第3話「5月の緩みと、愛の説教」
ゴールデンウィークという、学生にとっての短い楽園が過ぎ去った5月中旬。
北海道の遅い春はようやく本気を見せ始め、窓の外には新緑が眩しく輝いている。
けれど、ここ私立白雪高等学校の第二調理室だけは、外界の爽やかな空気とは無縁の、張り詰めた緊張感(と、一方的な熱視線)に支配されていた。
放課後の調理室。
ステンレスの作業台を挟んで向かい合うのは、私こと氷室玲奈と、運命の愛人――もとい、部員第一号の日向太陽くんだ。
(ああ……今日も最高に素敵……!)
私は真顔で腕を組みながら、心の中で絶叫していた。
少し猫背気味に縮こまった背中。
私の視線を感じてビクビクと震える小動物のような仕草。
そして何より、少し大きめのエプロンから覗く細い腕。
その全てが私の庇護欲を刺激してやまない。
四月の入部当初は、私と目が合うだけで石化したように固まっていた彼だけれど、最近はようやく「同じ空間に酸素を吸う人間がいる」程度の認識には慣れてくれたようだ。
今も、私の指示に従って黙々と鶏肉の下処理をしている。
「……手元、見てるから」
私は努めて冷静に、指導者としての威厳を保ちながら声をかけた。
本当は「頑張ってる姿を1秒たりとも見逃したくないから、瞬きもせずに録画(網膜保存)してるね!」と言いたいところだけれど、そんなことを口走れば彼がオーバーヒートしてしまう。
私はあくまで「氷の女帝」。
クールで知的な部長として振る舞わなければならないのだ。
「は、はいっ! 善処します……!」
太陽くんの声が裏返る。
ふふ、可愛い。
今日のメニューは、北海道民のソウルフード「ザンギ」。
ただの唐揚げではない。
醤油、酒、すりおろした生姜とニンニクをたっぷりと効かせた、濃いめの味付けが特徴だ。
このガツンとした風味が、男の子の胃袋を掴むのに最適なのはリサーチ済みである。
彼の手元には、スーパーで厳選したプリプリの鶏もも肉。
まずはこれを食べやすい大きさにカットする工程なのだが――。
(……あれ? ちょっと危なっかしいかな?)
私の脳内フィルター越しに見れば、彼が包丁を握る姿すら「いじらしくて尊い」映像なのだが、客観的に見ると少々ヒヤヒヤする手つきだった。
鶏皮のヌルヌルとした感触に苦戦しているのか、包丁の刃が入るたびに、食材が逃げるように動く。
「……」
私は無言で、カツ、カツ、とローファーのヒールを鳴らして一歩近づいた。
近づいて、彼の手元を覗き込む。
ただそれだけの動作なのに、太陽くんの肩がビクッと跳ね上がった。
(大丈夫よ、落ち着いて。私がついてるんだから)
心の中でエールを送る。
けれど、私の「見守り」が強すぎたのだろうか。
あるいは、連休明けで彼の気が緩んでいたのか。
彼が次の肉片に包丁を入れようとした、その瞬間だった。
ニュルッ。
脂の乗った皮に刃が滑り、包丁の軌道がぐらりとブレた。
切っ先が、肉を押さえていた彼の人差し指をかすめるような、危うい角度を描く。
「あ」
彼の口から、間の抜けた音が漏れる。
ほんの一瞬。
けれど私には、その一瞬がスローモーションのように見えた。
もし、あのまま刃が滑っていたら?
もし、あの綺麗な指先に、赤い傷跡が刻まれてしまったら?
想像しただけで、背筋が凍りつくような悪寒が走り――その直後、心臓が破裂しそうなほどの「心配」が爆発した。
――ダンッ!!
私は反射的に作業台を強く叩き、身を乗り出して彼の手首を掴んでいた。
「ひいっ!?」
太陽くんが悲鳴を上げて硬直する。
私は彼の手からスッと包丁を取り上げると、それをシンクの横へと遠ざけた。
心臓がバクバクといやな音を立てている。
怖かった。
本当に怖かった。
大切な、世界で一番大切な彼が、私の目の前で怪我をするなんて耐えられない。
この「心配」と「恐怖」をどう伝えればいいの?
もっと気をつけてほしい。
自分を大切にしてほしい。
私のために、怪我なんてしないでほしい。
様々な感情がない交ぜになり、私の脳内CPUは処理落ち寸前だった。
結果、口から出たのは、極限まで圧縮された「警告」の言葉だった。
「……指、切り落としたいの?」
私の声は、自分でも驚くほど低く、地を這うような冷気を帯びていた。
『指を切り落とすような事故になりたいの?(=気をつけてよ!)』という文脈だったはずが、あまりの動揺で主語も述語も抜け落ちてしまった。
作業台の向こうで、太陽くんの顔色がサァーッと青ざめていくのが見える。
瞳孔が開き、呼吸が浅くなっている。
あ、反省してる。
自分の不注意を深く恥じている顔だわ。
(うんうん、わかってくれたならいいの。包丁は便利な道具だけど、一歩間違えば凶器にもなるんだから。その緊張感を忘れないでね)
私は彼の手首を握っていた手をゆっくりと離し、安心させるように(つもりで)口角をわずかに上げた。
「……ワンミス。次は、ないから」
『一度目のミスだから許すわ。次は気をつけてね』 そう伝えたつもりだった。
しかし、私の目の前で震える太陽くんは、なぜか「死刑宣告の執行猶予」を言い渡された囚人のような目で、何度も何度も首を縦に振っていた。
「は、はい……! 肝に銘じます……!! い、命だけは……!」
なぜか命乞いのような言葉が聞こえた気がしたけれど、多分、料理に対する真剣な決意表明なのだろう。
よし、これで気合も入ったはず。
けれど私はまだ知らない。
この「ワンミス」による極度の緊張が、彼から冷静さを奪い、さらなる悲劇――「ツーミス」を引き起こすトリガーになることを。
調理室に、重苦しい静寂が満ちていた。
聞こえるのは、換気扇の低い唸り声と、コンロの上で熱され始めた揚げ油の微かな音だけ。
「ワンミス」の警告以降、太陽くんの動きは劇的に変化していた。
まるで精密機械のように、カク、カク、と直角的な動きを繰り返している。
背筋は定規が入ったように伸び、視線は一点に固定され、瞬きの回数すら極端に減っているように見えた。
(すごい……! なんて集中力なの!)
私は腕を組み、作業台の端から彼を見守りながら、胸の内で感嘆の声を上げていた。
さっきの私の指導(警告)が、これほどまでに彼のやる気に火をつけるなんて。
無駄な動きが一切ない。
いや、なさすぎて若干ロボットみたいだけれど、それもまた可愛い。
真剣な横顔に見惚れながら、私は揚げ鍋の温度計をチェックした。
針は170度を超え、適温である180度に近づいている。
いよいよ本番だ。
下味をつけた鶏肉に片栗粉と小麦粉をまぶし、熱々の油へと投入する。
ザンギの命運を分ける重要な工程だ。
「……温度、よし。始めて」
私は短く許可を出した。
私の声が合図となり、太陽くんがビクッと肩を震わせてボウルに手を伸ばす。
(頑張れ、太陽くん。焦らなくていいのよ)
心の中で応援旗を振る。
けれど――私の願いとは裏腹に、彼の動きはどこか性急だった。
まるで「早く終わらせなければ命がない」とでも思っているかのように、彼はボウルの中の鶏肉を鷲掴みにした。
「失礼します……!」
彼は悲壮な決意を込めて呟くと、鶏肉を掴んだトングを持ち上げた。
その瞬間。
私の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
ボタッ、ボタッ。
トングの先にある鶏肉から、下味のタレが滴り落ちている。
粉のつけ方が甘い?
いや、それ以前に水分を切りきれていない!
しかも、彼の視線は私の顔色を伺うことに必死で、手元の鶏肉が「水爆弾」と化していることに気づいていないようだった。
180度の油。
そこに、大量の水分を含んだ肉塊が投入されたらどうなるか。
答えは明白だ。
水蒸気爆発。
高温の油が四方八方に飛び散り、至近距離にいる彼の無防備な顔や首筋を襲うだろう。
(――危ないッ!!!!)
思考よりも先に、本能が警報を鳴らした。
言葉で説明している時間はない。
「止まって」なんて言っても、極度の緊張状態にある彼の耳には届かないかもしれない。
なら、体で止めるしかない。
私は床を強く蹴った。
ローファーが調理室の床を噛む音と共に、私は弾丸のように彼との距離をゼロにした。
「――っ!!」
ドンッ!!
衝撃音が響く。
私は彼の体を思い切り突き飛ばす――いや、正確には、彼の腕を掴んで強引に自身の背後へと引きずり込み、油の射程圏内から遠ざけたのだ。
勢い余って、彼の手からトングが離れ、ガシャアン!とステンレスの床に派手な音を立てて転がる。
「ひいぃっ!?」
太陽くんの短い悲鳴。
彼は何が起きたのか理解できず、腰を抜かして床にへたり込んでいた。
私もまた、肩で息をしながら彼を見下ろしていた。
心臓が早鐘を打っている。
あと一秒、遅かったら。
彼の美しい顔に、一生消えない火傷の痕が残っていたかもしれない。
想像しただけで吐き気がするほどの恐怖。
そして、その恐怖は瞬く間に、彼を守りたいという強烈な「怒り」へと変換された。
どうして! どうして自分の体を大切にしてくれないの!?
私がどれだけあなたを大切に想っているか、わからないの!?
感情の奔流が、私の冷静さを粉々に吹き飛ばした。
私は鬼の形相で、床に転がる彼に向かって叫んでいた。
「バカ!!!!」
調理室の空気がビリビリと震えるほどの大声。
普段の私からは想像もつかない怒号に、太陽くんが「ひっ」と喉を鳴らして縮み上がる。
けれど、私の口は止まらなかった。
溢れ出る愛と心配が、脳内の翻訳機を通さずにそのまま出力されていく。
「顔に火傷でもしたらどうするの!? 一生残る傷がついたら……取り返しがつかないのよ!?」
(あなたの綺麗な顔に傷がついたら、私は悲しくて死んでしまうわ! お願いだからもっと慎重になって!)
そう伝えたかった。
涙が出るほど心配していることを、わかってほしかった。
しかし、現実は非情だ。
私の視界には、恐怖で顔を引きつらせ、床を這って後ずさりする太陽くんの姿があった。
彼は私の言葉を、全く別の意味で受け取っているようだった。
「す、すみません、すみませんっ!! 顔だけは……顔だけは勘弁してくださいぃぃっ!!」
彼は両手で顔を覆い、必死に防御姿勢を取っていた。
……あれ? なんだか噛み合っていない気がする。
私は「火傷したら大変」と言ったのだけど、彼の反応はまるで「顔を焼かれる」と脅された人質のようだ。
けれど、今の私にはその誤解を丁寧に解いている余裕はなかった。
まだ心臓がバクバクしているし、アドレナリンが出すぎて指先が震えている。
この興奮状態を鎮めるには、彼に徹底的に「安全管理(愛)」を叩き込むしかない。
私は深く息を吸い込み、ゆっくりと、彼に歩み寄った。
カツ、カツ、カツ。
倒れた彼を見下ろす私の影が、夕日の中で長く伸びて、彼をすっぽりと覆い隠した。
「……立って。まだ話は終わってないわ」
これが「ツーミス」。
次はもう、許さない。
私は彼を壁際へと追い詰めるべく、氷点下の瞳で彼を見据えた。
腰を抜かしたままの太陽くんを立たせ、私は彼を調理室の隅――冷蔵庫と食器棚の間のデッドスペースへと誘導した。
逃げ場はない。
彼が背中を壁につけたのを確認し、私はその顔の横の壁に、ダンッ!と手をついた。
いわゆる「壁ドン」である。
(きゃああああ! やっちゃった! 憧れの壁ドン!)
私の脳内お花畑では、ファンファーレが鳴り響いていた。
少女漫画で読んだ、「真剣な眼差しで相手を諭すシチュエーション」。
これをやる日が来るなんて。
至近距離で見上げる太陽くんの顔は、涙目で潤んでいて、庇護欲をさらに掻き立てる。
小動物が天敵に追い詰められた時のような、儚い美しさがあった。
けれど、今は浮かれている場合ではない。
さっきの「ツーミス」は本当に危険だった。
彼に安全意識を徹底させなければ、いつか本当に取り返しのつかないことになる。
私は努めて表情筋を凍結させ、低いトーンで語りかけた。
「……わかってる?」
私の問いかけに、太陽くんがブンブンと首を縦に振る。
いや、振るのが速すぎて残像が見える。
「あんな危険なこと、もう二度としないで。私の目の前で、あなたが傷つくなんて……絶対に許容できない」
(あなたの体が傷つくくらいなら、私が代わりに油をかぶりたいくらいなのよ!)
という激重な愛のメッセージだった。
しかし、極度の緊張状態にある彼には、言葉の裏を読む余裕などなかったようだ。
彼は真っ青な顔で、まるで呪文のように言葉を繰り返した。
「は、はい……二度としません……傷つく前に……許容……うぅっ……」
よし、伝わったわね。
私は満足して、ゆっくりと彼から体を離した。
「わかればいいの。……次はないと思って」
念押しの言葉を残し、私はコンロへと戻った。
背後で、太陽くんが「ヒッ」と息を呑み、膝から崩れ落ちる気配がしたけれど、きっと安堵で力が抜けたのだろう。
そう、次はない。
次にあんな危険な目に遭わせたら、私の心臓が止まってしまうから。
「さあ、仕上げるわよ。こっちに来て」
私の号令に、太陽くんがふらふらと立ち上がる。
その動きは、先ほどまでのロボットのような硬さとは違い、どこか「悟り」を開いたような、あるいは「死刑台に向かう囚人」のような重々しさがあった。
揚げ作業再開。
今度は私が主導し、太陽くんには補助に回ってもらう。
ジュワアアアアア……! 高温の油に鶏肉が入るたび、食欲をそそる低い音が響く。
醤油と焦げたニンニク、そして生姜の鮮烈な香りが、換気扇の処理能力を超えて調理室に充満していく。
これぞ北海道の香り。ザンギの香りだ。
太陽くんは、私の横で直立不動のまま、油の跳ねる音にいちいちビクッ、ビクッと反応している。
その様子を見ながら、私は確信した。
(ちゃんと怖がってくれてる。火の怖さを知ることは、料理人への第一歩だものね)
数分後。
こんがりと狐色に揚がったザンギが、バットの上に山盛りに積み上げられた。
衣はカリッと硬めで、見るからにクリスピー。
その隙間から、肉汁がじわりと滲み出ている。
完璧な仕上がりだ。
「……完成ね。食べてみて」
私は揚げたての一つを皿に乗せ、箸と共に彼に差し出した。
毒味役ではない。
一番美味しい瞬間を、彼に味わってほしいという純粋な奉仕の心だ。
しかし、太陽くんは箸を受け取ると、震える手でそれを持ち、しばらく凝視していた。
その瞳には、「これを食べたら終わりなのか?」というような、深淵な問いが浮かんでいる。
(熱いから冷ましてるのかな? 猫舌なところも可愛い)
私は黙って彼を見つめ続けた。
その視線に耐えきれなくなったのか、彼は意を決して、大きなザンギを口へと運んだ。
「い、いただきます……(これが最後の晩餐……)」
カリッ、ザクッ。
心地よい音が響く。
その瞬間、太陽くんの目が見開かれた。
口の中に広がるのは、熱々の肉汁と、濃いめの醤油ダレの爆発的な旨味。
ニンニクのパンチが脳を揺らし、生姜の爽やかさが脂っこさを中和していく。
恐怖で収縮していた胃袋が、その暴力的なまでの「美味しさ」によって無理やりこじ開けられていく感覚。
「う……」
太陽くんの目から、ツーと涙がこぼれた。
「う、美味い……!」
彼は絞り出すように言った。
それは、単なる感想ではなかった。
ツーミスという絶望的な状況、突き飛ばされた衝撃、そして「次はない(スリーアウト=処刑)」という恐怖。
それらを乗り越え、今、自分は生きている。
温かくて美味しいものを食べている。
その「生の実感」が、味覚を通して全身に染み渡ったのだ。
「美味い……すっごく、美味しいです……!」
彼は泣きながら、二口、三口とかぶりついた。
恐怖で味がしないどころか、恐怖というスパイスが、安全な食事の価値を極限まで高めているようだった。
「そう。よかった」
私はフッと笑みをこぼした。
泣くほど感動してくれるなんて、作り甲斐があるわ。
やっぱり、私の愛(料理)は彼に届いているんだ。
「たくさんあるから、残さず食べてね。……体、大きくしてほしいから」
(華奢なのも好きだけど、健康的な体になってほしいの) そんな願いを込めて言うと、太陽くんは涙でぐしゃぐしゃの顔で、必死に箸を動かし続けた。
こうして、5月の危機は去った。
ツーミスの代償として、太陽くんの心には「スリーアウト=即死」という強烈なトラウマが刻まれたけれど、それと引き換えに、彼は私のザンギの虜になった。
恐怖と食欲。
この二つがある限り、彼は私から離れられない。
私たちの絆は、今日もまた、油と肉汁によって強固に揚げ固められたのだ。
(ああ、今日も幸せ……!)
私は夕日に染まる彼の横顔を見つめながら、心の中で密かにガッツポーズをした。
氷の女帝と呼ばれる私ですが、脳内では彼への「好き」が暴走してサーバーダウン寸前です トムさんとナナ @TomAndNana
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