第75話 春なのに

 2026年3月

 自動販売機の前で、変美は立ち尽くしていた。

 220円。

 赤い数字が、春先の夜気よりも冷たく目に刺さる。

「……おっす、じゃないわよ」

 かつては200円だったペットボトル、『おっす!お茶』を睨みつけ、鼻から短く息を吐く。  

 麦とプラスチックと、ほんのわずかな金属疲労の匂い。

「物価が上がる匂いって、ほんと嫌」

 だが、その違和感はそれだけでは終わらなかった。 自販機の横を通り過ぎた男――三十代後半、営業職風。 清潔なスーツ、柔軟剤の匂い。

 その奥に、別の匂いが混じっていた。

――消毒用アルコール

――恐怖で濡れた皮膚

――押し殺された呼吸の残り香

「……」

 変美の表情が、静かに凍る。


 浮気調査、依頼内容変更

 依頼は、よくあるものだった。

「夫が浮気してるか調べてほしいんです」

 依頼人の女性は、震える手で写真を差し出す。  そこに写っていたのは――さきほど自販機の前を通り過ぎた男。

「……なるほど」

 変美は鼻を鳴らす。  

 浮気の匂いは、確かにする。  

 だが、それよりも古い血の痕跡が、男の輪郭にまとわりついていた。

「この件、少し深くなりそうね」

 

 夜のアパート

 男の部屋は、妙に整っていた。  

 生活感があるのに、人の記憶が薄い。

 変美は、靴を脱いだ瞬間に確信する。

――逃げ場のない部屋

――泣き声が壁に染み込んだ匂い

――そして、二度と朝を迎えなかった命の痕

「浮気どころじゃないわね……」

 押し入れの奥。  

 古いスマートフォン。  

 消せなかった動画の断片。

 そこにあったのは、かつて――  抵抗する女を力で押さえつけ、声が消えるまで塞ぎ続けた記録。  警察には事故として処理された事件。

 変美の鼻腔が、怒りで焼ける。

「……最低」

 成敗するしかない!

 男が帰宅した瞬間、変美は姿を現した。

「誰だ!?」

「嗅ぎに来ただけよ。あなたの“人生の汚れ”を」

 男がナイフを抜くより早く、変美は一歩踏み込む。

 その瞬間、彼女の体から――  ミントと朝露の蒸気が、爆発するように広がった。

「な、なんだ……!?」

「今回は特別」

 変美は静かに告げる。

「24時間限定。不死身モード」

 男の刃が突き刺さる。

 だが、貫いたはずの腹部は、霧のようにほどけて再生する。

「ひ……!」

「あなたが奪った時間の分だけ、味わいなさい」

 変美は、男の耳元で囁いた。

「恐怖と後悔の匂いを」

 時間は、ゆっくりと処刑を進めた。  

 殴っても、刺しても、逃げても―― 死ねない一日。

 そして、午前2時14分。

 男の体から、匂いが剥がれ落ちる。  

 完全に、空になる。

 翌朝、スマートフォンが震える。

「性犯罪の魔物

 会社員・斎藤龍義

 討伐完了」

 変美は、再び自販機の前に立っていた。  

 220円を入れ、お茶を取る。

「……高い」

 キャップを開け、ひと口。

「でも、今日は少しだけ――苦くないわね」

 春の風に、ミントの残り香を溶かしながら、    変美は歩き出した。

「次は……どんな匂いかしら」

 列車の音が、遠くで鳴っていた。

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