第73話 VS時計屋・矢吹丈太郎

 変美のスマートフォンが微かに振動し、画面の光が浴室の闇を薄く切り取った。

 だが「討伐完了」の文字は、まだ確定色には変わっていない。

 未処理の残臭が、空気の底で脈打っている。

「……まだね」

 変美は視線を上げた。

 浴室の入口に立つ男――時計屋・矢吹丈太郎。

 白髪混じりの髪、油で黒ずんだ爪。左腕には、革ベルトの古い腕時計。

 秒針が、不自然なほど静かだ。

「嗅覚探偵ごっこはそこまでだ」

 矢吹は低く笑った。

 その笑いには、焦りよりも慣れがあった。

「事故に見せるための計算は完璧だった。

 貨物列車、停電、感電、死体の運搬……

 時刻はすべて、俺が直した」

 変美は鼻を鳴らすように息を吸った。

――鉄粉。

――古い潤滑油。

――そして、人の寿命が削れるときにだけ生じる、甘ったるい埃の匂い。

「直した、ですって?」

 彼女は一歩踏み出す。

「あなたが扱っているのは時計。でも、あなたが壊しているのは――時間じゃない。人の“余白”よ」

 矢吹の指が、腕時計のリューズにかかった。

「黙れ」

 カチ、と音がした瞬間、

 浴室の空気が歪んだ。

 止まっていたはずの電気時計が、逆回転を始める。

 床に落ちたドライヤーが、水を含んだまま微かに震え、死体の皮膚から、再びオゾンの匂いが立ち上る。

「俺はな……」

 矢吹の声が、二重に響く。

「“死んだ時間”を修理できるんだ」

 次の瞬間、矢吹の姿がぶれた。

 一歩、二歩――いや、数秒分だけ過去に引き戻された残像。

 ナイフが振るわれる。

 だが。

 ザシュ、という感触は、ない。

 矢吹の刃が切り裂いたのは、変美の肩。

 しかしそこから噴き出したのは血ではなく、澄んだミントと、冷たい朝露のような蒸気だった。

「……不死身!?」

「ええ」

 変美は、矢吹の目前に顔を寄せる。

「そして、あなたにはないものを持っている」

 彼女は深く、深く息を吸った。

「今この瞬間の匂いを、逃さない能力」

 変美の視界に、匂いが“線”として立ち上る。

 浴室から廊下へ、廊下から玄関へ――そして、矢吹の胸元の時計へと、収束していく。

「その腕時計……事故死した人間の家から回収したものね」

 矢吹の顔が、初めて歪んだ。

「中に染み込んでいる。午前2時14分に、命が切れた匂いが」

 変美は、指先で腕時計のガラスに触れた。

 ピシッ。

 微かな音とともに、ガラスが内側から曇る。

「あなたは時間を操っているつもりだった。でも本当は――」

 カチ、カチ、カチ。

 腕時計の秒針が、狂ったように動き始める。

「殺した瞬間に縛られていただけ」

 矢吹は膝から崩れ落ちた。

 耳、鼻、口から、見えない“残臭”が噴き出す。それは列車の轟音よりも重く、夜よりも濃かった。

「やめろ……やめてくれ……」

「終わりよ」

 変美が静かに告げる。

「あなたの時間は、

 止まった時計と同じ場所に置いていく」

 スマートフォンが、はっきりと振動した。

 画面に浮かぶ文字。

「完全犯罪の魔物

 時計屋・矢吹丈太郎

 討伐完了」

――

 矢吹は、匂いだけを残して動かなくなった。

 変美はスマートフォンをしまい、浴室の窓を開ける。

 遠くで、再び山手貨物線の列車が通過していく。

 今度は、何も運んでいなかった。

「……次は、どんな匂いかしらね」

 ミントの蒸気を夜に溶かしながら、

 変美は静かに、その場を後にした。

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