第8話 やってしまった
やってしまった。
エリザベートは身体が震えるのを感じていた。
「あ……」
目の前では何が起こったのかわからない、とでも言いたげに、目を見開いてこちらを見つめているアリス。その太陽にきらめく赤毛から紅茶を滴らせて、呆然としている。
そしてその隣のヴィルヘルム王子は、どうしたものか、と思ったのだろう。一瞬、迷ったようにエリザベートとアリスを見比べた後に、すぐにアリスの方にパケットって声をかける。
「大丈夫かい? いきなりの事でびっくりしただろう?」
エリザベートを攻めるのではなく、まずはアリスのことを心配する。
臣民を導く王子として、できすぎたふるまいである。
「いえ、大丈夫です。すみません……きっと私が失礼な言動をしてしまったから」
そうやって、切なげに眉をひそめて答えるアリス。
その顔はあの処刑される時と同じような、何か満ち足りてような顔をしている。
どれだけ苛められても絶対にくじけない、健気な少女。そんな彼女に、きっとヴィルヘルム王子も感化されるに違いない。
(まずい、まずい、まずい、まずい!!!)
エリザベートは自分の顔から血の気が引くのを感じた。これはきっとアリスの想定内だ。ここで彼女の言葉に従ってしまったから。また、断頭台が近づいてくる。
「まずは顔を拭かないといけないね。そんな姿でずっといたら、風邪をひいてしまうかもしれない」
ヴィルヘルム王子はさらに穏やかに声をかける。
「そう、思うだろう、エリザベート?」
ヴィルヘルムの顔には笑顔が浮かんでいた。国民に接する時と同じような、穏やかで完璧な笑み。国民にとっても憧れとなるようなそんなすべてが計算されつくした、その表情がこちらにしっかりと向いている。
「あ……ああ……」
しかし、その笑みは決してエリザベートを救うものではない。
むしろ恐怖を加速させる。
(今すぐ殺される……そんなことは、ないはず……! でも、そこまで気に入っている彼女を……!!)
すでに立っているのもやっとだった。
うまく考えもまとまらず、何を言えばいいのかもわからない。
それでも何か言わなくてはいけない。
何か、この場をどうにかする決定的なことを……!
「ふ、ふん! そうですわね。そのような失礼な庶民と飲むお茶なんてありませんわ!! このような下賤なものには、この飲み方がちょうどいいでしょう!」
だが、どれだけ考えても打開の言葉など一向に出てこなかった。
それどころか、自分でも性格最悪だ、とわかってしまうような言葉が口をついて飛び出した。
「エリザベート!」
ヴィルヘルムの声が飛ぶ。だが、エリザベートは止まらない。
もう止まることなどできない。こうなれば今は徹底的に逃げるしかない。
「失礼。殿下、私やはり気分が優れませんわ」
震える指先で必死に口元を隠すように扇を広げる。そして、できるだけ背筋を伸ばして、ヒールを響かせながら中庭から去っていく。
(これ以上、無駄なことを言って、ヴィルヘルム王子の好感度を下げられない!!)
その時にヴィルヘルムとアリスがどんな表情をしていたのかもわからない。そんなことよりも、ただ両足を動かすことだけで精一杯だったのである。
(どうしよう……どうしたら?!)
そのまま走り去ってしまいたい欲求を抑えて、エリザベートは中庭から廊下に戻る。
ヴィルヘルムは追いかけてくる様子はない。
「あ……ああ……あ……」
そこでようやく廊下の石畳に座り込む。扇を持ち上げる気力もなく、ドレスの裾が汚れることさえ気にすることもできない。
「エリザベート様?! どうされたのですか?!」
「じ、ジェーン……?」
声をかけてくれたのはエリザベートのメイドであるジェーンだった。お茶会のために、近くで待機していたのだろう。
「中庭の方からエリザベート様だけがこちらに来るのが見えまして……何があったのです? お顔も真っ青で……まさか、あの庶民の女が?!」
ジェーンが慌てたように言ってくる。
鏡がないからわからないが、よほどひどい表情をしているらしい。
「ジェーン……どうしましょう……私、どうしたら……」
「ああ、おかわいそうに。とにかく、まずはお部屋に行きましょう。そのような表情のエリザベート様をそのままにしておけません」
ジェーンがエリザベートに肩を貸してくれる。そのまま、ゆっくりと彼女に付き添われて歩き出す。
平素であればそんなことをするのははしたないと言われてしまうだろうが、今は緊急事態だ。
ジェーンに心配されるほど顔色が悪いのであれば、体調不良ということで見逃されるだろう。こんな時でさえそんなことを考えなくていけない自分に自嘲しながらも、エリザベートはちらりと自分が通ってきた廊下を見た。
人影はない。
追いかけてくる様子のないヴィルヘルム王子とアリス。
ふたりは今どうしているのだろうか。
(何もなくただお茶会をしていると思えない。でも、そんなことになっていたら……)
考えたくもないことを思っていると、余計に吐き気がしてしまいそうになってエリザベートは諦めて目を閉じた。
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