iii

 〈エピステーメー〉。


 ギリシア語で「正しき知識」を意味するそれが、犯罪者の烙印を押された僕の頭に取り付けられたものの名前だった。



 極小サイズの集積回路にAIを搭載され通信機能さえ備えた、昨今認可された多く存在するBCIの中の一つだ。


 ブレイン・コンピューター・インターフェイス。


 通称、BCI。


 つまり、脳内埋め込み式ナノデバイス。


 今や種差さえ問わなければ、BCIを装用している人間は全人口の八割にも及ぶという。


 最も社会に普及している〈イヴ〉というシリーズ名を冠したそれは、生命危機管理、デバイス機器への脳波による直感的操作を可能とし、個人の脳信号をネットワークに接続させるツールとしてシェアが確立されている。


 他にもBCIには医療用としてアルツハイマー患者の認知への補助や、ADHDやLDなどの発達障害、知能障害への矯正、果ては軍事への応用など種類は多岐にわたる。


 かつての現代性をあらわす記号がスマートフォンだったように、今やこの時代をあらわすものはBCIであると誰もが口を揃えて言うだろう。


 その中で〈エピステーメー〉は他のBCIとは一線を画している。


 それは罪を犯した者の一挙手一投足を監視するまさに「監獄」として機能する代物だった。 



 その小難しい正式名称から世間ではもっぱら〈脳錠〉と呼ばれ、その装用者たちは〈脳錠〉持ちなどと言われている。


 〈脳錠〉持ちは、自らの意識に規制をかけられる。


 管理部の安全保障から逸脱した行動を取れば、必ず埋め込まれた人工知能の直接的な電気信号の介入を受ける。


 他人や自分に危害を加えようとすれば、その行為は必ず失敗してしまう。


 いつの間にか意識をなくして、今日の僕のように気づけば関係ない場所で倒れている。


 絶対に望むような結果に辿り着くことはできない。


 そして、僕たちは自分から他人に接触することができない。


 目の前の人物に話しかけようとしても、自分の身体からすり抜けるようにいつの間にか消えている。


 おそらく周囲にはただ独り言を呟いているようにしか見えないのだろう。


 傍から見れば大した狂人だ。


 例外はある。管理部のビッグデータに登録された一部の警察や行政関係者、支援者、あるいは同じ〈脳錠〉持ち者同士は接触することが可能だ。


 従来の身体の外から罪人を拘束するのではなく、身体の内側から罪人を拘束する、人類が有史以来連綿と続けていた投獄という社会的装置のブレイクスルー。


 総じて〈脳錠〉というBCIが構築する社会システムはそのようなコンセプトで今日運用されている。


 かの古代ギリシアの哲学者プラトン。


 彼の有名な話に「洞窟の比喩」というものがある。


 人々は洞窟の中で後ろ向きに杭でつながれた囚人のようなものだ。


 彼は背後で入り口から差し込む光に照らされて映る影のみを真実だと思い込む。


 鮮やかで広大な本当の世界〈イデア〉が自分の与り知らぬ場所に存在するなど思いもしない。

 

 僕たちは洞窟の中で繋がれた囚人のような身分だ。


 最初は誰もが犯罪者には甘い処置だと高を括っていた。


 しかしその実態は、数十年にも及ぶ拘留刑よりもよっぽど非人道的な罰だった。


 目に枷をつけられて誰とも触れ合えず、偽物の生活を送らされているのだ。


 その様を「社会的去勢」なんて揶揄やゆされることもある。


 よりにもよってそんな代物に、「正しき知識」を意とする名を与えられたのは皮肉としか言いようがないだろう。


 〈脳錠〉は比較的軽度な、特に少年や仮保釈中の犯罪者を低コストで管理し社会への復帰に寄り添う制度として、実態を包み隠しながら革新的な刑事罰という名目で十年ほど前から急速的に普及して世界に広まっていった。


 他のBCIとは違って、経口接種のアンチナノロボットによる介入を許さないセキュリティに優れている。


 脳内に埋め込まれたチップを取り出すのには専門家による外科手術が必要不可欠だ。


 端から〈脳錠〉持ちたちは市井の人々から接触できない時点でどうすることもできない。


 つまるところ、僕が自死を成功させる可能性はゼロだったわけだ。


 どうやっても、今の僕は死ぬことができない。



 ある一つの方法を除けばの話ではあるが。

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