第2話 ​「アンバランスな現実 〜Why do monsters appear?」 金蚕蠱 登場

​「——現在も、地元猟友会による入山は制限されています。現場付近は閑静な住宅地であり、発砲による二次被害の懸念、および動物愛護団体からの抗議声明を受け、市当局の判断は……」

​介護福祉施設『ひかり』の休憩室。安っぽい合成皮革のソファに深く腰掛け、井上燦華(いのうえ さんか)は、古ぼけた液晶テレビが映し出すニュースを、苦い泥を飲み込むような思いで見つめていた。

​画面の中では、顔の半分を白い包帯で覆った老人が、震える声で恐怖を語っている。農作業中に背後から襲われ、一生消えない傷と、視力の半分を失ったという。老人の節くれだった手は、膝の上で所在なげに震えていた。

​「……かわいそうにねぇ。お巡りさんも、おいそれと鉄砲撃てないんじゃどうしようもないじゃない。ねぇ、燦華ちゃん」

​同僚の年配職員が、温まったほうじ茶を啜りながら溜息をつく。燦華はすぐには答えず、コンビニで買った冷たいコーヒーを喉に流し込んだ。

「そう、ですね」

短く、それだけを答えた。

​街に現れたのは、一頭のツキノワグマだった。

例年にない凶作による食糧不足か、あるいは無秩序な森林開発による棲息域の分断か。理由は諸説あるが、確かなのは、その獣が"生存"という剥き出しの本能のために、人間との境界線を踏み越えたということだ。

​(怪獣と同じだ)

​燦華の脳裏に、彼女の魂を灼き続ける特撮作品の断片がフラッシュバックする。

怪獣たちは、しばしば環境破壊や核実験、あるいは人間の傲慢さに対する"この世界の免疫反応"として現れる。彼らは必ずしも明確な悪意を持って現れるのではない。ただ、そこに在るだけで既存の社会秩序を破壊し、蹂躙してしまう。古来より語り継がれる、人の理に服さぬ存在——"まつろわぬもの"なのだ。

​燦華は、その孤独な獣の現実に、かつての銀幕で見た何百何千もの怪獣たちを重ね、奇妙な共感を抱いていた。あの悲劇的な結末を辿った密林の王者や、核熱に苛まれた怪獣の中の怪獣。彼らもまた、ただ生きていただけではなかったか。

​だが、一方で彼女の現実——介護職員としての日常は、その共感を残酷に否定する。

施設で自分が日々支えている、脆く儚い老人たちの肉体。それを一瞬で蹂躙し、ささやかな人生さえも奪い去る無慈悲な爪と牙。

空想の中の純粋な怪獣愛と、現実で起きている凄惨な被害。

そのアンバランスな重みが、燦華の胸をじりじりと、焦がすように焼いていた。

​「サンカ、帰るんですか?」

​職場の更衣室。狭いロッカーの前で私服に着替えていると、背後に気配もなく紡(つむぎ)が立っていた。

「うわっ! びっくりした……。紡、職員でもないのにどうやって入ってきたのよ。また裏口の鍵、勝手に開けた?」

「神出鬼没なのですよ、わたくしは。鍵などという概念は、わたくしの前ではあまり機能しません」

紡は抑揚のない声で、事もなげに答える。その透き通るような白い肌と、どこかこの世のものとは思えない黄金色の瞳は、蛍光灯の下でいっそう際立っていた。

​燦華は呆れながら、バッグを肩にかけた。

「誰かに見つかる前にさっさと出な。……ま、今日はちょっと寄り道してから帰るから」

​燦華のバッグの中には、重々しい金属の感触があった。

前回の強盗事件の後に、二度と使うまいと封印したはずの、あの"空装"を起動するための鍵。

現実の不条理に対し、無力な人間が唯一持つことができる抵抗の証だった。


​「クマの出没地点、目撃情報のタイムスタンプ……。直近三件の動線を見ると、全部この遊歩道の裏に繋がってる。ここは古い果樹園の跡地があって、死角が多い」

​アパートの六畳一間。燦華は床いっぱいに広げた地図と、ネットの目撃情報を照らし合わせ、緻密なプロット図を作成していた。

昼は介護、夜はバーチャルライバー。その合間を縫って行う"怪獣調査"。

彼女はかつて、特撮作品のロケ地を特定するために、数千枚の風景写真と地形データを解析する"聖地巡礼の鬼"だった。オタク特有の異様な執念と分析能力を、今度は現実の"害獣"という名の怪獣の追跡に注ぎ込んでいた。

​「サンカ、また『それ』やるんですか?」

紡が、床に広げられた自作の防刃パネルと、強化プラスチックを加工したヘルメットを見つめる。

​「……放っておけないんだよ。警察も猟友会も、今のところルールと世論の板挟みで動けないなら、誰かが狭間に立てばいい。怪獣と人間の、丁度真ん中にさ」

​燦華は、新しく購入した熊撃退スプレーのラベルを指でなぞった。一本二万円近くする高濃度カプサイシン配合の高級品。今の彼女にとっては、どんな限定版の可動フィギュアや高価なソフビ人形よりも、実効性のある"救済"に近い価値があった。

​「怪獣が、ただの害獣として、誰からも憎まれながら殺されるのは耐煮え切らない。かと言って、私の知ってるおじいちゃんやおばあちゃんが、これ以上傷つくのは、もっと耐えられない」

​燦華の声は、微かに震えていた。

彼女がやろうとしているのは、綺羅びやかなヒーローショーではない。

言葉の通じない、理屈も通じない、圧倒的な野生との対峙だ。

自分はただの人間。少しばかり特撮が好きなだけの、非力な女だ。そんなことは、骨身に沁みて分かっている。

​「……わたくしも行きます。サンカと、一緒に行きます」

​紡の淡々とした言葉が、燦華の背中を静かに押した。

紡には、死や負傷に対する恐怖という感情が決定的に欠落しているように見えた。あるいは、燦華という"熱源"の側にいることだけが、彼女にとっての世界の唯一の形なのかもしれない。

​二人は再び、自作の装甲を身に纏った。

空装(くうそう)サンカ。

骸装(がいそう)クローラー。

それは、現実の巨大な不条理に抗うための、あまりにも薄く、頼りない——けれど、彼女たちにとって唯一の"空想"だった。


​深夜、住宅街の最端。

外灯の光も届かない、鬱蒼とした茂みの奥から、その音は聞こえてきた。

​「くちゃ、ぐちゃ」

​鼻を突くような獣臭。そして、何やら硬いものを咀嚼する、粘り気のある不快な音。

燦華はヘルメットのシールド越しに、暗視ライトを慎重に向けた。

​闇の中に浮かび上がる、巨大な黒い質量。

推定体重百二十キロ。立ち上がれば成人男性を優に超える、筋肉と毛皮の塊。

ツキノワグマ。

​クマは、民家の玄関先に置かれたポリバケツを無惨に破壊し、中の生ゴミを漁っていた。その家には、燦華が仕事で何度も訪れたことのある、独居の老婆が住んでいる。足が悪く、耳の遠い、いつも燦華に飴玉をくれる優しい老婆だ。

​(窓が、開いてる)

​住宅の二階、換気のために少しだけ開けられた窓。クマはゴミを食い散らかすと、その鋭い嗅覚で家の中にいる獲物を感知したのか、前脚を壁にかけ、家の中を覗き込もうとした。

​(ダメだ! 行かせない……!)

​燦華の脳裏で、何かが弾けた。

介護施設で、自分に「燦華ちゃん、いつもありがとう」と笑ってくれる、あの皺くちゃな手。それが、一瞬で引き裂かれ、血に染まる光景。

特撮ヒーローなら、ここで華麗な必殺技を放つだろう。だが、彼女にはそんな力はない。あるのは、勇気という名の無謀だけだ。

​「おい! こっちだ、お前!」

​燦華は叫び、茂みから飛び出した。

スコップを手に持ち、付近のガードレールを力一杯叩き、激しい金属音を鳴らす。

「こっちを見ろ! 私はここだ! そっちに行くな!」

​クマが、ゆっくりと巨体を反転させた。

その暗い瞳には、特撮の怪獣にあるような分かりやすい意志も、人間に向けた敵愾心もなかった。

ただ、自分の食事を邪魔する異物を排除し、肉として糧にしようとする、純粋で冷酷な生物学的反応。

​「ぐおおおおおおおお」

​空気が震えた。

咆哮。

それは、いかなるボイスチェンジャーや音響効果でも再現不可能な、魂の底を直接凍りつかせるような重低音。

燦華の膝が、がちがちと音を立てて震え始める。

​(……違う。これは、特撮じゃない。特撮じゃないんだ)

​前回の強盗犯を相手にした時とは、根本的な次元が違った。

目の前にいるのは、法も倫理も、そして脚本も演出も存在しない。

ただ"死"という結果だけを運んでくる、剥き出しの現実という名の怪獣だ。

​クマが地面を蹴った。

時速四十キロを超える爆発的な突進。百キロを超える筋肉の塊が、目にも止まらぬ速さで迫る。

「まじかっ!」

燦華は必死に熊撃退スプレーを噴射した。

​オレンジ色の霧が、クマの顔面を覆う。

だが、運悪く風向きが変わった。あるいは、クマの突進の勢いが、カプサイシンの刺激を上回ったのか。

激痛に激昂したクマは、止まるどころか、凄まじい力で燦華に飛びかかった。

​「がはっ……!」

​衝撃。

防刃パネルを何枚も重ねていたにもかかわらず、燦華の肋骨が飴細工のようにひしゃげる感触が伝わった。

燦華の身体はまるで紙屑のように吹き飛ばされ、コンクリートの塀に叩きつけられた。

がしゃり、と嫌な音がしてヘルメットのマスクが割れ、たちまち視界が赤く染まる。

​「あっ、ああっ」

もう、まともな声は出ない。肺が潰れ、呼吸ができない。

クマの巨体が、倒れた燦華の上に覆いかぶさる。

鼻を突く野性の体臭。生暖かい吐息。

燦華は見開かれた眼で見た。自分を押し潰す、巨大な鉤爪が、月光を反射して振り上げられるのを。

​(……やっぱ、だめか)

​空想は、現実の爪の前では、あまりにも、あまりにも無力だった。

燦華の意識は、劇しい痛みが脳髄を圧し潰すと同時に、二度と還ることのない深い影へと沈んでいった。


​「サンカ。サンカ。死んだんですか……?」

​紡は、地面に広がる真新しい血の海の中で、物言わぬ肉塊と化した燦華を見つめていた。

燦華の腹部は無惨に引き裂かれ、頭部に至ってはヘルメットごと砕かれ、もはや人間の形を保っていない。

普通の人間なら、ここで絶望し、叫び、逃げ出すだろう。

​だが、紡は違った。

彼女の黄金色の瞳には、涙も、悲嘆も、恐怖もなかった。

ただ、この世に三人しかいない"自分の寄生先"であり、数少ない理解者であった存在を失ったことへの、静かな、そして絶対的な拒絶。

​「……駄目ですよ。サンカは、わたくしの。……"絶対"に助かります」

​紡が、ゆっくりとヘルメットを脱ぎ捨てた。

彼女の背中から、そして透き通るような指先の隙間から、禍々しくも神々しい黄金の光が滲み出した。

みるみる内に骸装クローラーの——紡の華奢な身体が、鈍い黄金の輝きを放つ外骨格を纏って膨張していく。

金色のカイコガの幼虫を思わせる、生物的ではあるが明らかに地球上の進化系統から逸脱した、異形の怪物。

​古の呪術に名を残す、最強最悪の蠱毒。

金蚕蠱(きんさんこ)。

​紡の身体が、一瞬で"本物の怪物"へと変貌した。

​「…………」

黄金の怪物は、一切の声を出さず、ただ冷徹な気魄だけを放射する。

体表からは極細の黄金の糸が噴き出し、少女の形を異形の戦士へと編み上げていく。

それは燦華が憧れた、特撮における怪人めいていて、それでいて圧倒的な実在感を伴っていた。

​燦華の死体から臓物を貪り始めていたクマが、背後に現れたより上位の捕食者の気配に気づき、血に濡れた口を開けて唸り声を上げた。

だが、黄金の人型はクマが反応するよりも速くその頭部を一瞬で掴み取った。

野生の膂力を遥かに超越した、異次元の残虐な力。

​「……これ以上、サンカをぐちゃぐちゃにするな」

​金蚕蠱の指先が、クマの強固な頭蓋骨を、まるで熟れすぎた果実のようにいとも容易く握り潰した。

ぐちゃ、という嫌な音が闇に響く。

断末魔の声さえ上げる間もなく、現実の怪獣はただの物言わぬ肉塊へと成り果てた。

​金蚕蠱は、たった今命を奪ったクマには一瞥もくれず、原型を失いつつある燦華の死体に駆け寄った。

怪物は、自らの左胸——心臓があるはずの場所を、躊躇いなく鷲掴みにした。そして鋭い爪で勢いよく自らの肉をちぎり取り、燦華の露出した腹部へと優しく置いた。

続いて、左手で自らの右首を掴み、その黄金の肉をちぎり、砕かれた燦華の頭部へと塗り込んだ。

​「サンカ。……サンカ。いつもいつでもいつまでもお慕いしています。サンカ。だから死んだら駄目」

​紡の呪詛のような愛の言葉に従うかのように、燦華の死体の傷口に、黄金の肉片が脈動しながら潜り込んでいく。

引き裂かれた臓器が、粉砕された頭蓋が、地面に流れ出した血液が。

紡の命そのものを分け与えるように、物理法則を無視した再生が始まった。

ばきばきと骨が繋がる音が響き、欠損した皮膚が黄金の糸によって縫い合わされていく。

​ほどなくして。

燦華の喪われたはずの心臓は、再び力強い命の鼓動を打ち始めた。

しかし、その鼓動は以前のそれとは決定的に違う。

それは黄金の毒を宿し、もはや人間であることを否定された、永遠に続く孤独な命。


​燦華が再び目を開けたとき、視界には白々とした朝日が昇り始めていた。

​「……あ、え……?」

​身体を起こすと、全身のあちこちに、乾きかけた赤黒い血がこびりついている。

だが、痛みはどこにもない。

昨夜、確かに感じた、あの"死"の絶対的な冷たさ。骨が砕け、肉が裂かれた生々しい感触。

それらは全て、質の悪い悪夢だったかのように、彼女の肌は滑らかに、以前よりも瑞々しく再生していた。

​「……サンカ。おはようございます」

​隣で、紡がいつも通りの少し気怠げな顔で、ちょこんと正座をしていた。

その傍らには、頭部を完全に喪失し、見る影もなく潰されたツキノワグマの死骸が転がっている。

​「……紡。紡が、……助けてくれたの?」

「ええ。……わたくしが、なおしました。もう死にませんよ、サンカも」

​燦華は、自分の震える手を見つめた。

朝日に透かした指先。爪の端が、一瞬だけ、妖しく黄金色に輝き、すぐに消えた。

自分の血管の中を、自分のものではない何かが、熱を持って流れているのを感じる。

​不老不死。

それは特撮番組のキャラクターたちもまた時に望まずに背負わされる、あまりにも重く孤独な呪い。

​「そうか。……私は、もう」

​燦華は、笑ったのか、それとも泣いたのか、自分でも分からなかった。

クマは駆除された。近所のおばあちゃんは、守られた。

けれど、その代償として、自分はもう、あの弱くて儚い、愛すべき愚かな人間には戻れなくなったのだ。

​目の前にある、圧倒的な暴力の証。

クマという現実の怪物を、紡という本物の怪物が駆逐した。

そのアンバランスすぎる現実に、自分もまた、逃れようもなく紡ぎ込まれてしまった。

​「紡。……ごめん。でも、ありがとう」

​燦華は、震える手で紡の細い身体を抱きしめた。

紡の身体は、まるでこの世の生命ではないかのように、冬の氷のように冷たかった。けれど、その絶対的な冷たさだけが、今の燦華にとって、唯一信じることのできる命の手触りだった。

​「これからも一緒です、サンカ。二人でいましょう。この美しくない、けれども美しい現実の世界で」

​紡の囁きに、燦華は無言で頷いた。

朝焼けに照らされた二人の影は、長く、不気味に、けれどどこか美しく、コンクリートの路面に伸びていた。

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