iv
ナガシマさんと別れてから、スク―ターで家に帰る前にコンビニでペットボトルの水を数本購入した。
自分からは店員に話しかけることが出来ないので、僕たちはレジ周りの惣菜などを購入することができない(もっとも欲しいと思ったことは一度もないが)。
自宅に着いてからようやく気づいた。
溺れ死に損なったせいか、それとも砂浜で長い間気を喪っていたせいか、身体中に鎖を巻き付けられたようにだるくて堪らない。
素直にベッドに横になることにした。
デスクの上に置かれたノートの書きかけを横目に無視を決め込みながら、何も考えないように努めながら目を閉じた。
どうせ今の自分には、やらなければいけないことなど一つもありはしないのだ。
一日の使い道と言えば本を読むか、散歩に行くかしかない。
何桁の大金よりも貴重で、誰もが指を咥えて羨ましがだろう十九歳の夏は無為に溶けていった。
きっとかつてのクラスメイトたちは、小綺麗なキャンパスで勉強に、恋愛に、青春に、与えられた使命に励んでいるのだろう。
今や、そんなことを考えることすら億劫になってしまった。
全てがどうでもよかった。
世界も、自分も緩やかに終わりを告げて欲しい。
そんな淡い願望だけが睡眠薬として機能した。
そのせいだろうか。夢を見た。
言ってしまえば凡庸かもしれないが、世界に自分しかいない夢。
街路、電車、スーパー、コンビニ、古本屋、夏の海岸、どこまで歩いてもただ僕一人しかいない。
それ以外の風景は少しも寂れた様子はなく、たった五分前に全人類が消失してしまったようだった。
世界はただセピア色のフィルターをかけたように寂寥としていながらも澄んでいた。
僕は自分しかいない街を歩き続けた。
歩いて、歩いて、歩いて、ある時不思議に思った。
その独りぼっちの自分を見ている観測者としての自分は一体何者なのだろうか?
そんな疑問を抱いた瞬間、意識が速やかに覚醒した。
微かな頭痛に眉を顰めながら、どこかに放っておいた旧式のベゼルの太いタブレット端末を探す。
まだ日は落ちていない。
寝ていた時間は案外三時間にも満たなかった。
随分変な夢を見たなとため息を吐くと、同時に机の上の着信が入っていたことに気づいた。
池田という名前を見て、僕は小さく舌打ちをしてから同じ番号にかけ直した。
数刻のコール音の後、すぐに「はい、池田です」という柔和な声が聞こえてきた。
「望月です」
短く名乗って、相手の動向を伺う。
どうせ要件は分かり切っているのだ。
「……ああ、望月さん、お久しぶりです。それで、なぜ私が連絡を入れたか、理由は分かっていますね?」
僕は答えに詰まって、十秒以上黙った。
それから至って冷静を装って、ありのままの事実を述べてやった。
「はい、今日の昼頃、海に入って死のうとしました。もちろん、失敗しましたけど」
「……十二時三十五分に〈脳錠〉からと届いた信号を確認しました。分かっているでしょうが、今回の件は重大な違反であり、行政の方へ連絡をしなければなりません。今回で三度目ですね」
そう言って、電話の奥の相手はため息を吐いた。
彼がどんな深い皺を眉間に刻んでいるか、容易に想像できた。
「私もなるべく口添えしますが、今度こそ刑期の延長が決まってしまうかもしれません。厳しい現実ですが、特別監視受刑者であるあなたにはそんな自由は与えられていないのですよ。そのことはあなた自身が一番よく分かっているはずです」
もっとも自殺は神に対する原初的な罪悪ですが。
すかさず、池田さんはそう付け加えた。
「すみませんでした。ほんの出来心です」
僕は月並みな言い訳を反射的に述べた。
再度嘆息してから、池田さんは努めて明るい声色で「とにかく、一度教会までいらしてください。一度専門的なカウンセリングを受けた方が良いかもしれませんね。今日は夜遅くまで開けてありますので。いつものように礼拝堂の前で待っていてください」と言った。
よい人だなと思った。
そんな人に迷惑しか返せない自分が不甲斐なくて、当然のように消えてしまいたくて堪らなかった。
嫌になってベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めて二分ほど目を閉じていたが、仕方ないと諦めて起き上がった。
洗面台で顔を洗い、別のTシャツに着替えてから家を出た。
スクーターにまたがり、今度は町の方面へと繰り出す。
目的地は外れにある小さな教会だった。
特殊懲役刑を受けた受刑者は、月に数回、法務省矯正局傘下の監理部に認定された担当者のカウンセリングを受けなければならない。
刑務官の人員不足と負担を減らす措置として、ボランティアという名で社会福祉士や定年を迎えた教師、聖職者が駆り出されている。
僕の場合は、地域の小さなカトリック教会で神父を勤める池田さんという初老の男性に面倒を見てもらっている。
彼らは政府に認定を受け、〈脳錠〉という大いなるシステムを管理するサーバーに情報が登録されている。
だから受刑者も彼らだけには、接触してコミュニケーションを計ることが特別に許されている。
池田神父は僕にとっては頭の上がらない存在だ。
おそらく僕だけではなく、この町に住む〈脳錠〉持ちを含めた多くの人間がそうなのだ。
他人とコミュニケーションを図れることがどれだけの奇跡か、いかに人の尊厳たり得るか、この一年で嫌というほど思い知った。
今の僕にとって他者と言える他者はナガシマさんと池田さんぐらいのもので、それ以外の人間はディスプレイに映った偽りの風景と何も変わりはしない。
一人だけの観客席で腕輪を嵌められて、社会という題名の演劇を観ているようなものだ。
地元で生まれ育ち、四十代で神への道を志し地域に根ざした神の家で寂しく熱心な活動に励む。
池田さんは地元の名士という前評判に違わず清廉で親切な人だった。
神父というにはあまりにも朴訥としたありふれた風貌の丸顔をした男性で、つまらない受刑者である僕にもへり下った態度で隣人として接してくれる。
だからこそ僕は彼が苦手だった。
昔の自分の影を見出さずにはいられなかったのだ。
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