第42話 鐘の音

 名越がパトカーへと連行され、宇都宮の街にデジタルな平穏が戻ったかに見えたその時、変美の鼻が再びピクリと動いた。

​「……待って。まだ終わっていないわ。名越の指先から、最後に**『熟成した林檎のような、不自然に甘い揮発臭』**が漂った」

​「所長、どういうことですか? ウィルスは駆除されたはずじゃ……」

​ 変美は、名越が連行直前に不敵な笑みを浮かべていた理由を直感した。

「……名越は『鍵』を壊したんじゃない。**『すべての扉を一つに繋いだ』**のよ」

 ■ 究極の脆弱性:シングルサインオンの罠

​ 名越の真の狙いは、ウィルスそのものではなかった。

 彼はウィルスを囮にして、宇都宮中の官公庁や主要企業のシステムに、ある「利便性」を強制的に導入させていたのだ。

​「……**シングルサインオン(SSO)**よ。一度の認証で、すべての連携システムにログインできる魔法の鍵。名越は、対策ソフトがウィルスを駆除する際、システム修復のドサクサに紛れて、自分だけが知る『マスターID』をSSOの認証サーバーに組み込ませたのね」

​「一箇所の関所を突破すれば、全軍の城門が開くってことかよ!」

 亮がスカイラインのエンジンを再び吹かす。

​「……匂うわ。この街のネットワーク全体が、**『たった一つの開いた窓』から熱を逃がしている。……マサ、NISCの認証サーバーをスキャンして! どこかに、本来あるはずのない『古い羊皮紙のような乾いたデータの匂い』**が隠されているはずよ!」


 ​■ 認証の迷宮:マスターキーを追え

 ​マサの指がキーボードを叩く。

「ありました! SSOの管理パネルの深層に、名越のIDが『特例管理者』として居座っています! 彼は獄中からでも、スマホ一台あれば宇都宮の戸籍から銀行口座まで、すべての扉を開け放つことができる……!」

​「……行かせないわ」

 変美は、地下サーバーに残された名越の私物――古い万年筆のキャップを嗅いだ。

「……この万年筆。名越がSSOのコードを書くとき、無意識に噛んでいた跡がある。そこには彼特有の**『唾液の酵素』と、彼が信奉していた『古い暗号化ロジックの癖』**が染み付いている」

 ■ 決着:唯一の鍵の破壊

​ 変美は、名越の「思考の匂い」をトレースし、SSOのマスターパスワードが**「大聖堂の鐘の音の周波数」**を数値化したものであることを突き止めた。

​「マサ、認証コードに『正午の鐘』の波形を入力して! それが、名越が作ったSSOを唯一、内側から爆破できる暗号よ!」

​「……入力完了! 認証解除、マスターIDを消去します!」

​ モニター上で、宇都宮中のシステムを繋いでいた「見えない糸」が、次々と断ち切られていく。シングルサインオンという便利な鎖は、変美の執念によって粉砕された。

 ■ エピローグ:鍵の重み

​「……便利すぎるものは、いつか牙を剥くわ。一つで全てが開く鍵なんて、この世には必要ない」

​ 変美は、大聖堂の重厚な鉄の鍵を手に取り、その**「冷たい鉄」と「使い込まれた油」**の匂いを嗅いだ。

 一つ一つ、丁寧に扉を開ける。その手間こそが、守るべきものの重み。

​「……さあ、マサ。今度こそ本当に、餃子を食べに行きましょう。SSOなんてなくても、私たちの胃袋は『美味しい匂い』一つで繋がっているんだから」

​ 宇都宮の夜空に、本物の鐘の音が、今度こそ純粋な響きとなって鳴り渡った。

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