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 絶賛売却中の空き地に三方から囲まれた、民家とほとんど見分けがつかない乳白色の建物。


 おかしな点があるとするなら、屋根に小さな十字架が立っているぐらいのものだ。


 そっとチャイムを鳴らして扉を開けると、十畳ほどの狭苦しいスペースに詰め込まれたミニマムな礼拝堂が奥に見えた。


 十人も入れば大分窮屈になるだろう。


 荘厳さと所帯臭さが完璧な比率で同居する中々稀有な空間だった。


 僕は池田さんを探した。


 いつもは奥のチャーチチェアに座って事務作業しているのが常だったが、今日はどこにも気配がなかった。


 初めて会った時に、自分がいない時は必ず入り口付近で待つように厳重に注意されていた。


 しばらく右往左往して、それから入り口の柱を背もたれにして時間を潰していた。


 その時だった。


 ふと、甲高いの呻き声のようなものが聞こえてきた。


 自分の心臓が縮むのが感覚として分かった。


 最初はどこかで流れているTVから流れてきたものかと思ったが、それにしては生々しく臨場感があった。


 よく耳を澄ませば小動物のような呻き声は、ボリュームを変えながら断続的に流れ続けているようだった。


 礼拝堂を照らす淡いランプの橙色が怪しく揺らめいて見えた。


 それは間違いなく人の声だった。しかも、ごく幼い子供の声だ。


 その時感じた孤独と恐怖は、かつて法廷に一人立っていたあの時と限りなく似ていた。


 僕は恐れ、そして安心を求めた。


 それが映画の一幕なのか、単に神父の身内の子どもが何か粗相をしただけなのかを確かめて、なんだただの枯れ尾花じゃないかと嗤いたいという誘惑に勝てなかったのだ。


 声は上の階から聞こえるようだった。


 玄関の側に建てつけられた階段には僕の腰ぐらいの高さの侵入を阻む鋼鉄製の柵が取り付けられていた。


 意を決して、僕はそれを押し退けて潜り抜ける形で中へと入った。


 ただ安心したいという欲求だけが身体を動かしていた。


 だってそうじゃないか? 自らに語りかける。


 こんな出来の悪いサスペンス映画みたいな出来事が、僕なんかの眼の前に現実として転がっている。


 そんなのは間違っているし、ありえない。


 階段はある程度開けた広間へと繋がっていた。


 微かに続くか細い声を頼りに歩を進める。


 やがて、ある部屋の前に行き着いた。


 その部屋は遠くから見れば枠もなく、ニス塗りの白色の壁と完全に同調してカムフラージュされていた。


 目の前で確認してようやく扉であることに気がついた。


 取手は凹みで引き戸式になっていて、わずかな陰影だけで認識することができた。


 どうやら鍵は取り付けられていないらしい。


 これ以上は後戻りできないと肌で感じつつ、僕は愚かにもその部屋に足を踏み入れた。



 中は至って普通の寝室だった。


 樫製のベッドとタンス、資料や帳簿類で埋めつくされたテーブル、夥しい数の学術書が詰め込まれた本棚。


 大量のものが詰め込まれているが、家具は色調も材質も統一されていて、綺麗に整頓がなされている。


 持ち主の性質を鏡写しにしたような律儀で質素な部屋だった。


 僕はようやく胸を撫で下ろしたが、そうは問屋が卸さなかった。


 部屋の隅に僕を招き入れるように梯子が敷かれていた。


 まるで暗闇へと橋渡しするかのように屹立している。


 なおもやまない、子どものすすり泣く声はそこから続いていた。


 もはや恐怖は感じなかった。


 これ以上は駄目だと危険を発する脳内信号は、軒並み麻痺してしまったようだった。


 僕は溢れ出した唾を飲み込んで、手擦へと手をかけた。



 梯子を登り切り、僕が見たのは鉄格子の奥で縮こまった痩躯だった。 


 「あ…あぁ」と情けなく怯えた声が漏れる。


 それは一瞬、犬か猫のような小型の獣のように見えた。


 しかし違った。


 布きれを纏った餓鬼のように痩せ細った少年が微かに縋るような眼で僕を見た。


 彼が発し続けていた言葉の正体が「助けて」であることにようやく気づいた。


 年齢は十歳ほどだろうか。


 ほとんど暗闇に包まれていたのでその人相は分からなかったが、少なくとも、僕がおよそ知り得る子どもという概念からかけ離れた容貌だということは認識できた。


 そういえば数時間前、ナガシマさんと別れる時に彼は言っていた。


 最近、色々な地区で行方不明者や不審な死を遂げた人間が増えている。お前も気をつけろ、と。


 恐怖で目の前が真っ白に染まり、僕は後ろずさりして来た道を引き返した。


 梯子に足をかけたところで一歩踏み外し、そのまま背中から一メートル以上の高さを滑るようにして落ちた。


 痛みに顔を顰めるが、そのままのたうち回っている余裕はなかった。


 早く逃げなければ。


 誰かに助けを求めなければ。


 〈脳錠〉により、それが不可能な身の上であることすら忘れて、背中を押さえながら部屋を後にした。


 恥も外聞もなく、悲鳴を響かせ口を半開きにしながら僕は逃げた。


 階段を駆け降りる。ようやく光が見えてきたところで、その下からぬるりと人影が現れた。


 池田さんだった。


 彼は怒りや驚きの形相を浮かべるでもなく、温和ないつもの顔の上で悲しげに眉を下げていた。


「……見てしまったのですね。残念です」


 僕は何も言葉を返せなかった。


 当然だ。


 しかし、その正体を知ってしまった今となってさえ、僕は彼を糾弾できなかった。


 何かの間違いだという思いが消えてなくならなかった


 拘置所から解放され、初めて出会った彼の顔がフラッシュバックした。


 その右手に刃渡り二十センチほどのナイフが握られていることには気づかなかった


「望月さん。あなたは良き隣人であり、友人でした。どうか許してください。御心のままに」


 胸の前で十字を切ると、彼はこちらににじり寄ってきた。


 来た道を引き戻して、二階から窓を伝って逃げても、僕には他の誰かに助けを求めることができない。


 この家で見たことを警察に話しても、過去に罪を犯した〈脳錠〉持ちの自分と町の名士である神父、どちらの言い分を彼らは信じるだろう。 


 ただでさえ、常識では計れないような事件なのだ。


 それに僕の居場所は〈エピステーメー〉の発信ですぐに分かる。


 ここで助かったとしても、早かれ遅かれ僕は池田さんに殺される。



 いや待て。僕は死ぬことを望んでいたんじゃないのか?


 愛した人の死と犯罪者の烙印を押された穢れた人生に耐えられず、ずっと自分を殺したがっていたんじゃないか。


 自分で自分を殺せないのならば、誰かに殺してもらえばいい。


 その逆転の可能性に、僕は薄々気づいていた。


 しかし元より他人とコミュニケートできない〈脳錠〉持ちにとって、それはあまりに望みがなさすぎる希望だった。


 そのチャンスが今まさに到来している。



 怖れる必要がどこにある?


 悔しがる理由がどこにある?


 僕は後ずさりするのを止め、観念して瞳を閉じた。



 一拍の後、呻き声が聞こえた。


 それは僕の咽喉から漏れたものではなかった。


 床に金属が落ちる乾いた音が聞こえた。


 目を開けると、目の前には驚愕と苦悶の表情を浮かべる池田さんがいた。


 彼は絞り出すような嗚咽を漏らし、数回痙攣すると地面に倒れた。


 その背中には、彼のものより数十センチ刃の長い金属のナイフが刺さっていた。


 僕ははっとしてその奥を見た。


 彼を刺した誰かがそこに佇んでいた。


 その顔を確認して、僕はいよいよ驚愕する。


 女の子だった。


 頭の位置が僕の肩の高さにも満たないほど小柄で、一度目を離せばもう消えているんじゃないかというぐらい華奢な体躯をしている。


 髪はうなじが完全に露出するほど短く切り揃えられ、黒髪の中に目を引く鮮やかな金色が混じっていた。


 一瞥しただけでは、少年ではないかと見間違えそうな容姿をしている。


 僕が咄嗟に彼女だと判断できたのは、ワイシャツの下に紺色のミニスカートと女子用の制服を着ていたからだった。


「死んだ方が嬉しかったですか?」 


 その矢尻のような鋭い視線は僕を真っ直ぐに射抜いていた。


 蔑むような冷ややかな声が静謐な空間を満たした。


 僕は、はっとして倒れている池田さんの元に駆け寄り、その身体を寄せて弄った。


 どうやらもう呼吸をしていないようだった。


 もう事切れてしまったのだ。


「……なぜこんなことを?」


 僕は彼を殺した制服の少女を見上げて、睨んだ。


 目の前の人物に対して、自分の命を助けてくれた恩よりも、恩人が殺されたことの憎しみが勝ったのだ。


 彼女もまた僕を細い目で睨み返した。


「やっぱり私が視えるんですね」


 意味が分からなかった。


 こいつは頭がおかしいのだろうかとさえも思った。 

 僕は怒りに任せて、彼女の胸元に掴みかかった。


 当然、脳内に埋め込まれた〈脳錠〉によって、その手は虚しく空を切るはずだった。


「何を言っているんだ? それよりも答えろ。どうしてこの人を殺した?」


 他人に対して怒りが湧いたのは久しぶりだった。


 しかし、すぐにその怒りは驚きに代わった。


 僕の手は確かに彼女のワイシャツの襟を掴んでいた。


 少女はすぐさま僕の手を振り解き、腕を掴んで逆にこちらを引き寄せながら耳元で囁くように言った。


「その理由はあなたがよくご存知でしょう? この人は町の神父という立場を利用して、子どもたちを拉致監禁し、自らの欲望を満たすため虐待を行なっていた、らしいですね」


 僕は言葉に詰まる。


 池田さんがひた隠しにしていた凶行の跡を他ならぬ自分で暴き、この目で見てしまったのだ。


 罪のない子どもたちがどれだけ犠牲になったのか分からない。


「……だからって、何も殺すことはなかったはずだ」


 そう僕が糾弾しても、彼女はつまらなそうに僕を見つめていた。


「いいえ、殺す理由があるんですよ、私には。私は人を殺さないと生きていけないんです」


「は?」余りにも浮世離れした彼女の物言いに、僕の口から間抜けな声が漏れた。


「そのままの意味です。別に人殺しが生きがいとか、そうしないと生を実感できないとかいう訳じゃありません。ただ単にそうなんです。言うなれば、生理として私は人を殺さないといけない」


 僕は今一度彼女の顔をじっと見つめた。


 一見、凛としたボーイッシュな外見をしているが、目元は若干の隈ができて不健康そうに落ちくぼんでいる。


 欠点を踏まえても、存外整った顔をしているようだった。


 容姿や風貌だけをみれば、とてもただの狂人だとは思えない。


 しかし、それよりも気になったことがあった。


 なぜ、他者に接触できない僕が彼女に触れることができたのか。


「もしかして、君は〈エピステーメー〉持ちなのか?」 


 こんな学生服を着て幼さを払拭できていない少女が受刑者などとはとても思えなかった。


 しかし、今まさに彼女は人を殺してみせたのだ。


 これ以上ない証拠はまたとないように思えた。



 そこで僕ははっとする。


 頭が馬鹿になっていた。


 〈脳錠〉持ちであれば人を殺せるはずがないし、その前に会話が成り立たない。


 他者に接触ができないのだから。


 絶対にシステムによる介入を受けて、ナイフが被害者の肉に届く前に意識の改変を受けてしまうはずだ。


 僕は困惑した。


 〈脳錠〉持ちが触れることも話しかけることもできるのに、彼女は同類ではない。


 じゃあ何か政府関係者なのかという推理が浮かんだが、こんな少女がそのような身分である可能性はより低い。


 恩人の死体が目の前に転がっている事実さえ忘れて、僕は山中で遭遇した熊と対峙するかのように彼女を見つめて牽制し続けた。


 彼女は僕の方に近づいて、それから冷たくなった池田さんの背中から緩慢な動作でナイフを引き抜いた。


 とぷりと血が漏れて、彼の着ていたスーツを汚していった。


「契約でもしましょうか。私は誰かを殺さないと生きていけない。私はもっと生きていたいんです。だからこれからも人を殺さないといけない」


 だから手伝ってください。


 静かに彼女は言った。


「その代わり、あなたの願いを叶えてあげます」


 少女はナイフを無遠慮に向けてきた。


 それは悪魔の申し出だった。


 確かに彼女であれば成し遂げることができる。


 死に損なった僕の息の根を目の前の神父のように確実に止めることができる。


 この際、殺人鬼だろうが悪魔だろうがどうだっていい。


 僕はあまりに突拍子のない現実に耐え切れず、引きつった笑いを浮かべながら彼女に答えた。


「……ああ、呑もう。だから早く、僕を殺してくれ」

 

僕が答えると、少女が小さく笑ったような気がした。


「じゃあ、お近づきの証にあなたの名前から教えてください」


「望月あおい。君の名前は?」


「エイリとでも呼んでください、望月蒼さん。それじゃあ、私に殺されるその日までよろしくお願いします」


 エイリ、えいり、鋭利、影裏、営利。


 ろくでもない言葉ばかりが浮かぶ名前だ。


 奇妙な名はしかし、目の前の奇怪な少女の雰囲気に似つかわしいとさえ思えた。


 その握られたナイフが音を鳴らして床に落ちる。


 言い終えるとまるで操り人形の糸が切れたように、彼女の身体は突然地面に倒れ伏した。



 今頃になって思い出した。


 そういえば、今日は僕の二十歳の誕生日だったっけ。

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