第3話 「クラムボン 〜Make a Monster」 クラムボン 登場
二人のクリーチャーが仄暗い街角で話していた。
「クラムボンは、笑ったよ」
夕暮れ時の路地裏。井上燦華(いのうえ さんか)は、足元で蠢く"それ"を見つめながら、かつて教科書で読んだ一節を口にした。
それは、白くて、丸くて、綿菓子に頼りない手足が生えたような奇妙な小動物だった。犬でも猫でも、ましてや既知の爬虫類でもない。透明感のある皮膚の下には、時折艶めかしい微光が走り、くりくりとした大きな瞳は、どこかこの世のものとは思えない深淵を湛えている。
「サンカ!この子かわいいです!一緒にいたい……優しいの可愛いのふわふわなの」
隣にしゃがみ込んだ紡(つむぎ)が、起伏の乏しい声で、けれど確かな執着を込めて言った。
燦華は困惑した。本来、介護職の安月給で食い繋ぐ彼女たちに、ペットを飼う資格も余裕もない。普通の生き物であれば、保健所へ通報するか、あるいはかりやモモンガーとしての配信活動のリスナーに相談するのが"人間"としての正しい判断だ。
だが燦華は知っている。この不思議な小動物から漂う、あの夜の自分たちと同じ匂いを。
先日無謀にも生身同然でクマに挑み、頭を砕かれ、臓物を貪られ、それでも紡の中に宿る黄金の呪いによって蘇生された燦華。今の彼女の血管を流れるのは、黄金の死毒が混じった異形の命だ。
「……そうだね、紡。この子は多分、私たちの"同胞(はらから)"だ」
燦華は、そのふわふわとした感触を掌に受け止めた。
「クラムボン。そう呼ぼう。宮沢賢治の『やまなし』に出てくる、正体不明の生き物かもよく分からないもの。この子に相応しい」
それが、彼女たちの慎ましくも歪な日常に加わった、新しい"クリーチャー"だった。
クラムボンとの生活は、拍子抜けするほど平穏だった。
クラムボンは燦華の作る特撮の造形物に囲まれ、紡が与える安物のドッグフードを美味しそうに食べ、二人が特撮番組を視聴する横で、かぷかぷと泡を吹いて笑っていた。
しかし、その平穏の裏側で街は再び変容し始めていた。
「また通り魔かよ……今度は駅前の公園だってさ」
「被害者は全身打撲。でも、目撃証言がおかしくない?『魚のような化け物を見た』って」
職場の休憩室で同僚たちが交わす会話に、燦華の指が止まる。
不審者でも、闇バイトでもない。それは明らかに、既知の生物の範疇を逸脱した"クリーチャー"による犯行を示唆していた。
(……紡じゃない。クラムボンでもない。あの子たちが私と一緒にいた時なら)
燦華は即座に二人の同居人を疑ったが、犯行時刻のタイムスタンプは、彼女が紡たちと特撮のクリーチャー論について熱く語り合っていた時間と重なっていた。
そうであれば、この街には他にも何かがいる。
「行かないと」
燦華は、クマに割られた後買い直し例によってトランクに隠し持っていた『空装サンカ』のフルフェイスヘルメットを手に取った。
あの日頭を砕かれ腹を抉られた記憶は決して消えていない。燦華の脳髄や内臓にこびりついた忌まわしい記憶は、いつだろうと幻肢痛のように彼女の神経を蝕む。
それでも、それ以上に燦華を突き動かすのは、クリーチャーへの執着に起因する歪んだ責任感だった。
「クリーチャーが人間を傷つけるなら放っておきたくない。現実は……特撮じゃないんだから」
夜の帳が降りた公園。
燦華、紡、そしてすっかり紡を気に入った様子で彼女の肩に乗っかって離れようとしなかったクラムボンは、闇を捜索していた。
手がかりは見つからず、重苦しい空気が漂う中、夜だというのにベンチで一人の男が休んでいるのが見えた。
縒れたポロシャツを着た、どこにでもいそうな中年男性だ。だが、彼の足元には、クラムボンと瓜二つの不思議な小動物がいた。足元の生き物は心なしか震えているように見える。
「おや、あなたたちも……"生き物"を連れているのか」
男が穏やかに話しかけてきた。
しばし、彼らは"生き物"の愛らしさについて語り合った。魚川(うおかわ)を名乗ったその男はペットにしたその生き物を道端で偶然拾ったのだという。
燦華は、同じような境遇の人間に出会えたことに一瞬だけ安堵した。
だが、その安堵はすぐに凍りついた。
「可愛いでしょ、これ。……でもね、時々イラってくるんだよ。言うことは聞かないし、ただ飯を食うだけで」
魚川が、足元の生き物をにべもなく踏みつけた。
「みゅうっ……」という悲鳴。燦華の心臓が跳ね上がる。
「……何してんだあんた」
燦華の声が低くなる。紡は、気怠げな瞳の奥に確かな殺気を宿しながら、淡々と指摘した。
「なんて酷いことをするんですか、クラムボンのお友達に」
「うるせえんだよ、ガキが! これは俺の持ち物だ! 自分の持ち物くらいどう扱おうが勝手だろうが!」
逆上した魚川は、足元の生き物を乱雑に掴み上げると、それを紡に向けて力任せに投げつけた。
「そんなにこれが欲しいならくれてやるよ!」
言い放った魚川の口元が醜く歪む。
「——あの世でな」
「ちっ、紡!」
生き物が紡の胸に勢いよく叩きつけられる。
ただ、紡と二匹の小さな生き物の心配をするだけでは済まないようだった。
投げつけられた方の生き物の姿が、明らかに物理法則を無視して膨張し始めたのである。
白い毛は粘液質の皮膚へと変わり、小さな手足は隆々とした逞しい鉤爪へと変貌する。つぶらだった瞳は赤黒く血走り、口からは腐食性の泡がかぷかぷと溢れ出した。
これこそがこの生き物の本性。いや、生態。
生き物が生命の危機を感じた時。あるいは極度のストレスを受けた時。生存本能として一時的に"怪物めいた猛獣"へと変質する。
これが、怪人クラムボンという生き物だった。
「ははは! やれ、ぶん殴れ! 今日もムカつく奴を全員ぶちのめせ!」
魚川は歓喜の声を上げた。
この男はこの性質を本能的に知っていた。職場の嫌いな上司。自分を蔑ろにした家族。気に入らない相手に、虐待した生き物をけしかけ、ストレスから一時的に怪人化させて襲わせる。そして自分は安全圏からその暴力を享受する。
これこそが、ここ数日の通り魔事件の真相だった。
「ぶかああああああっ!」
怪人クラムボンの太く鋭い爪が、紡の左肩から右脇腹までもを深々と抉った。
紡は公園の地面に叩きつけられ、勢いのあまり弾かれたビリヤードボールのように吹き飛ぶ。だが紡は地面を転がり終えると同時にすくと立ち上がった。
大きく抉られた左肩や右脇腹から黄金の禍々しい光が溢れ出し、肉が、皮が、血管が、何事もなかったかのように瞬時に再生していく。
かえって、紡を襲ったはずの怪人クラムボンの右手を覆う黒ずんだ紡の血液が音と白煙を上げている。怪人の肉体を蝕みながら。
「かぶっ、かぶっ」
怪人クラムボンは自分の身体に起きていることが信じられないかのように、激痛に身を捩らせながら右腕を虚空に振りかざしている。
「……はえ?」
魚川が素っ頓狂な声を発した。
目の前のガキが、自分の"凶器"である化け物と同じかあるいはそれ以上の異常な力を見せたからだ。
「て、手前ら、何なんだ……!? 人間じゃねえのか!」
危機感を覚えた魚川は、さらに怪人クラムボンを煽ろうとする。
だが、遅すぎた。
初撃で紡を仕留め損ない、右手を黄金の猛毒に蝕まれたことで極限の昂奮状態にあった怪人にとって、目の前で喚き散らす危険物は、もはや敵わない相手ではなかった。
「え?」
怪人クラムボンの右腕が、白煙を上げながら魚川の身体を薙ぎ払った。
悲鳴を上げる暇さえなかった。生き物を虐げストレス発散の道具として利用してきた男は、他ならぬ自分が作り出した怪物によってあっけなく物言わぬ肉塊へと変えられた。
「紡、やるっきゃない」
「ええ」
燦華はヘルメットを被り、フルフェイスの仮面の奥で覚悟を決める。
空装サンカ。
骸装クローラー。
二人は、いつもの即席の鎧を纏い、怪人クラムボンに立ち向かった。
燦華の手には、使い慣れた除雪用スコップ。
彼女の脳裏には、クマに脳天を砕かれた時のあの不快な感触が染み付いている。たとえ魚川のような人間であっても、目の前でしかもこんな形で死なれたら古傷が疼く。
(……怖い。でも、今は特撮だ。私は今、特撮の中にいるんだっ……!)
燦華は裂帛の気合を叫びながら、怪人クラムボンの懐に飛び込んだ。
スコップの刃が怪人の脇腹を斬る。しかし、怪人クラムボンの反撃も凄まじい。
サンカの腕が、クローラーの脚が、怪人クラムボンの爪に引き裂かれ、筋骨隆々の手足に抉られる。
それでも、今の二人は止まらない。
黄金の光が舞う。
喪われたはずの血肉なら、激痛とともにたちまち修復される。
死を超越し、異形へと堕ちた少女たちは、その痛みさえも生きる力に変えて戦い続けた。
しかし、しばらくすると戦況は膠着した。
「もしかして、この子……真似てる?」
燦華は愕然とした。
怪人クラムボンは、燦華たちの自己再生を目の当たりにし、その性質を自身の能力としてフィードバックし始めていた。
元より生命の危機に際して小生物と大柄な怪人の姿を切り替える生き物だ。その生命の危機が簡単には解決できないならすぐに耐性を得てもおかしくはない。
特撮にも、そのような厄介な特質を備える怪獣や怪人はままいるものだ。
スコップで付けた傷が、瞬時に塞がる。金蚕蠱の毒液を浴びせても、先ほどまでのような効果を与えられない。
力には力。再生には再生。
このままでは千日手に陥る。
「……紡、駄目だ。正攻法じゃ多分どうしようもない」
そう言いながら燦華は突然、スコップを下ろした。
「サンカ? 危ないです、まだ痛い思いをしますよ」
紡が制止するが、燦華は怪人の目前でヘルメットを脱ぎ、フルフェイスの下に隠した素顔を晒した。
「クラムボンは、きっと周りの感情を鏡にする生き物なんだよ。あの男がぶつけた悪意が、この子を怪人にした」
燦華は、震える足で怪人クラムボンに一歩近づいた。
傍らでは、ずっと怯えていたもう一匹のクラムボンが必死に手を振っている。
「……いいんだ。もう、怖くないよ」
燦華は、生身の腕を広げた。
怪人の爪が彼女の喉元にある。一振りで彼女の首は刎ね飛ぶだろう。
紡は燦華の背後でスコップを握り締め、いつでも怪人の首を撥ねる構えをしていた。紡にとって燦華の平穏を脅かす者はすべて外敵に過ぎない。
だが、燦華の瞳は真っ直ぐだった。
「ごめんね。怖かったよね」
燦華は、ぬめりけのある怪人の巨体を、優しく抱擁した。
(……もし、これで駄目だったら、それまでだ。最悪でももう私が死ぬことはないはずだ。でも、特撮ヒーローやクリーチャーは、時には戦わずに心を救うんだから。"本当は敵なんかいない"って)
怪人の呼吸が、荒い荒いものから、次第に落ち着いた泡の音へと変わっていく。
殺気。憎悪。恐怖。
魚川が植え付けた悪意の毒素が、燦華の慈愛という名の解毒剤によって浄化されていく。
紡は、それを見て、ゆっくりと武器を下ろした。
不死の少女の中にある蠱毒の意志は、ややもすると同類を葬ることを拒んだのかもしれない。それとも、自分たちと同じ社会の片隅(アンバランスゾーン)にしかいられない怪物を見捨てることが、自分たち自身を否定することに繋がると、理解していたのかもしれない。
やがて。
怪人の巨大な体躯は霧のように霧散し、そこには一匹の、小さくて白い不思議な小動物が残された。
クラムボンB。
それは、再び「わらったよ」と言わんばかりに、燦華の腕の中で眠りについた。
数日後。燦華のアパート。
「……食費、ちょーっとやばい」
燦華は、家計簿を見つめて溜息をついた。
部屋の隅では、二匹のクラムボンが仲良く並んで、紡が買ってきたお高いドッグフードを奪い合っている。
「ラビちゃんが前に案件で紹介なさってたんですよー。持つべきものは縁、縁もたけなわゲートウェイってところですね」
紡は燦華ではない推しのバーチャルライバーが紹介していたというドッグフードを買ってきたらしい。
その金は他ならぬ燦華の手取りから出ているのだが。
「紡ぃ、せめて働いてから調子のいいことを言ってくれ。いくら自分はものを食べなくていいからって」
その言葉に紡の微笑みがひきつる。
燦華は慌てて物言いを和らげて訂正した。もしかしたら紡は食事を摂らなくていい体質なのを気に病んでいるかもしれないと思ったのだ。
「いや、ごめん紡。ただ、ご利用は計画的に」
右手の親指と人差し指で円を作るジェスチャーをしながら言った。
「ごめんなさい燦華。わたくしが燦華を顧みずにお金を使ったのが悪いのです。必ずや返します」
素直に謝る紡の目元は、確かに鈍く黄金の光を湛えていた。
あの夜の後、魚川の死は謎の猛獣による襲撃事件として処理された。一方で彼の着服やハラスメントが次々と発覚し、世間では「因果応報」「残念でもないし当然」と囁かれている。
燦華たちは、その裏側で、二匹の小さなクリーチャーを抱えて生きていくことを選んだ。
「サンカ、Bちゃんも、わらってます」
紡が、少しだけ口角を上げた。
「……そうだね。よかった。——この子たちが、化け物に戻らなくて済む世界を、守っていかないとね」
燦華は、自分の顔面にある本当ならクマに抉られていただろう箇所を撫でた。
皮膚は綺麗に戻っているが、その内側で金色の命が孤独に蠢いている。
人間に戻ることは、もうないだろう。
けれど、この怪物たちの箱庭を守るためなら、自分は何度でも空想の鎧を纏える。
「さてと、紡。日曜の朝が始まるよ。クラムボンたちにも座ってもらえたら」
「はーい。……今日は、ヒーローが勝つ回?」
「多分ね。でも、負けた怪人や悪の戦士が最期に輝くといいな」
テレビから流れるシックな主題歌。
四つの異形が集う六畳一間のアパートは、今日も世界の片隅で、静かに、そして確かに息づいていた。
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