ii

「……起きたか?」


 意識が蘇るとともに目がゆっくりと開く。


 僕は目の前の人影が肩をすくめているのを認めて、ことの顛末を即座に悟った。


「ナガシマさん?」


 鼻や口から少し水を吸い込んでいたらしく、急に動いたことで咽せ込んでしまう。 


 苦悶の中、視界に飛び込んだ旧知の顔に驚いた。


 彼は背中を叩いて僕を介抱してくれていたが、僕が落ち着くと崩した三角座りになった。


 そして、喉にかかった意地の悪い笑い声を出した。


「お前、また死のうとしたんだな」


「……ええ、そうみたいですね」


 憮然と答えた。まだ鼻が痛んで、苦悶に顔が歪む。


 上体を起こして、両手をラフに後ろへ伸ばす。


 その間もまた、また失敗したという冷ややかな失望だけが心中を満たしていた。


「飲めよ」ナガシマさんは、手に持っていた缶のスポーツドリンクを手渡してきた。


 軽く会釈とお礼を言って頂いた。


 飲むポーズで留めようと思ったが、真夏の砂浜で長時間倒れていたせいで身体が水分を欲していたようだ。


 一気に三百ミリリットル全部を飲み干してしまった。


「お前も今度こそ理解しただろ。俺たちはどうやっても自分じゃ死ねないんだ」


 自分の頭を指差しながら、ナガシマさんは自嘲するように言った。


 彼の言う通りだ、僕はまた失敗したのだ。


 一回目は首吊り。二回目は電車の飛び込み。三回目は自刃で四回目はビルからの飛び降り。五回目は入水。


 その全てに失敗した。


 通算五回、僕は死に損ねた。


 ここまで来れば流石に認めざるをえない。


 今の僕は、自らの命に終止符を打つことができないのだ。


 不意に僕の片手から空の空き缶を取り上げると、ナガシマさんは数十メートル離れた地点にビーチパラソルを立てて水着で寝転がっているカップルに投げつけた。


 いや、それは僕の類推だ。臆見と言ってもいい。


 彼は確かにカップルたちにそれを投げたのだろうが、実際はあらぬ方向に彼は腕を動かし、当然の帰結としてペットボトルはあらぬ方向へと空を舞った。


 そして、ゆっくりと海辺へと落下した。


「分かるよ。つくづく、若さってのいうのはままならないもんだ。まあでも、悪いこと言わないから、もう死に急ぐのだけは止めておけ。どうせ今は補助金で大して働かなくても飯を食うことはできるんだ。そんなんじゃ、いくら経ってもこの檻からは出られないぜ」


 僕は呆然と、波が寄せて返すだけのうら寂しい浜辺を見つめていた。


「分かってますよ、そんなこと」


 撫然と僕は言い返す。


 己の愚かさも惨めさも、他人に指摘されるまでもなく自分が一番良く分かっていた。 


 ナガシマさんはそれ以上何も言わず、僕の頭をそっと撫でた。



 彼と出会ったのは三ヶ月ほど前だった。


 海岸近くで散歩をしていたところ、たまたま彼が落とした財布を拾ったのがきっかけだった。  


 本当に奇跡のような偶然の出会いだった。


 この狭い町で自分の同類にばったり出くわすなんて、そうそうあることじゃない。


 彼は〈脳錠〉を嵌められた僕が初めて出会った、接触と会話が可能な他人だった。


 その後、行政に充てがわれたアパートの住人同士だったこともすぐに判明した。


そんなふとしたことがきっかけで、僕たちの間には奇妙な交友関係が芽生えた。


 米粒サイズの檻の中に投獄された者同士、それはある意味で友情を理由にしない、気安く便利でアドホックな関係であるはずだった。


 名前は知らない。どのような漢字なのかも分からない。


 ただ「ナガシマ」という苗字だけを僕は彼から教えてもらった。


鋭く深く見るものの本質を抉り取るような端正な目つきに、豊かな知性を感じさせる銀色フレームの眼鏡がよく調和し合っている。


 実際、彼はアパートの床がいよいよ本の重さで抜けそうだと時折ぼやくほどの読書家だったし、博識で常人以上の頭の回転の持ち主だった。


その整った容姿と相まって、およそ僕とは住む世界が違うとしか思えない人物だ。


 態度も気さくで少し触れ合っただけで自分とは違う何かを持っていると感じ、少なからず好意を抱く。


 その魅力が彼にはあった。


 しかし、そんななぜ彼が僕と同じ身の上に堕すことになった、その経緯は知らなかった。


 彼のパーソナリティにわざわざ踏み込むのは気が引けた。


 その権利が自分にはないと思い、勇気もなかったから、今まで訊いてみる気にはなれなかったのだ。



 背後からみゃあみゃあと鳴き声がした。


 視線を移すと、ここら辺でよく見かける野良猫が静かに歩み寄ってきた。


 冴えない灰色をしている。


 足が一本不自由らしく、いつも引きずって歩いている個体だった。


 どうやらナガシマさんに懐いているようで、猫の方から彼の側に歩み寄っていった。


「知ってるさ。俺がいくら言ってもお前は聞かないだろうな」


 彼は自嘲するような顔でまた肩をすくめた。


「……なあ、望月。短い付き合いだけど俺はさ、お前のことを気に入っているんだ。俺が今まで見てきた奴らとは違う何かをお前は持っている。見ていりゃ分かる。俺とお前は全く違う人種だ」


 こちらに視線を送ることなく腰を屈ませて猫の額をしきりに撫で回しながら、ナガシマさんは寂しそうに笑った。 


「だからさ、お前はどうか俺みたいにはなるなよ」

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