第2話 「ただいまとおかえり」
目を開けた瞬間、視界いっぱいに広がったのは――見慣れた天井だった。
木目の走り方、左隅にある小さなヒビ。
間違いない。ここは俺の部屋だ。
夢じゃ、ない。
胸の奥で、じわりと嫌な感覚が広がる。
ゆっくりと体を起こそうとして、そこで違和感に気づいた。
――軽い。
布団が、体が、やけに軽い。
腕を持ち上げる。視界に入った自分の手を見て、思考が一瞬止まった。
……小さい。
指も、手のひらも、記憶より明らかに小さかった。
子どもの頃の――いや、もっと幼い頃の手だ。
喉がひくりと鳴る。
嫌な予感を否定するように、布団を跳ね除けてベッドから降りる。足が床に届くのが、やけに早い。鏡の前に立つ勇気はなかった。見なくても、もう分かってしまったから。
俺は、生きている。
そして――戻ってしまっている。
胸の奥に、重たいものが落ちる。
絶望、という言葉が一番近い感情だった。
なのに。
「……リュミエルは……!?」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
自分の体がどうなったかよりも、
死んだかもしれない自分よりも、
先に浮かんだのは、彼女の顔だった。
――無事なのか。
――あの後、どうなった。
考えた瞬間、部屋の扉が静かに開く。
「……シグル」
聞き慣れた声。
振り向いた先に立っていたのは、父――黎明コルタスだった。
その表情を見た瞬間、俺は言葉を失った。
泣いていた。
大人で、家長で、誰よりも強いはずの父が、声を殺して泣いていた。
「すまない……本当に、すまなかった……」
震える声でそう言って、父は膝をついた。
床に落ちる雫を、俺はただ呆然と見つめるしかなかった。
怒られると思っていた。
エルフと関わったこと、森に入ったこと、危険に身を置いたこと。
そういう全部を。
でも、父の口から出てきたのは、叱責じゃなかった。
謝罪だった。
頭が追いつかない。
胸の奥に溜まっていた不安が、別の形に変わっていく。
「……リュミエルは?」
改めて口にすると、喉が少し震えた。
父は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「無事だ。怪我もない」
その言葉を聞いた瞬間、肺の奥に溜まっていた息が一気に抜けた。
よかった。
本当に、それだけでよかった。
父が扉の外に視線を向ける。
「……入っていい」
小さくそう声をかけると、少し遅れて扉が開いた。
「シグル……!」
聞き覚えのある声。
振り向いた瞬間、胸が締めつけられた。
そこに立っていたのは、リュミエルだった。
いつもの銀色の髪。
長い耳。
怯えと心配が混じった瞳。
生きている。
ちゃんと、ここにいる。
彼女は一歩踏み出しかけて、そこで立ち止まった。
俺の姿を見て、はっきりと戸惑った表情を浮かべる。
「……ちいさ……」
ぽつりと漏れたその一言に、現実を突きつけられる。
俺は苦笑いするしかなかった。
「俺も、そう思う」
リュミエルは一瞬だけ困ったように視線を彷徨わせてから、意を決したように俺の前に来て、膝を折った。目線を合わせるためだ。
「……生きてて、よかった」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
危うく、泣きそうになった。
だが、その空気を断ち切るように、父が低い声で口を開いた。
「ここから先は、隠してきた話だ」
部屋の空気が、変わる。
「リュミエルにも聞いてもらう。お前が関わった以上、もう無関係ではいられない」
リュミエルは一瞬だけ緊張した様子を見せたが、すぐに小さく頷いた。
父は俺の方を見る。
「シグル。お前は、自分がなぜ生きていると思う?」
言葉に詰まる。
死んだはずだった。
確実に、あの時――。
「……分からない」
正直な答えだった。
父は、重く息を吐いた。
「黎明家はな、特別な家系だ」
そう前置きしてから、ゆっくりと語り始める。
この世界の人間と、別世界から来た“転生者”の血。
聖対魔戦争。
他種族同士の殺し合いを終わらせた祖先。
そして――その理想に憧れ、同じことを成そうとして処刑された者たち。
「……六人の家族が殺された」
父の声が、かすかに震える。
「残された一人は、強烈な殺意を抱いたまま死んだ。そして死の間際、呪いを残した」
部屋が、異様なほど静かだった。
「――冥府無限廻」
その言葉を聞いた瞬間、背筋が冷たくなる。
「六百年に一度。黎明の血を引く者に、その呪いは“帰ってくる”」
父は俺を真っ直ぐに見た。
「お前は、選ばれたんじゃない。――引き当ててしまったんだ」
喉が渇く。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
「死んだはずのお前が戻ってきた理由も、体が幼くなった理由も……すべて、その呪いの作用だ」
俺は、知らず知らずのうちに拳を握っていた。
「安心しろ、と言うつもりはない」
父ははっきり言った。
「これは便利な力じゃない。重くて、痛くて、逃げられない。……だが」
一瞬だけ、父の目に覚悟の色が宿る。
「使い方次第で、何かを成すことはできる」
その言葉が、やけに重く胸に落ちた。
リュミエルは、俺の袖をぎゅっと掴んでいた。
震えているのが、伝わってくる。
俺は、自分が“帰ってきた”理由を、ようやく理解し始めていた。
――そして同時に。
“おかえり”と言われたのは、俺だけじゃない。
呪いもまた、ここに戻ってきたのだ。
父は俺たちを促すように部屋を出た。
廊下は夜でもないのに薄暗く、足音がやけに響く。
「地下室だ」
短くそう言って、父は先を歩く。
リュミエルは無言で俺の隣に来た。
さっきよりも少し距離が近い。
それだけで、まだ現実に戻りきれていない自分を自覚する。
階段は石造りで、下へ行くほど空気が冷たくなる。
湿った匂い。
どこか、血の気配を連想させるような――嫌な空気。
「……父さん」
沈黙に耐えきれず、俺は口を開いた。
「冥府無限廻って……結局、どういう呪いなんだ?」
父は足を止めずに答える。
「簡単に言えば、“死を起点にする再構築”だ」
その言葉に、背中がぞくりとした。
「致死のダメージを受けると、肉体は再び組み直される。壊れた部分をなかったことにしてな」
俺の脳裏に、さっきの魔獣戦がよぎる。
折れた骨。
吐き出した血。
――死。
「……じゃあ、死なないってこと?」
そう聞くと、父は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。
「“終わらない”だけだ」
淡々とした声だった。
「死の過程は省略されない。痛みも、恐怖も、そのままだ。何度でも味わう」
階段を下りる足が、少し重くなる。
「再構築は万能じゃない。肉体の状態は一定じゃないし、今回のように年齢が巻き戻ることもある」
だから――と父は続ける。
「お前は今、七歳相当の肉体に戻っている」
その言葉を聞いた瞬間、無意識に自分の手を見る。
小さい。
細い。
武器を握るには、あまりにも頼りない。
「……それ、なんて読むんだ?」
俺は、あえて軽く聞いた。
重くなりすぎるのが、怖かったから。
「冥府無限廻」
「……いもーたる、らうんど?」
自分で言って、少し間抜けに聞こえた。
リュミエルが、ほんの一瞬だけ口元を緩める。
でも、すぐに真剣な顔に戻った。
父は小さく頷く。
「そうだ。意味も、ほぼそのままだ」
階段の終わりが見えてくる。
分厚い鉄扉。
無数の傷と、黒ずんだ染み。
「ただし、勘違いするな」
父はそこで立ち止まり、振り返った。
「この呪いは、お前を守るためのものじゃない」
静かな声だったが、はっきりと刺さる。
「殺しきれなかった“想い”が、無理やり生かし続けているだけだ」
リュミエルが息を呑む。
父は扉に手をかけた。
「ここから先で、お前はそれを“道具”として受け取るか」
一拍置いて、
「――それとも、一生背負う“鎖”として生きるかを選ぶ」
重い音を立てて、地下室の扉が開いた。
冷気と、異様な気配が一気に溢れ出す。
「……入れ、シグル」
地下室は、思っていたよりも狭かった。
天井は低く、壁一面に刻まれた文字――いや、呪語が、歪んだ線で走っている。
意味は分からないのに、見ているだけで胸の奥がざわついた。
部屋の中央。
石台の上に、それは置かれていた。
包帯だらけの塊。
何重にも、何重にも巻かれた布。
古く、黄ばんでいて、ところどころ黒く変色している。
ただの布切れのはずなのに、近づくほど――誰かに見られている感覚が強くなる。
「……あれが?」
思わず声が低くなる。
父は一歩手前で足を止めた。
それ以上、近づかない。
「そうだ」
視線は包帯の塊から逸らさないまま。
「シックス・ゴースト」
別名を、淡々と告げる。
「――六人の背後霊」
リュミエルが小さく息を吸ったのが分かった。
彼女も、何かを感じ取っている。
「中身は短剣だ」
父は言った。
「だが、刃物だと思うな。あれは“遺志”だ」
一歩、俺の背後に下がる。
「俺は触れない」
その言葉に、俺は父を見る。
「……なんで?」
「冥府無限廻を持たぬ者が触れれば、呪いが流れ込む」
淡々としているが、どこか硬い声。
「寿命が削れる。少し、じゃない」
だから、と父は顎で示した。
「外すのはお前だ。シグル」
喉が鳴る。
近づくと、包帯の奥から微かな金属音がした。
触れてもいないのに、耳元で囁かれているような錯覚。
――六人いる。
はっきりと、そう分かった。
怒り。
後悔。
殺意。
祈り。
そして、どうしようもない絶望。
感情が、重なっている。
「……行ける?」
後ろから、リュミエルの声。
俺は一度、深く息を吸った。
「行くしかないだろ」
包帯に手を伸ばす。
冷たい。
いや、冷たいはずなのに、触れた瞬間だけ熱い。
指先が、じん、と痺れた。
一枚。
また一枚。
布を外すたびに、空気が重くなる。
地下室の呪語が、かすかに脈打つような気がした。
最後の包帯が床に落ちた時――
短剣が姿を現した。
黒ずんだ刃。
血を吸い尽くしたような色。
柄は骨でできていた。
同時に――
背後が、重くなる。
誰かが立った気配。
やっぱり、六人。
振り返らなくても分かる。
見なくても、いる。
「……来たな」
父が、低く呟いた。
俺が柄を握る。
その瞬間。
痛みが、走った。
腕じゃない。
頭でもない。
背骨の奥。
まるで、何かが“接続”される感覚。
息が詰まり、膝が揺れる。
「シグル!」
リュミエルの声が遠い。
でも――離さなかった。
「……これが……」
喉を絞り出す。
「…呪いか…」
短剣は、微かに震えていた。
それは歓迎でも拒絶でもなく、
**「戻ってきたな」**と告げているようだった。
六人の背後霊が、確かにそこにいる。
そして、俺はもう――
普通の生き方には戻れないと嫌でも理解した。
「……で、これ、どう使うんだ?」
短剣を握ったまま、俺は父を見た。
自然な疑問だったと思う。
呪いだの遺志だの言われても、結局“使い方”が分からなければ意味がない。
父は、少しだけ目を伏せた。
「……分からない」
即答だった。
一瞬、地下室の空気が止まる。
「は?」
思わず声が漏れた。
「黎明家に伝わるのは“発動条件”と“代償”だけだ」
「どう操るか、どう制御するか……それは、誰にも分からない」
父は苦しそうに続ける。
「歴代の保持者は皆、死の中で覚えた」
「生き方じゃない。死に方で、だ」
背中がひやりとした。
つまり――
俺がこれを使う時は、また死ぬ時だということ。
「……ひどいな」
笑おうとしたが、口角は上がらなかった。
「だからこそ、お前には教えたくなかった」
父の声は低い。
後悔と、恐怖が混ざっている。
その時だった。
「……シグル」
リュミエルが、俺の名前を呼んだ。
その声は、いつもより少し遠慮がちで、揺れていた。
⸻
石台の前に立つシグルを見て、息が詰まった。
……おかしい。
見た目は、ただの少年だ。
小さくなって、少し頼りなくなったはずの背中。
なのに。
背筋から、黒い気配が立ち上っている。
煙みたいで、霧みたいで、でも確かに“そこにある”。
触れたら、引き返せなくなりそうな感じ。
(……これ)
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
知っている。
この感覚を。
森で――
魔獣に殺されたはずのシグルが、立ち上がった時。
血だらけで、なのに無傷で。
目が、いつもと違って見えた、あの瞬間。
(同じ……)
あの時も、
「生きている」のに、「何かが違う」と思った。
今のシグルは、それよりも――濃い。
黒い気配は背中に絡みつくようで、
まるで“何かを背負わされている”みたいだった。
「……シグル」
もう一度、呼ぶ。
彼が振り返った、その瞬間。
一瞬だけ――
背後に、影が六つ重なった気がした。
目を瞬いた時には、もういなかったけれど。
(見間違い……?)
でも、違う。
これは、きっと――
あの森で始まった“何か”の続きだ。
シグルは、戻ってきた。
でも、同時に――別の場所にも足を踏み入れてしまった。
それが、怖かった。
それでも。
彼が差し出した手を、
私はあの時、確かに取った。
だから今も――
離れるなんて、できなかった。
父は、しばらく黙っていた。
石造りの地下室に、燭台の火がパチ、と弾ける音だけが響く。
「……シグル」
名前を呼ばれて、俺は顔を上げた。
「お前は、もう普通の人生を歩けない」
一切の誤魔化しがない声音だった。
「冥府無限廻を宿した以上、狙われる。恐れられる。利用しようとする者も現れる」
「そして何より――お前自身が、死から逃げられない」
胸の奥が、じわりと冷える。
「だから、ここに置いておくわけにはいかない」
父は俺を見て、はっきりと言った。
「旅に出ろ」
「冒険者になれ」
一瞬、言葉を失った。
「呪いを解く方法を探せ。無理でもいい」
「世界を見ろ。自分が何者になったのか、その目で確かめろ」
拳を握る父の手が、微かに震えている。
「……これは命令じゃない」
「親としての、願いだ」
母は何も言わず、ただ俺の肩に手を置いた。
その温もりが、逆に胸を締め付けた。
俺は、短剣――シックス・ゴーストを見下ろす。
重い。
物理的な重さじゃない。
生きろ、と言われているのに、
死ぬことを前提にした力を持たされている。
「……わかった」
短く答えると、父は小さく息を吐いた。
⸻
「……待って」
その声に、全員が振り返った。
リュミエルだった。
彼女は一度、ぎゅっと胸元を掴み、迷うように視線を彷徨わせる。
でも、次の瞬間には、はっきりと俺を見た。
「私も、行く」
空気が、止まる。
「……リュミエル?」
思わず名前を呼ぶと、彼女は少し困ったように笑った。
「正直、怖いよ」
「人間の街も、冒険者も、全部」
それでも。
「でも、あの森で……私が死にそうになった時」
「シグルは、何も考えずに飛び込んできた」
視線が、俺の胸元に落ちる。
「そのせいで、こんなことになった」
違う、と言いかけて、言葉が詰まった。
「だから、今度は私の番」
彼女は一歩前に出る。
「一緒に行く。パーティーを組む」
「恩返し……それだけじゃない」
一瞬、声が震えた。
「一人で死に続けるなんて、許さない」
その言葉が、胸に刺さった。
父は、ゆっくりとリュミエルを見る。
そして、深く頭を下げた。
「……息子を、頼む」
リュミエルは驚いて、慌てて首を振った。
「ち、違います! 私が守られる側で……」
「それでいい」
父は静かに言った。
「互いに、守り合え」
⸻
その日、決まった。
俺は旅に出る。
呪いを抱えたまま、生きるために。
そして、隣には――
俺が一度、守れなかった存在がいる。
この世界は残酷だ。
それでも。
「……行こうか」
そう言って差し出した手を、
リュミエルは、今度こそ迷わず握った。
翌朝。
窓の外は、いつもと同じ色をしていた。
淡い光。静かな風。鳥の声。
……なのに、胸の奥だけが落ち着かない。
荷物は多くない。
剣と、最低限の装備と、シックス・ゴースト。
それだけで、人生が変わるには十分すぎた。
「準備、できた?」
リュミエルが声をかけてくる。
いつもの森の服じゃない。
人間の街で目立たないように、少し地味な外套。
それでも、彼女だとすぐ分かる。
「……うん」
俺は短く答えた。
これから、まず彼女の両親に会いに行く。
冒険者になること、パーティーを組むことを伝えるために。
正直、気が重い。
でも、逃げるわけにはいかない。
玄関の前で、足が止まった。
父と母が、そこに立っていた。
言葉は少ない。
母のトヴィアは俺の襟を直して、
「ちゃんと食べなさい」と、ありきたりなことを言った。
父は、俺をじっと見てから――
一歩下がった。
「……行ってこい」
それだけ。
俺は、深く息を吸って、頭を下げた。
「行ってきます」
リュミエルも、同じように頭を下げる。
二人で、歩き出す。
家が、小さくなっていく。
振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん、戻りたくなる。
⸻
二人の背中が、森の影に溶けていく。
それを見届けてから、父はようやく、肩の力を抜いた。
「……昔からだ」
ぽつりと、独り言のように呟く。
「魔術だけは、まったく使えなかった」
母が、静かに隣に立つ。
「魔力感知も、詠唱も、増幅も……全部だ」
「才能がないんだと、思っていた」
父は、自嘲するように息を吐いた。
「……でも、今なら分かる」
視線は、もういない息子の方角。
「“無かった”んじゃない」
「最初から、空っぽだった」
冥府無限廻。
それは死を代償に、肉体を再構築する。
魔力という“器”を持たず、
代わりに――死そのものを循環させる異常な先天性スキル...いや、呪い。
「やっぱり、そういうことだったんだな……」
母は、何も言わなかった。
ただ、父の手を、強く握った。
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