死んでいる君に
@Itumo489
第1話 「やり直し」
目が、覚めた。
次の瞬間、
ゴンッ――という鈍い衝撃が顔面を打ち抜いた。
冷たい。
鉄だ、と遅れて理解した時にはもう遅い。
ズリッと、何かが肉の内側を抉る感触がして、視界が一気に黒に沈む。
脳が揺れる。
音が遠のく。
“死ぬ時のやつだ”と、どこか冷静な自分が思った。
――そして。
光が、戻る。
息を吸う暇もないまま、
ゴンッ。
また同じ位置。
同じ角度。
同じ冷たさ。
グチャッ
今度は骨が悲鳴を上げたのが、はっきりわかった。
何度目だ。
十?
百?
数えるのはとっくにやめていた。
意識が飛ぶ。
戻る。
殴られる。
裂ける。
潰れる。
死ぬ。
それを、ただ繰り返す。
痛みは薄れない。
慣れもしない。
毎回ちゃんと“初めて”の激痛だ。
――なのに。
心だけが、少しずつ変質していく。
最初は虚無だった。
「なんでだよ」という疑問すら、途中で溶けた。
その次は怒り。
理由のない、行き場のない怒り。
そして今は――
それすらも超えた、純粋な殺意。
⚪︎したい。
⚪︎さなきゃいけない。
誰を?
なぜ?
もうどうでもいい。
視界が暗転する直前、
微かに自分の“うなじ”に違和感を覚えた。
――ある。
そこに“何か”が突き立っている。
薄れる意識の中で、
自分の腕が勝手に動いた。
背後に手を回し、
うなじに突き刺さる“それ”を、さらに――
グッ、と押し込む。
瞬間。
ブチィッ
肉が千切れる音。
ミシミシと内側で何かが軋み、
ボンッと内臓が弾ける感覚が全身を駆け抜けた。
眼球が飛び出し、
視界は完全に闇に沈む。
それでも――
“見える”。
殴ってきた奴の気配が、
匂いが、
位置が。
まるで目で見ているかのように、はっきりと。
ああ。
――いい気分だ。
今からお前に、
同じ絶望を味わわせるんだから。
……。
痛みの奥で、別の映像が滲んだ。
⸻
「ほら、構えが甘い」
男の声。
低くて、少し不器用な喋り方。
だけど、どこか優しい。
小さな手の中には、木で作られた短い剣。
重い。
でも、落としたくなくて、ぎゅっと握りしめる。
「剣はな、シグル。
振るうためだけのもんじゃない」
目の前に立つ父は、剣を構えたまま続けた。
「守るためにも使う。
だから――怖がるな」
怖い。
正直、めちゃくちゃ怖い。
でも、父の前で弱音を吐くのは、なんだか負けた気がして。
シグルは歯を食いしばって、木剣を構え直した。
その時だった。
――森の奥。
木々の隙間に、
人影が見えた。
人……なのか?
背が高くて、
耳が、やけに長い。
「……?」
気になった。
理由は分からない。
ただ、胸の奥が、妙にざわついた。
「父さん、ちょっと――」
声をかけるより先に、
足が勝手に動いていた。
「おい、シグル!」
背後から父の声が聞こえた気がしたが、
もう止まれなかった。
草を踏み、
枝を掻き分け、
人影を追いかける。
そして――
開けた場所で、
彼女は立っていた。
銀色に近い淡い金髪。
緑がかった瞳。
人間よりも整いすぎた顔立ち。
……エルフだ。
あとになってそう理解することになるが、
この時のシグルは、ただ思った。
「――綺麗だ」
目が合った。
一瞬、彼女の表情が強張る。
逃げられる、と思った。
でも。
「……人間?」
その声は、震えていた。
敵意よりも、
警戒と不安が勝っている声。
「えっと……」
風が葉を揺らす音だけが流れる。
――そして。
彼女は、少しだけ眉を下げた。
エルフの少女は、しばらく黙ってシグルを見ていた。
逃げるでもなく、
杖を構えるでもなく、
ただ、距離を測るような目。
「……あなた」
静かな声だった。
「どうして、ここにいるの?」
「えっと……」
答えを探して、口を開いて、
でも、難しい言葉は何一つ思い浮かばなかった。
「剣、練習してた」
それだけ。
彼女は一瞬、目を瞬かせた。
「……剣?」
「うん。父さんが」
そう言ってから、
シグルは初めて“やってしまったかも”と思った。
人間。
エルフ。
この森。
大人たちが口を揃えて言う「近づくな」の条件が、全部揃っている。
でも。
「そう……」
彼女は、怒らなかった。
むしろ、少しだけ安心したように肩の力を抜いた。
「私は、リュミエル」
名前を名乗る時、
ほんの少しだけ、声が誇らしげだった。
「君は?」
「シグル」
その瞬間。
リュミエルは、ほんのわずかに目を見開いた。
「……黎明?」
シグルは首を傾げる。
「分かんない」
それは嘘じゃなかった。
自身の家の名前が何を意味するのか、
この時のシグルはまだ知らない。
「……そう」
リュミエルは、それ以上何も聞かなかった。
代わりに、視線をシグルの手元へ落とす。
「その剣……重そうね」
「重い」
即答だった。
「でも、落としたくない」
そう言うと、
リュミエルは少し困った顔をしてから、近づいてきた。
一歩。
また一歩。
人間の子供に、
こんなに近づくエルフは、きっと珍しい。
「……じゃあ」
彼女は、シグルの手にそっと触れた。
「こうやって持つと、少し楽」
指の位置を直される。
力の入れ方を変えられる。
不思議だった。
重さは変わらないのに、
剣が“嫌がらなくなった”気がした。
「すごい」
思わず声が漏れる。
リュミエルは、ほんの少しだけ胸を張った。
「魔術だけじゃないの。
私たちだって、身体は使う」
その言い方には、
どこか人間に向けられた“反論”の匂いが混じっていた。
「また、来る?」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
言った瞬間、
断られる気がして、胸がきゅっと縮む。
でも。
「……来るなら」
リュミエルは、少し考えてから言った。
「今度は、ちゃんと教えて」
その日から、
森は“立ち入り禁止の場所”じゃなくなった。
シグルにとっては。
それから、森に行くのは当たり前になった。
最初は数日に一度。
やがて、ほとんど毎日。
父の剣術の稽古を早めに切り上げて、
あるいは理由をつけて抜け出して、
シグルは森の奥へ向かった。
リュミエルは、だいたいいつも同じ場所にいた。
大きな木の根元。
日差しが斑に落ちる、少し開けた場所。
「遅い」
会うなり、そう言われる。
「今日は父さんがしつこかった」
「それ、いつもじゃない」
少しだけ呆れたような声。
でも、帰ろうとは言わない。
その時点で、シグルは分かっていた。
――待ってたんだ、と。
二人で並んで座る。
リュミエルは、よく魔術の練習をしていた。
空気を震わせて、
小さな光を灯したり、
落ち葉をふわりと浮かせたり。
派手じゃない。
でも、精密で、綺麗だった。
「すごいな」
素直に言うと、
リュミエルは一瞬だけ視線を逸らす。
「……これくらい、普通」
そう言う割に、耳が少し赤い。
代わりに、彼女はシグルの木剣を見る。
「今日は、どこまで教わったの?」
「踏み込み」
「見せて」
言われるまま、剣を構える。
ぎこちない。
でも、最初よりはマシだ。
一振り。
「……悪くない」
そう言われると、胸が少しだけ誇らしくなる。
「でも、重心が前」
そう言って、
また、そっと手に触れてくる。
何度も繰り返される、この距離。
最初は緊張していたのに、
いつの間にか、それが“普通”になっていた。
「ねえ、シグル」
ある日、唐突に聞かれた。
「人間って……みんな、エルフ嫌い?」
その質問は、柔らかい声で投げられたけど、
中身は鋭かった。
「分かんない」
正直な答え。
「でも、父さんは何も言わない」
「そう」
少しだけ、安心したような顔。
「私ね」
リュミエルは、木の葉を指先で弄びながら言った。
「この森、好きなの」
「俺も」
即答だった。
「人が来ないし、静かだし」
「……うん」
それから、ほんの少し間が空いて。
「それに、ここなら……
私が私でいられる」
その言葉の意味は、
この時のシグルには、まだよく分からなかった。
でも。
「じゃあさ」
シグルは言った。
「俺が来てる間は、人じゃないな」
リュミエルが、きょとんとする。
「どういうこと?」
「友達」
一瞬。
本当に一瞬だけ、
彼女の表情が固まった。
それから。
「……ずるい」
小さく、そう言った。
「そんなの、断れないじゃない」
それでも、否定はしなかった。
その日から、
二人は“友達”になった。
それから、時間は静かに進んだ。
木々の葉は赤くなり、
誰にも気づかれないうちに、一枚一枚、地面へ落ちていく。
森は静かだった。
何事もなかったかのように。
やがて、雪が降り、
溶けて、
芽が出て、
また緑が戻る。
それを何度も、
シグルとリュミエルは見届けた。
変わらない場所。
変わらない時間。
……変わらないと思っていた。
⸻
「背、伸びた?」
ある日、リュミエルが言った。
「たぶん」
木剣を肩に担いだシグルは、
以前よりも少しだけ大人びていた。
動きが速くなり、
踏み込みも深い。
もう、父に教わった剣術の型は一通り覚えている。
「シグル、人間の子って成長早いのね」
「リュミエルは変わらんな」
そう言った瞬間、
彼女は少しだけ口を尖らせた。
「……それ、嫌味?」
「違う」
即答。
「安心する」
リュミエルは、しばらく黙ってから、
ふっと小さく笑った。
二人は、もう12歳くらいだった。
⸻
その日は、森の外れまで足を伸ばしていた。
人間の集落に近い場所。
リュミエルは普段、そこまで行かない。
「大丈夫?」
「……うん。今日は」
その“今日は”が、少し引っかかった。
案の定だった。
木の向こうから、声が聞こえる。
「……エルフ?」
ひそひそ。
でも、はっきり聞こえる距離。
「なんでこんなところに」
「魔術使われたら――」
その瞬間、
シグルは前に出ていた。
無意識だった。
「俺の友達だけど」
それだけ。
言葉は短く、
強くもなかった。
でも、空気が一瞬、止まる。
大人たちは、シグルを見る。
次に、リュミエルを見る。
最後に、顔を歪めた。
「……子供が何言ってる」
「森に帰れ。面倒事を連れてくるな」
それだけ言って、
彼らは去っていった。
何も起きなかった。
暴力も、罵声もない。
でも。
リュミエルは、少しだけ肩を落としていた。
「……ごめん」
ぽつりと、そう言った。
「なんで?」
シグルは、心底分からないという顔で聞き返した。
「だって、私が……」
「関係ない」
遮る。
「友達だろ」
リュミエルは、驚いたように目を見開いてから、
ゆっくりと視線を落とした。
「……人間って、ずるい」
「そうか?」
「そう」
その声は、
少しだけ震えていた。
でも、泣かなかった。
それが余計に、胸に刺さった。
⸻
帰り道。
森に入った瞬間、
空気が少し変わった。
静かすぎる。
鳥の声が、聞こえない。
「……ねえ、シグル」
リュミエルが、足を止める。
「最近、この辺……
何か、おかしいと思わない?」
シグルは、答えなかった。
代わりに、
地面に残る“深い爪痕”を見つめていた。
その朝、父は珍しく真剣な顔をしていた。
「森に近づくな」
それだけで十分だった。
「討伐難易度A級の大型魔獣が出た。
今朝、森の外れの集落が襲われた」
剣を握る手が、少しだけ強くなる。
「お前が相手にできるものじゃない」
それで話は終わった。
……はずだった。
⸻
胸の奥が、ざわついていた。
理由は分からない。
ただ、嫌な感覚だけが、ずっと消えない。
シグルは木剣を掴んだ。
考えるより先に、身体が動いていた。
森へ向かう。
いつもの道。
いつもの木。
――そこで。
悲鳴が、聞こえた。
短く、切れるような声。
聞き間違えるはずがない。
「リュミエル……!」
走る。
息が切れる。
枝が腕を裂く。
そして、視界が開けた。
⸻
そこにいたのは、一匹の魔獣。
グリム・ストーン亜種。
四足で地を踏みしめ、
岩のような外骨格が全身を覆っている。
骨が、露出しているようにも見えた。
いや、違う。
骨そのものが、鎧になっている。
大きすぎる。
近づくだけで、圧がある。
その足元で、
リュミエルが倒れていた。
耳の先から、血が垂れている。
「……っ!」
考える暇はなかった。
シグルは、叫びながら突っ込んだ。
木剣を振り上げ、
全力で切りかかる。
ガンッ
硬い。
刃が、通らない。
次の瞬間。
ドンッ
尻尾。
ただ、それだけ。
世界が横に回転した。
⸻
バキィッ
背中に、衝撃。
木が砕ける音。
身体が、幹にめり込む。
肺が潰れたように息が詰まり、
口から、熱いものが溢れた。
ゴボッ
血。
内臓が、どこかおかしい。
それでも。
シグルは、立ち上がった。
足が震える。
視界が揺れる。
でも、目は離さない。
グリム・ストーン亜種は、
一度リュミエルを見てから――
ゆっくりと、視線をシグルへ移した。
獲物が、変わった。
⸻
そこからは、一方的だった。
爪が振るわれる。
グシャッ
右腕が、ありえない方向へ曲がる。
骨の感触が、内側から響く。
叫ぶ暇もない。
次。
ミシィッ
左脚。
膝が、折れる。
地面に崩れ落ちる。
痛みが、遅れて追いつく。
息を吸うたび、
胸の奥が焼けるように痛い。
立ち上がろうとする。
でも、身体が言うことを聞かない。
怖い。
初めて、はっきりと分かった。
――死ぬ。
グリム・ストーン亜種が、
大きく口を開ける。
影が、落ちる。
その瞬間。
シグルの視界に、
リュミエルの姿が映った。
怯えた目。
でも、叫ばない。
ただ、こちらを見ている。
「……ごめん」
声にならない声。
⸻
ガリッ
頭に、衝撃。
視界が、暗くなる。
思考が、ほどけていく。
冷たい。
遠くで、
何かが潰れる音がした。
⸻
そして。
世界は、一度、終わった。
......。
いつも通り、
私はその木のそばにいた。
陽の当たり方も、
風の匂いも、
全部、いつもと同じ。
……だから、油断していた。
がさ、と
草を踏む音がした。
「シグル?」
きっと、またふざけている。
そう思って、声をかけた。
でも――
次の瞬間、
喉が、凍りついた。
そこにいたのは、人じゃなかった。
大きい。
近い。
骨で覆われた、獣。
魔獣だと理解するより先に、
身体が固まった。
逃げなきゃ。
分かってる。
でも、足が動かない。
前足が、ゆっくりと持ち上がる。
その瞬間、
やっと身体が反応した。
しゃがみ込む。
ザリッ
耳元を、何かが掠めた。
熱い。
触れると、指が赤く染まった。
痛かった。
でも、それは問題じゃない。
この魔獣は、
私を“生き物”として見ていない。
食べ物として、見ている。
胸が、ぎゅっと縮む。
息が、浅くなる。
声が、勝手に出た。
「――――っ!」
悲鳴。
森に、響いた。
その直後だった。
「リュミエル!!」
聞き慣れた声。
振り向くと、
シグルが走ってきていた。
……来ないで。
そう思ったのに。
同時に、
胸の奥が、どうしようもなく熱くなった。
嬉しかった。
助けに来てくれた。
その感情を、
喜ぶ暇すらなかった。
シグルが、魔獣に向かって突っ込む。
木剣を振り上げて――
次の瞬間。
シグルの姿が、
視界から消えた。
ドンッ
重たい音。
木が、砕ける音。
振り向いた時、
彼は幹にめり込んでいた。
服が、赤く染まっている。
口から、血を吐いていた。
「……シ、グル……?」
声が、震える。
立ち上がろうとする彼の姿が、
あまりにも――
小さく見えた。
シグルは、膝をついていた。
右腕は、だらりと垂れ下がっている。
関節の位置が、明らかにおかしい。
左脚は、地面に着いたまま動かない。
骨が、内側で折れたまま固まっている。
それでも、
彼は立ち上がろうとしていた。
息を吸う。
ヒュウ、と空気が漏れる音。
肺のどこかが、潰れていた。
グリム・ストーン亜種は、低く唸った。
苛立っている。
思ったより、獲物がしぶとい。
前足が、振り上げられる。
ズンッ
地面が揺れる。
シグルの身体が、吹き飛ぶ。
地面を転がり、
木の根にぶつかって止まった。
口から、血が溢れる。
ゴボッ、ゴボッ
泡立った赤。
視界が、滲む。
それでも、
彼の目は、リュミエルの方を見ていた。
――無事か。
その確認だけで、
頭がいっぱいだった。
グリム・ストーン亜種が、近づく。
足音が、重い。
逃げ場はない。
シグルは、剣を探した。
もう、握れない。
指が、動かない。
恐怖が、遅れてやってくる。
全身が、冷える。
「……っ」
声にならない息。
魔獣が、口を開く。
中は、暗く、
歯が、異様に白かった。
次の瞬間。
ガリッ
頭部に、強烈な衝撃。
視界が、完全に崩れた。
バキ、グチャッ
骨が砕ける音。
肉が潰れる感触。
噛み砕かれた。
思考が、千切れる。
痛みが、爆発する前に――
意識が、落ちた。
⸻
シグルは、死んだ。
⸻
グリム・ストーン亜種は、
しばらくその場で動かなかった。
咀嚼音だけが、森に響く。
グチャ、グチャ
血が、地面に滴る。
やがて、
魔獣は顔を上げた。
次の獲物を探すために。
⸻
視界が、なかった。
闇だ。上下も前後も分からない、音すら存在しない空間。
……あれ?
俺、確か――
思考が追いついた瞬間、理解だけが先に来た。
ああ、死んだんだ。たぶん。
その闇の中に、**“何か”**が立っていた。
目は見えないのに、そこに居ると分かる。
魔獣でも、リュミエルでもない。
人の形をしていて、人ではない――死神。
そいつは何も言わない。
でも、分かった。
見下してる。嘲笑ってる。
「間に合わなかったな」
声は直接、頭に響いた。
映像が流れ込んでくる。
俺が吹き飛ばされる瞬間。
木に叩きつけられ、血を吐いた自分。
そして――その向こうで、取り残されたリュミエル。
動けない。
叫べない。
ただ、見せられる。
目の前で、友達が食われる。
助けたかった。
守るって、決めてた。
なのに俺は、ここで突っ立ってるだけだ。
胸の奥が、じわじわと熱くなる。
それは怒りでも、後悔でもなかった。
もっと単純で、もっと醜い感情。
――殺したい。
理由なんていらなかった。
目の前に居るこの存在が、
この光景を“見せている”という事実だけで十分だった。
「お前を、殺す」
死神が、初めて感情を見せた。
楽しそうに、口元を歪める。
「できると思うか?」
その瞬間、俺の中で何かが壊れた。
暗闇の底で、何度も見てきた光景。
壊れて、死んで、
それでも――また組み上がる感覚。
骨が鳴る。
肉が戻る。
世界が、再び形を持つ。
闇に、亀裂が走った。
「……できるか、じゃない」
俺は立ち上がる。
さっきまで“死んでいた”はずの体で。
「やるんだよ」
次の瞬間、闇が弾けた。
痛い。
こんな痛み、初めて味わった。
肺が焼けるみたいで、息を吸うたびに胸が軋む。
足も、腕も、まともに動いていないはずなのに――それでも。
それでも、ここで立たなきゃ。
今じゃなきゃ、いつ立つんだよ。
リュミエルを守るチャンスが、来たんだ。
逃したら、もう二度と来ない。
やるしかない。
あの魔獣を、殺すんだ。
――俺が。
――この手で。
そう決めた瞬間、シグルは一歩、前に出た。
魔獣がこちらを見る。
だが、動かない。
明らかに、硬直していた。
……そんなに、俺が怖いのか?
その刹那、魔獣が体勢を立て直し、前足を振り上げる。
鋭い爪が、空気を裂いて迫ってくる。
――遅い。
今のその攻撃は、シグルにとって無力だった。
振り下ろされる前足に、手を添える。
その瞬間、視界が赤く染まった。
次の瞬間には、
魔獣の前足は、地面に転がっていた。
遅れて、絶叫。
痛みで悶える魔獣を見下ろしながら、
シグルは静かに息を吐く。
「……次は、俺の番だ」
折れた木剣を拾い上げる。
刃はない。
だが、そんなものは必要なかった。
自分が受けた恐怖。
動けず、逃げられず、終わりを待つしかなかったあの感覚。
――全部、返してやる。
魔獣の目に、木剣を突き立てる。
硬い。
だが、構わない。
動かなくなるまで。
声が、途切れるまで。
何度も、何度も、突き立てた。
……静かだ。
さっきまで耳を裂いていた唸り声も、骨が擦れる音もない。
ただ、血の匂いだけが鼻につく。
シグルは荒い息のまま、ゆっくりと振り返った。
「……リュミエル」
声が出たことに、少し安心する。
足取りはふらついていたが、それでも彼女の方へ歩いた。
地面に座り込み、震えているリュミエルが見える。
「……怪我、してないか?」
そう言って、手を差し伸べる。
その瞬間だった。
――違和感。
視界に入った自分の手が、妙に小さい。
指が短い。
骨ばった感触がない。
一瞬、何を見ているのか理解できなかった。
「……は?」
手のひらを、裏返す。
握る。
開く。
何度やっても変わらない。
「……なんだ、これ……」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
急いで自分の腕を見る。
細い。
服の袖が余っている。
息が、急に苦しくなった。
「違う……違うだろ……」
喉が詰まり、言葉が途切れる。
「俺は……さっきまで……」
視線が落ちる。
血に濡れた地面。
倒れた魔獣。
そして――自分の体。
「……戻って、ない……?」
理解した瞬間、頭の中が真っ白になった。
守れた。
殺した。
生き返った。
その代償として、
自分は削られた。
「……ふざけんな……」
膝が、がくりと落ちる。
視界が揺れる。
耳鳴りが酷い。
リュミエルが何か言っている。
口が動いているのは見えるのに、音が遠い。
「……リュ……」
手を伸ばそうとして、力が入らない。
極限の疲労。
理解できない現実。
そして、初めて感じる“戻れない”という恐怖。
意識が、暗く沈んでいく。
最後に見えたのは、
泣きそうな顔で自分を抱き留めるリュミエルだった。
――そこで、世界が途切れた。
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