第4話 「バーチャルという名の仮面 〜Missing Anything」 電脳邪神ホォンズネェ 登場

​​「こんももー! 今日も元気に空飛ぶ変人! もももんだよー!」

​安物の吸音材が隙間なく貼り付けられた、窓のない六畳一間の片隅。井上燦華(いのうえ さんか)は喉を巧みに震わせ、普段の彼女の生活からは想像もつかない、快活で高音のキャラクターボイスを響かせた。

目の前のPC画面では、猫耳ならぬモモンガの耳を生やした美少女アバターが、燦華の動きに完璧に同期して愛らしく首を傾げる。VRカメラが彼女の表情を捉え、デジタルの仮面へと翻訳する。そこに映るのは、介護現場で老人の体を支え、腰の痛みに耐えながら泥臭く生きる"26歳のパート職員"の姿ではない。

​燦華の日常は、常にこの極端な二重構造の上にあった。

昼は現実の重力に縛られ、夜はネットの海で「かりやモモンガー」という仮面を被って、ゲーム実況や歌枠で小銭を稼ぐ。それが彼女の選んだ生存戦略だ。

​大の特撮オタクである燦華だが、配信でその情熱を露呈させることはない。かつてネットの荒野で目にした、公式画像を無断転載して承認欲求を貪るインフルエンサーや、自身の解釈こそが唯一絶対の正解だと他者に強要する"オタクのなれの果て"。特撮という、彼女にとっての聖域を汚す彼らと同類になりたくないという、一種の同族嫌悪に近い潔癖さが彼女を縛っていた。彼女にとって、特撮は"消費されるコンテンツ"ではなく、自分の魂を形作る"背骨"だったからだ。

​「今日は新しいレトロゲームをやるよー! 初見プレイだから、みんな優しく教えてねー!」

​『もももんかわよ』

『声癒やされるわー』

『新しいレトロゲームとはこれいかに』

『でもお前、特撮オタクの噂あるよな? 隠しててもバレバレだぞ』

​流れるチャット欄に、ちくりと刺すような一文が混じる。燦華はそれを手慣れた手つきでスルーし、引きつった素顔と電脳の笑顔の仮面を維持した。

彼女には、守るべき"箱庭"がある。隣の部屋で特撮怪獣怪人のソフビを眺めている同居人の紡(つむぎ)、そして二匹のクラムボン。

不老不死という、およそ人道からは逸脱した不条理に片足を突っ込んでしまった自分たちの、歪な生活。それを支えるためには、この"偽りの自分"」を売り物にして、社会の歯車に噛み合い、一円でも多く稼ぐしかなかった。それが彼女なりの、社会に対する"誠実さ"の証明でもあった。

​しかし、その夜の配信は、いつもとは違う温度を孕んでいた。

配信が終盤に差し掛かった頃、チャット欄に流れる不協和音が明確な殺意を帯び、加速し始めたのだ。

​『特定しました』

『モモンガー、お前ひかりにいるだろ。この俺等を舐めるなよ』

『過去の画像、看板の文字から住所割れたわ。明日凸るんで』

​燦華の背筋に、氷柱を直接叩き込まれたような戦慄が走った。

彼女は慎重だったはずだ。配信部屋のカーテンは常に閉ざし、背景の映り込み、環境音、何気ない発言。細心の注意を払ってきた自負はあった。だが、匿名の悪意というものは、原子レベルの綻びからでも侵入してくる。数十の善意の中に混じった、僅かながらも確かな悪意。それが、燦華の積み上げてきた安寧を食い破ろうとしていた。

​「では、今日はこのへんで終わるね。みんな、おつもももー」

​逃げるように配信を切った途端、燦華は椅子に崩れ落ちた。フルフェイスのヘルメットを被っていない彼女の顔は、幽霊のように青ざめている。かつての闇バイト強盗や人里のクマ、怪人クラムボンを相手にした時は、自分が怪物の側に立つことで、その圧倒的な身体能力をもって恐怖を捩じ伏せられた。だが、姿の見えないデジタルな悪意は、物理的な装甲では防げない。ネットワークという名の血管を通じて、彼女の私生活を毒していく。

​「……サンカ。どうされました?」

​襖が音もなく開き、紡が部屋に入ってきた。その手には、彼女が惚れ込むベテラン配信者「兎角(とにかく)ラビト」の切り抜き動画が流れるスマホがある。ラビトは、ネットの荒らしやアンチをユーモアという名の刃で華麗に捌くことで知られる、燦華にとっても遥か遠くの憧れの対象であるバーチャルライバーだ。

​「……紡。怖い。あいつらが私を見てる。この壁の向こう側まで。暴こうとしてる」

​紡は燦華の隣に座り、その冷えた手を握った。紡の体温はいつも低い。けれど、その瞳に宿る黄金の光彩は、不気味なほど静かに、深く燃えていた。

​「大丈夫です。サンカを傷つけるものは、全部私がいなくして差し上げます。全部全部、蝕み尽くします」

​紡の言葉は淡々としながらも固い決意に満ちていて、それでいて自分の所有物を害する羽虫を潰すような絶対的な排他性に満ちていた。

燦華はそれを聞きながら、警察に相談すべきか、あるいは再び空装サンカとして自力救済に走るべきか、激しく葛藤した。

燦華は"人間"として、たとえいくつ後ろ暗い過去があっても辛うじて社会の一部として踏み留まりたいと願っている。しかし紡は"燦華"という個体にのみ執着し、それ以外の社会という概念そのものを無視する。黄金の死毒によって不老不死を分かち合った二人であっても、その溝は、底知れない深淵となって横たわっていた。

​数日後。介護施設のパートを終え、重い体を引きずるようにして帰路につく燦華は、確信した。

誰かが、後ろをつけてきている。

街灯の下、アスファルトの上に伸びる影は不自然に細長く、関節が逆方向に折れているかのような、生命を感じさせないどこかかくついた不自然な動きをしていた。

​(人間じゃないのか?)

​燦華の勘が、警笛という名の咆哮を上げる。

彼女はアパートへの道を逸れ、あえて人気の途絶えた、街外れの公園の裏手へと足を進めた。

紡には前もって連絡済みだ。クラムボンたちは、この純粋な悪意そのものに触れると制御不能な怪人へと変質する恐れがあるため、家で厳重に待機させている。

​「……姿を見せろ。お前は何だ。何がしたいんだ」

​燦華が振り返る。

街灯の明滅する光の下に現れたのは、さながら電脳の邪神だった。

人間の頭の代わりに横倒しに傾いたスマートフォンが画面にノイズを光らせている。首元には黒ずんだ人間の腕のようなものが何組も巻き付いていて、そこからノイズを走らせながら蛍光灯のように仄暗く点滅する外套が伸びている。右手は大鎌になっていて、左手の指先からは鋭い五本の爪を覗かせる。外套の下の漆黒の身体は夥しい数のタブレット端末を胸部や四肢に埋め込んだような、あまりにも悍ましい怪人だった。全身からはノイズのような赤黒い電子の煙が立ち昇り、画面にはかつて見た燦華への誹謗中傷——『特定』『畜生』『死ね』『前科者』『オタクの癖に』という文字が、猛烈な速度で、竜巻のように渦巻いている。

​そのクリーチャーの名は、電脳邪神ホォンズネェ。

「かりやモモンガー」という、社会の隙間で懸命に生きようとする命を執拗に攻撃し続けた、ある匿名の一人の、肥大化した自己顕示欲と劣等感の混じった悪意。それが、燦華の周囲に漂う金蚕蠱(きんさんこ)の"異形の存在"と共鳴し、電子の世界を越えて現実の殺意を受け継いで実体化したものだ。

​「……私の配信を荒らしてたのは、お前だったんだ」

​ホォンズネェの画面が不気味な赤色に点滅し、スピーカーからノイズ混じりの、何十人もの声を合成したような不快な笑い声が漏れる。

『モモンガー……ミツケタ……ホンショウ……暴イテヤル……オ前ハ、バケモノダロ……!』

​「……ふざけるな」

​燦華はトランクから取り出したヘルメットを被った。

空装。

目の前の存在は、もはや対話の余地がある人間ではない。法も倫理も通じない、純然たる悪意の権化だ。そう認識した瞬間、燦華の心から"社会的な恐怖"は消え、数多の特撮戦士が窮地で見せるような、迸る不屈の闘志が燃え上がった。

​「行くよ、紡!」

「ええ。……サンカを泣かせるものは、全部蝕みます」

​影から躍り出た骸装クローラー/紡が、右手だけ正体を現した金蚕蠱の鋭い爪でホォンズネェの胸部を裂く。しかしホォンズネェの身体は電子の集合体のように実体が安定せず、受けた攻撃はたちまち修復してしまう。さながら金蚕蠱のように。

​『無駄ダ……俺ハ……オ前タチガ呼ビ寄セタ……現実ノ死神ダ……!』

​ホォンズネェが指先から赤黒い高圧電撃を放つ。サンカの防刃ベストが火花を散らし、金蚕蠱の再生能力を上回るほどの、神経を焼くような激痛が燦華を襲う。

​「ぐっ!紡、こいつは物理の存在じゃない。ネットの悪意が人々の目で組み立て上げられてる!」

​燦華は脳内の特撮の本棚を高速で検索する。電脳の怪人、虚構の敵。彼らを倒すには、同じ"虚構"の力を、社会のために運用してぶつけるしかない。

​「……紡、私のスマホを貸して! 配信する!」

「は!?何言ってるんですかサンカ!?」

いくら社会性が乏しい紡でも燦華のこの頼みをすぐに聞き入れることはなかった。安全を脅かすクリーチャーとの斗いの真っ只中に、自分から身バレ必至の行為を行おうとする。

それは紡であっても俄には信じ難いことだった。

「社会的に死にかねませんよ?」

呆れる紡に、燦華はホォンズネェの右手と一体化した大鎌をスコップで受け止めながら毅然と返す。

「もう何回か死んでる。……物理的にはもっと死んでる」

燦華がそう言い放つと、

「そうですか……。そうでしたね。燦華のお願いなら」

紡はトランクに仕舞い込まれていた燦華のスマートフォンを取り出して、勢いよく燦華に投げた。

『ホウ?邪魔ダ虫ケラガ』

ホォンズネェは表情の窺えない電子の画面にノイズを走らせながら、紡が投げた燦華のスマートフォンを左手の一振りで破壊しようとする。

だがそれは叶わなかった。

紡が燦華と組み合うホォンズネェに、スマートフォンを投げ渡した直後に人間を遥かに超えた瞬発力と勢いで突進してきたのだ。

骸装クローラー諸共に吹き飛ぶホォンズネェはその禍々しい存在を地面に叩きつける。

『グッ!』

ホォンズネェはおよそ人体では不可能なはずの、不可解で不自然な挙動で瞬時に立ち上がるとうつ伏せになった紡の背中に頭の画面から高出力のレーザーを発射した。

「紡!」

スマートフォンを受け取った燦華が叫ぶよりも先に、無防備な状態でレーザーの直撃を受けた骸装クローラーは塵も残さずに蒸発した。

「紡!くそっ……」

紡の、いや金蚕蠱の再生能力はこれまでの戦いで身に染みて理解しているつもりだった。しかし、跡形もなく消し飛ばされてなお再生できるものなのかは分からない。

紡がもし生き返らないとしたら、この目の前のクリーチャーだけは絶対に。

「死神と言ったな……。お前を、公衆の面前に引きずり出してやる」

​燦華はそう言い放つと、即座に「かりやモモンガー」として緊急配信を立ち上げてホォンズネェをカメラに捉える。ただし、映しているのは自分たちの血に塗れた戦闘そのものではない。モモンガーのアバターの背景に、ホォンズネェが常時自身の体に表示している醜い言葉の数々を、カメラのビデオ配信経由でリアルタイムでオーバーラップさせたのだ。

​「みんな、見て! これこそが、私に向けられた悪意の正体だよ! 匿名の影に隠れて、人を傷つける言葉の姿だ!」

​画面の向こうで、深夜にも関わらず数十人のリスナーたちが騒ぎ出す。

『うわ、これ酷すぎる。見てられない』

『誰だよこんなこと書いてるの。人間じゃないな』

『モモンガー、負けないで! 私たちは味方だよ!』

やがて​ホォンズネェの動きが、目に見えて鈍くなる。

電脳邪神を形作っていた匿名の安全圏という基盤が、大勢の善意や同情、そして客観的な軽蔑という名の強烈な光に灼かれることで、その存在の核を失い始めたのだ。悪意は、人知れぬ闇の中でしか膨張できない。

​「……仮面を被るのが悪いんじゃない! 仮面の名の下に、卑劣なことをするのが悪いんだ」

​サンカは渾身の力で、黄金のエネルギーを迸らせたスコップを振り抜いた。

「空葬!サンカニック・エンドッッッ!」

燦華の叫びとともに、渾身のスコップの一撃がホォンズネェの顔面を打ち砕いた。

実体化した悪意が、モモンガーのリスナーというささやかながらも確かな社会の目によって固定され、いよいよ衝撃を逃がせなくなったのだ。

​「お前は、闇に還れ」

​サンカのスコップがホォンズネェの本体である頭部を完全に破壊した。電脳の死神はけたたましいノイズとともに霧散し、夜の冷えた空気の中に、電子部品の残骸を撒き散らして消えていった。

​​「……終わったよ、紡」

​燦華はヘルメットを脱ぎ、夜空を仰いだ。ホォンズネェの消滅とともに、あれだけしつこかったネット上の粘着質な書き込みもぴたりと止まった。

​しかし、燦華は知らなかった。

消え去ったと思われたノイズの残滓が、微かな悪意を保ったまま、小動物のようにそそくさと街の闇へと逃げていくのを。

そして、肉体の修復を済ませた紡がその残滓を、見送ったことを。

​紡は、黄金色の目を細めて微笑んでいた。彼女にとって、ホォンズネェは倒すべき敵ではあったものの、返り討ちに遭い身体を保てないほどに弱体化したならば必ず元いた場所に還る。

燦華を傷つけた"本体"に。

​(これでよいのです。サンカの敵には、然るべき報いを)


​数日後。

燦華と紡が暮らす街から数百キロ離れた他県のアパートで、一人の人間がPCの前で事切れているのが発見された。死因は不明。だが彼のPCやスマートフォンには、多数のアカウントを使い分け、かりやモモンガーや他の著名人への誹謗中傷を執拗に繰り返していた膨大で醜悪な記録が残っていた。

​その遺体を回収しに来たのは、警察ではなかった。

漆黒のスーツを纏った、感情を排したかのような人々。その胸元には、最近新設された対クリーチャー公的機関の紋章が光る。

​「レジストコードはホォンズネェ。インターネットを介した精神汚染型の新型クリーチャー。媒介者は死亡」

​一人の若い女が、犠牲者のスマホを慣れた手つきで袋に収める。

彼女の名は、瀬織透輝(せおり とうき)。

SFC——「空想科学対策班(Science-Fictional Countermeasures)」に所属する、若きエリートだ。

​「被害者の周辺に、強力なクリーチャー粒子反応がある。それと、微弱な反応が三つ」

​透輝は忌々しげに自らの首元をさすった。その手や首元の内には、微かながらも禍々しい黄金の光がちらついている。

​「……久しぶり」

​透輝はタブレットに表示された、燦華がすぐに非公開にしたはずの数日前の配信で見せた数秒のノイズを解析していた。一般的には無名配信者であるかりやモモンガーの配信がバズるようなことはなかったが、彼女のリスナーのSNS投稿を遡ることでクリーチャーの存在を確かめたのだ。

方やそんなことは知らない​燦華は今日も介護施設で、利用者の手を優しく引いていた。

バーチャルという名の仮面を被り、泥臭い現実を懸命に生きるために。

彼女の腰にあるスマホには、紡が送ってきた兎角ラビトの大型企画配信の通知が届いていた。

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空装サンカ 〜特撮アラサー女は怪獣怪人を身に宿す 七篠今平 @StrangeFantasy

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