

 聖対魔戦争を終結させた一族――同時に呪われている伝説として語られる存在。


「まさか……」


「その末裔だよ」


 シグルは振り返らずに言った。


「死んだら再構築される。何度でもな」


 少し間を置いて、付け足す。


「見た目が七歳なのは、その副作用。実年齢は十二」


 沈黙。


 次の瞬間だった。


「――っ!!」


 突然、視界が塞がれる。


 バルガが、シグルを思い切り抱き寄せた。


「お、おい……!?」


 骨が軋む。

 正直、背骨が折れるかと思った。


「……っ、離せ……!」


 だが、バルガは離さなかった。


 震えていた。


 大きな体が、小刻みに。


「……目の前に、いたのに」


 声が、掠れていた。


「守れなかったって思った……」


 歯を食いしばる音がする。


「……一度、失ったって……」


 ――泣いていた。


 大の大人が。

 戦士が。

 誰よりも強い男が。


 シグルは一瞬、言葉を失ってから――

 そっと、バルガの頭に手を置いた。


「……大丈夫だよ」


 軽く、撫でる。


「生きてる」


 数秒後。


「……でも痛いから離せ」


 ゴンッ


「ぐぉっ!?」


 シグルのゲンコツが、バルガの顎に入った。


「力加減考えろ」


「……悪い」


 バルガは鼻を啜りながら、素直に離れた。


 シグルは小さく息を吐いてから、振り返る。


「行こう。リュミエルが待ってる」


 そう言って歩き出す。


 ――あのドクロは、何だったのだろう。


 リュミエルは膝を抱えたまま、地面を見つめていた。


 視界の端に焼き付いて離れない。

 シグルの背後に立っていた、死神のような影。

 空気を腐らせるような禍々しさ。

 あれは幻覚だったのか、それとも――


(……シグル、なの?)


 わからない。

 わからないことだらけだった。


 血の匂い。

 肉が裂ける音。

 首が飛び、身体が崩れ落ちた瞬間。


 思い出そうとしなくても、勝手に脳裏に浮かぶ。


 ――死。


 初めて直視した、人の死。


「……っ」


 喉がひくりと鳴った、その瞬間。


「リュミエル」


「ひゃっ!?」


 声が裏返った。


 勢いよく振り向くと、そこにいたのは――


 シグルだった。


 血塗れの服。

 乾きかけた赤が、袖や胸にべったりとこびりついている。


 生きている。

 ちゃんと、立っている。


 なのに。


 脳が、追いつかなかった。


「……っ、し、シグル……?」


 声が震える。


 彼は少し困ったように眉を下げて、それから――

 何でもないことのように、手を差し出した。


「帰るか」


 たったそれだけ。


 その一言で。


 リュミエルの脳内に、あの光景が再生される。


 首から噴き出した血。

 宙を舞った身体。

 地面に落ちた、肉の音。


 ――死んだ。

 確かに、死んだ。


 目の前の少年と、同じ顔をした誰かが。


 息が詰まる。


 それでも。


 差し出されたその手は、温かくて。

 ちゃんと、人の体温があった。


 リュミエルは、少しだけ躊躇ってから――

 その手を、ぎゅっと握った。


「……うん」


 立ち上がると、足が少し震えた。


 でも、手は離さなかった。


 血の匂いが残る森を背に。

 三人は、静かに歩き出す。


 夜のギルドは、珍しく騒がしかった。


 酒瓶が鳴り、笑い声が跳ねる。

 今日の依頼の愚痴や自慢が、あちこちで飛び交っている。


 ――その扉が、軋んで開いた。


 シグルたちが中に足を踏み入れた瞬間、

 音が、消えた。


 誰かが笑いかけた口を止め、

 誰かが杯を持ち上げたまま固まり、

 視線が、一斉に三人へ向く。


 血の匂い。

 服に残る戦闘の痕。

 そして――


 バルガが、一歩前へ出た。


 受付嬢の前で立ち止まり、低く告げる。


「……怪魔だ」


 一言。


 それだけで。


「――えぇ!?」

「は?」

「怪魔って、あの怪魔!?」


 ざわり、という言葉では足りないほどの動揺が広がる。


 受付嬢は一瞬、言葉を失い――

 すぐに奥へと駆け出した。


「た、ただいま確認します!

 上の者を呼びますので、そのまま――!」


 数分後。


 重たい足音と共に、

 体格のいい壮年の男が姿を現した。


 ギルド長――ヤボー。


「……お前らが、怪魔を?」


 半信半疑の視線。

 だが、バルガが無言で布を剥がすと、空気が変わった。


 床に現れたそれは、

 とても生物とは呼べない代物だった。


 腕は十七本。

 足は四本。

 頭部には、大きすぎる一つ目。


 異様な沈黙。


 ヤボーは、しばらくそれを見つめ――

 短く、息を吐いた。


「……間違いない。

 Bランク怪魔、“キッドナップ”だ」


 どよめきが、爆発する。


「Cランクだろ!?」

「結成して、まだ二日だぞ!?」

「魔獣じゃねぇ……怪魔だぞ!?」


 ヤボーは腕を組み、三人を見る。


「功績は、正当に評価する」


 そして、はっきりと告げた。


「C級から、A級へ昇格だ」


 一瞬、世界が止まったように感じた。


 シグルは、思わず小さく息を呑む。


(……A級)


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 ほんの少し――誇らしかった。


 横を見る。


 リュミエルなら、きっと喜ぶ。

 そう思っていた。


 だが。


 彼女は笑っていなかった。


 視線は宙を彷徨い、

 どこか遠くを見ている。


 まるで、まだ森に取り残されているみたいに。


「……?」


 シグルは、小さく首を傾げる。


 何かを考えている顔。

 いや――考え込んでいる、というより。


 引きずっているような顔をしている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る