第2話 彼女は唐突に目の前に
夢を見たからと言って、それほど恐ろしいことがいきなり起こるわけではなかった。
「おはよう、エリザベート」
式典のための部屋で待機していると、扉が開く。
「おはようございます、ヴィルヘルム殿下。今日もご機嫌麗しく」
エリザベートは優雅にドレスを広げて挨拶をする。
それは何千回、何万回、と練習してきた動作だ。たった手足の一挙手一投足でさえ、美しく洗練されたものでなければならない。それをエリザベートは叩き込まれていたのだから。
(だから、こんなところで動揺していられない)
「ああ、そうだね。君に会えたからかな?」
そんなエリザベートの葛藤など知りもしないで、ヴィルヘルム王子が部屋に入ってくる。
輝くような金の髪は、エリザベートのものとは違って銀にも近い色だが、それがまた涼し気な瞳とあいまってよく似合っている。瞳は湖面のような水色で、少し細身だが背の高いその姿は国民の人気も高い。
「ふふ、嬉しいですわ、ヴィルヘルム様」
そんなヴィルヘルムにエリザベートも笑顔を向ける。
(もちろん、お互いに恋ではないのでしょうけれど。まあ、それでも容姿に関してはかっこいい、わよね)
生まれる前に決められていた婚約者。ただ、それだけの話。
だから、きっとヴィルヘルムだって本当は他に好きな人がいたのかもしれない。だが、今のところ、現状ではエリザベートとの婚約を断ることはできない。
(王になってしまえば、その後は愛人を囲うなり、もしくは無理やり王という立場によって婚約破棄をすることはできる……でも、あの夢ではヴィルヘルム殿下、と私はまだ呼んでいた……)
それがただ自分の都合のいいように改変されているだけ、と言われればそれまでだが、王になる前にヴィルヘルムがエリザベートではない女を妃にするのならば、やはりエリザベート自身が反逆材になる程度のことをしなければ、難しいだろう。
「今日来る姫君とはこれから仲良くしてもらうからね、よろしく頼むよ」
「ええ……」
だから、ノイシュタット王国に反逆しているようなそぶりを見せなければいいだけだ。そう心に誓ってエリザベートは視線を下げた。
式典の中で婚約者であるエリザベートの役割は単純なものだ。
決められた時以外に動かない、表情も動かさない。
たったそれだけ。
椅子に座ったまま、ただひたすらに何時間でもつまらない式典を見続ける。それが将来王妃になる者の使命だ。
王も妃も同じだし、ヴィルヘルムも同じように爽やかな笑みを張り付けたまま、ひたすらに座っている。
(それにしては、わりと長い式典ね)
最初は登園の姫君を迎える感謝とともに、彼女の血筋の正当性を説明するための長い口上が述べられて、さらに音楽が奏でられる。それが終われば、またもう一度感謝の口上が述べられて、ようやく姫君がお目見えになる。
(ただの王の遠縁の姫君、それを王宮に向かえるだけならば、ここまでしなくてもいいのだろうけれど。それだけ利用価値があるから、最初から豪華な出迎えをして権威を示したいのね)
むしろ豪華にしなければ、姫君の血筋が疑われかねない。そうなると他国への同盟の「贈り物」として使えない。
そういう恐れもあるから、今回の式典はかなり王も指示していたに違いない。
そう思いながら、隣に座るヴィルヘルムの顔をエリザベートは目線だけで窺う。
(ヴィルヘルム様は、いつも通りだし……やっぱり気にしなくていいのかしら)
朝から観察していたが、おかしなところは何もなかった。
宮中の女の誰かを追いかけているような噂があれば、きっと、婚約者であるエリザベートのところには尾ひれがついて届くだろうし、それがないと言うことを疑わしいことさえしていないということの表れなのだと思う。
(まあ、夢は夢よね)
これ以上考えすぎてもよくない。
今は目の前のつまらない式典を何事もなく終えることが先決。
「それでは、アリス・フォン・ローベンシュタインン殿下のご入場である!」
朗々と響く侍従の声に、場内の空気がわずかに張り詰めた。重厚な音を立てながら両開きの扉がゆっくりと開かれる。
そこから一歩踏み出したのは、若草色のドレスをまとった少女だった。
透き通るような白い肌に、柔らかく波打つ髪は赤くわずかに金が混じる程度。顔立ちはどこか素朴で親近感のわくもの。彼女が歩を進めるたび、薄いシフォンの裾がふわりと揺れ、足もとから花びらのように光が舞った。
「ノイシュタット王国王家の遠縁、ローベンシュタイン公爵家の令嬢、アリス・フォン・ローベンシュタイン殿下であらせられる」
侍従がもう一度高らかに名を呼び上げると、参列者の間から一斉に拍手が起こる。アリスは微笑みをたたえ、軽やかに裾を摘んで礼をする。
その動作はエリザベートのような完璧なものではないが、それでも見る者を惹きつけるような愛らしさがある。
「このたびは、かような盛大なるお出迎えを賜り、光栄に存じます。陛下、そして皆さまのご厚情に、心より感謝申し上げます」
その声は透き通るように澄んでいて、まるで鈴の音のように響いた。
王は微笑み、ゆるやかにうなずく。
「アリス、遠路はるばるよく参られた。お前のご母堂は、我が妹の血筋を引く。王家の一員として、今日よりこの宮に迎え入れよう」
「ありがたき幸せにございます、陛下」
再び、深く、優雅に礼をするアリス。その仕草の一つひとつが、まるで人々の目を奪うために計算されたかのようで、観衆の視線が彼女に吸い寄せられていく。
「あ……」
皆がアリスに注目する中、エリザベートは思わず小さく声を上げた。
「……エリザベート……?」
隣に座るヴィルヘルムが、エリザベートの家に気が付いて、思わず名前を呼んだ。しかし、その手の震えをエリザベートは止めることができない。
「な……んで……」
衆目の中で微笑む少女。
それは夢の中で見た、ヴィルヘルム王子の傍にいたあの女だったのだから。
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