第79話 世界の異臭編・臨界

 重く、静かに、**「代償としての不死が、ついに“選択”を奪う」**ところまで描く。


――取引

 それは、警報ではなかった。

 ラングレー地下施設。

 変美の鼻に、一瞬だけ混じった匂い。

――古い畳

――消毒用アルコール

――そして、子どもの頃の慎の洗剤の残り香

 彼女は、立ち上がった。

「……今の」

 通信室のモニターが点灯する。

 ロシア語。

 同時通訳。

 画面は、意図的に粗い。

 だが――匂いは隠せない。

■ 慎

 椅子に座らされている青年。

 手首に拘束。

 口元に、わずかな出血。

「……母さん」

 声は、震えていない。

 それが、余計に痛い。

「無事よね?」

 変美は、画面に近づかない。

 嗅ぐ。

――恐怖(抑制)

――睡眠不足

――殴打

――だが、致命傷はない

「生きてる」

 それだけで、胸が詰まる。

■ 要求

 画面が切り替わる。

 ロシア軍高官。

 階級章は、わざと外されている。

「取引だ、嗅覚の女」

 声は、冷たい。

「日本が、我々の“通過”を黙認する」 「ウクライナが、指定地域を放棄する」

 一拍。

「そうすれば、息子は返す」

 変美の周囲の空気が、凍る。

■ 匂いの真実

「……嘘ね」

 彼女は、即座に言った。

 室内がざわつく。

「返す気は、半分もない」

 ロシア側が、黙る。

「あなたたちの匂いは、成功後の粛清を前提にしてる」 「人質は、証拠だから」

 数秒後、画面の向こうで誰かが笑った。

「さすがだ」 「だが――」

 声が低くなる。

「選択肢は、あるのか?」

■ CIA

 背後で、CIA責任者が囁く。

「応じることはできない」 「国家として、越えられない」

 変美は、振り返らない。

「わかってる」

 彼女は、静かに息を吸う。

「だから――私が越える」

■ 不死の代償

 夜。

 独房のような個室。

 変美は、壁にもたれ、床に座る。

「……結局ね」

 独白。

「不死身でも、母親は救えない」

 拳が、震える。

「守るために離れた」 「その結果が、これ」

 胸の奥で、何かが軋む音。

 それは、再生しない。

■ 選択

 彼女は、端末を起動する。

 CIAの承認コードを、一つずつ削除していく。

「変美、待て」 「これは裏切りになる」

 通信越しの声。

「ええ」

 淡々と答える。

「だから、これが最後」

 彼女は立ち上がる。

「私はもう、国家の資産じゃない」 「ただの――嗅ぎすぎた女」

■ 宣言

 ロシア側に、逆通信。

「聞いて」

 変美の声は、低く、静か。

「日本も、ウクライナも、あなたたちの言う通りにはならない」

 一拍。

「でも――」

 彼女は、嗅いだ。

 慎の匂い。

 拘束具。

 壁。

 逃げ道。

「あなたたち全員を通らずに、息子を回収する」

 画面の向こうで、誰かが息を呑む。

「不可能だ」

「知ってる」

 変美は、微かに笑う。

「でも私、不死じゃなくても――」 「一度は、死んでるの」

 通信が切れる。

■ 予兆

 空気が、変わる。

――戦争が動く匂い

――ミサイルが準備される音

――そして、母親が全てを失う覚悟の臭い

 変美は、荷物を持たない。

 武器も、支援も、ない。

 あるのは――

 慎の匂いが、まだ途切れていないこと。

「……待ってなさい」

 誰にも聞こえない声で、言う。

「今度は、必ず連れて帰る」

 不死の代償は、

 選び続けなければならないこと。

 そして彼女は、

 最も重い選択へと、歩き出した。

――つづく。

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