第5話  カルアミルク⇌或いは泥の味 Sediment

その部屋には、季節という概念がなかった。    

年中閉め切られた雨戸の隙間から、ほこりの舞う光がわずかに差し込むだけ。


 かつて六本木の夜を彷徨さまよっていた若者たちは、今や白髪の混じった、幽霊のような老人へと成り果てていた。


 義之よしゆきは、震える手で茶褐色の液体をコップに注ぐ。  かつてのようなお洒落なグラスではない。ふちの欠けた、安物のプラスチック。

 そこに安売りの牛乳を混ぜる。もはや比率などどうでもよかった。ただ、そのにさえなっていれば、二人の時間は止まったままでいられる。


「……はい、優子。薬の時間だよ」


 ベッドに横たわる、枯れ木のような女──優子ゆうこが、ゆっくりと目を開けた。

 その瞳には、かつて義之を狂わせた輝きも、復讐に似た執着も、何一つ残っていない。ただ、泥水のように濁った硝子体ガラスたいが、虚空を見つめている。


「……これ、何……?」

「カルアミルクだよ。君の好きな」


 義之がストローを口元に運ぶ。

 優子は、嚥下えんげする力すら弱まった喉で、それを少しずつ飲み下した。


 かつては喉を焼くほど甘かったそれは、今や、古びた機械を動かすための、最低限の油分でしかなかった。


「……味が、しないわ。義之」

「ああ。僕もだよ」


 義之は、彼女の隣に腰を下ろした。

 二人の皮膚は、長年の共依存という名の毒に冒され、カサカサに乾いている。

 あの日、あんなに求めて止まなかった彼女の肌も、今では触れても何の感慨も湧かない。ただ、そこに「ある」という事実だけが、義之が生きている唯一の証明だった。


 壁には、何十年も前に止まった時計が掛かっている。


 二人は、あの日から一歩も外へ出なかった。  タケシたちが築き上げたであろう幸せな家庭も、出世も、老後の安らぎも、すべてをこの四畳半のへの供物として捧げてきた。


 結果として手に入れたのは、この、吐き気がするほど静かな死に場所だ。


「……ねえ。私たち、いつ死ぬのかしら」


「さあ。もう死んでいるのかもしれないよ。ずっと前から」


 義之は、自分の分として残ったカルアミルクを飲み干した。


 甘さは感じない。ただ、胸の奥が冷たく重くなる感覚だけがある。

 それは、あの日彼が犯した罪の重さそのものだった。

 優子を壊し、自分も壊れ、二人で地獄を耕し続けてきた。

 その収穫が、この「」という虚無なのだ。


 ふと、優子の細い指が、義之の手に触れた。  かつての熱狂的な執着ではない。死の間際にある獣が、体温を分け合おうとするような、本能的な接触。




「………………」


 それが、の一言だった。


 それが心からの救いだったのか、それとも義之を永遠にこの部屋に縛り付けるための、最後で最強のだったのか。


 義之にはわからなかった。


 彼は動かない優子の手を握りしめ、空になったコップを見つめた。

 底に溜まった、溶け残りの砂糖。


 それが、僕たちの人生のすべて。


 外では、またあの夜と同じように、遠くでサイレンが鳴り響いている。  だが、もう僕を迎えに来る者はいない。  僕は、彼女という牢獄の中で、永遠に自由になったのだ。


 義之はゆっくりと目を閉じ、甘ったるい死の香りに身を委ねた。


 ……さよなら、カルアミルク。


 ……さよなら、僕たちの、美しくも醜い昨日。


 部屋には、もう、換気扇の回る音すら聞こえなくなっていた。

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破滅と再燃 比絽斗 @motive038

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